猪鍋
ふと、礼次郎は千蔵が部屋の隅で座っているのに気付いた。
「おい、千蔵、お前そんなところで何してるんだ? こっちで食べろよ」
「いえ、拙者は忍び、皆様が食事を終えた後にいただきます」
千蔵はポツリと言った。
礼次郎は不思議がって、
「何だそりゃ? 一緒に食べればいいじゃないか」
「某は家来であり、下人でございます。ご主君と共に食べるわけには行きません」
礼次郎はますます不思議がって、
「何でだよ? いいだろ別に。一緒に食べた方が美味いだろ」
「いえ、上田で源三郎様にお仕えしていた時にもこうでした。共に食べている時に敵に襲われては主君をお守りすることができませんので。源三郎様には、礼次郎様を自分だと思い、主君として仕えよ、と言われております。主君の命は絶対でございます」
そう言う千蔵の顔を、礼次郎はじっと見つめた。
「主君の命は絶対なんだな?」
「はい」
「じゃあ主君として命令する、こっちに来て一緒に食え」
「え……」
「主君の命は絶対なんだろ?」
「……」
「早くしろ。お前はオレを主君だと思ってもオレはお前を仲間だと思ってる。その仲間に後で一人で食べさせるなんてできるか。それに飯は一緒に食べる方が美味い。さあ命令だ、一緒に食べろ」
すると壮之介も同調して、
「そうだぞ、このわしも今や礼次郎様の家臣だが一緒に食べておる。見ろ、順五殿なんかは礼次郎様より先に箸をつけておる、ははは」
と豪快に笑うと、
「は、はあ……では失礼いたします……」
と千蔵は食事の輪の中に加わった。
壮之介が肉と野菜を碗によそって千蔵に渡した。
千蔵は箸を取って汁が絡み落ちる肉を口に運んだ。
どこか懐かしい出汁の香りが鼻腔に抜ける。
噛むと溢れ出す肉汁と優しい醤油味が暖かみと共に胃に落ちた。
「美味いだろ?」
礼次郎が笑うと、
「は、はい、良い味です」
そのやり取りを見て、清雲斎はにやっと笑った。
――成長してねえと思ったが、生意気にしっかり成長してやがったか。
満天の星の下、暗くなった城戸の夜。
囲炉裏の猪鍋を囲み、久しぶりの笑い声が崩れかけた館に響く。
「はい、煮豆と追加のお酒ですよ」
まだ少女の面影が残る女中のおみつが運んで来た。
「うん、ありがとう」
礼次郎が受け取ると、
「あ、あの」
おみつが少し顔を赤らめ、
「うん?」
「若殿、ご無事で何よりです」
「ああ、お前たちこそ苦労をかけてすまなかった」
礼次郎は申し訳なさげに言うと、
「い、いえ……久しぶりですから沢山召し上がってくださいね!」
おみつが照れながらも笑顔で言うと、そそくさと台所へ戻って行った。
それを見た順五郎が、
「なんだ? おみつはやけに嬉しそうだな」
とその背を見送って言うと、茂吉が、
「いやあ、若殿が生きておられたのが嬉しいのでしょう。何せおみつは、ふじがいた手前遠慮はしてましたが、密かに若殿を慕っておられましたからのう」
「え? そうだったのかよ!」
順五郎が驚いた。だが、すぐに、
「こんな面倒くさい若の何がいいんだか」
とからかうと、
「お前な。面倒くさいって何だよ」
「ははは……それにしても若もやるね~。ゆり様もいるしよ」
順五郎が言うと、礼次郎は少し慌てた素振りで、
「お、おい、何言ってやがる」
と言ったが、清雲斎はそれを聞き逃さなかった。
「お、お……お~? 何だそのゆり様ってのは? お前、おふじちゃんがいなくなったばかりだってのにもう次の女か?」
とニヤニヤしながら言った。
順五郎もにやつきながら言う。
「いや、若の許嫁ですよ。上田の真田家に匿われてる武田勝頼の娘なんだけど、これがまた可愛いんですよ」
礼次郎はどうしていいかわからないように視線を泳がせていると、
「何? 武田の姫さんで……許嫁か……そんなに美人なのか」
「ちょっと性格に癖があるけど、そりゃあもう美少女。しかもあの目つきは完全に若に惚れてるね」
「ほ~、生意気な……じゃあ礼次、娶るのか?」
清雲斎が言うと、礼次郎が、
「いや、許嫁と言っても父上が勝手に決めただけでオレは了承してません」
と真剣な顔になって言い、杯を口に運んだ。
すると清雲斎、
「じゃあ俺が上田に行ってもらい受けてこよう」
「ぶっ……」
礼次郎が盛大に酒を吹き出した。
礼次郎はむせて、
「何言ってるんですか!」
「お前そのゆりとか言う女は別にいらねーんだろ? お前にはもったいないようだし俺がもらい受ける」
清雲斎が意地悪気な笑いで言うと、
「それは駄目です!」
礼次郎はむきになって言った。
一同がシーンと無言になった。
「何でだ?」
清雲斎がすっとぼけながら聞く。
「それは……今オレはこんな状態だし……それに……」
礼次郎が口ごもっていると、清雲斎がニヤニヤしながら、
「お前、素直になれよ。実はそのゆりちゃんがもう好きなんじゃないのか?」
「何を言ってるんですか……オレにはふじが……」
「じゃあいいだろ。お前はいなくなっちまったおふじちゃんをいつまでも女々しく思ってろよ」
清雲斎がますます意地悪くニヤニヤ笑う。
「それは……」
「んー? 何だよ? 認めちまえ、お前本当はそのゆりちゃんが気になってるんだろ?」
「違います! オレはただ……」
そのやり取りを見て、壮之介は、
――なるほど、偏屈で剣客の間では嫌われてると言うのはこういうことか。
と苦笑しながらも、礼次郎に助け船を出した。
「そう言えば、明日からはどうしますか? 破壊はされてしまいましたが、徳川は占領していかなかったのでここに落ち着いて城戸家の再興を目指しますか?」
その言葉に、礼次郎は少しほっとした様子で、
「そうだなぁ。だが茂吉たちわずかな者が生き残っただけで国の根幹となる民がいなければどうしようもないし。しかもこのように荒れ果てたこの地を復興させるのは並大抵のことではない……まずは天哮丸を取り戻すのが先だ。早速明日からでも仁井田統十郎を追おう」
と言ったその言葉に、清雲斎が反応した。
――うん? 仁井田? どこかで聞いたことが……
壮之介は答えて、
「ではこの地はこのままに? 廃墟となり民はいないとは言え土地は土地。他の勢力が占領しようと攻め込んで来るやもしれません。そうなればいざ戻ろうとしても大変ですぞ」
「北条に怪しい動きがあるとの情報も耳にしております」
茂吉が不安そうに答えると、順五郎が、
「そうだ、倉本は若がここに戻ったってことを家康に報告するだろう。そうすれば家康は次は大軍で攻め寄せて来てここを占領しようとするんじゃないか?」
「確かにそうだな。じゃあ困ったな……どっちみち兵は無い。オレたちがここに残ったところで攻められたら一巻の終わりだ」
礼次郎が考え込んだ時、
「俺がここにいてやろうか?」
と清雲斎が言った。
「え? お師匠様が?」
「おう、ちょうど湯治にも疲れて少しゆっくりしたいと思ってたところだ」
「それはありがたいですが、でも流石のお師匠様とは言え一人では……左肩も不自由ですし」
「心配するな。それは考えがある」
「考え? そうですか……ではすみませんがお願いします」
この師匠のことだ、何かあるのだろう、と礼次郎は思った。
「おう、頑張れよ」
と清雲斎が言ったその時、
「う……!」
礼次郎は急にぶるっと身体を震わせ、後ろを向いた。
「若、どうした?」
「いや、何だろう? 何か急に風を感じたような……」
壮之介が箸を置いて心配した。
「またですか? 遠くのとんぼの羽音が聞こえたり、何もないのに地響きが聞こえたり……今日はそういうことが多いですな、早目に休まれた方がよいでしょう」
清雲斎はそれを聞くとピクッと眉を動かした。
「とんぼの羽音?」
清雲斎は杯を置くと、じっと礼次郎の顔を見た。
「目が少し血走っているな。礼次、お前夜はよく眠れてるか?」
「いや、最近はすぐに目が覚めがちです」
「時々物が大きく見えたり、水の流れがゆっくり見えたりしないか?」
「うーん、そう言えば時々そんなことがあります」
すると清雲斎、急に深刻そうな顔になり、
「お前、しばらく真円流は使うな」
と怖い目つきで礼次郎を見て言った。
「え? 何で?」
「お前、廃人になるぞ」
「え?」
礼次郎の動きが止まった。
猪鍋・・・食べたい・・・
次の天哮丸を取り戻す戦いの前に、ちょっと箸休め的な話です。
でも最後にちょっと衝撃の言葉が。
次回は真円流の真実が明かされます。