茶筅髷の男
謎の茶筅髷の男は乱戦の中を縦横無尽に駆け回り、その手から閃く刀は無軌道に乱れる光を描き、次々と敵を斬り伏せて行くその様はまるで龍が暴れるが如くであった。
その凄まじい技の前に、あっと言う間に十人あまりが血を噴いて倒れた。
残りの者らはその恐ろしいほどの強さに怯み、皆一様に後ざずさった。
そして脂汗を浮かべて構えていることしかできなくなった。
「何と言う技だ」
「手元がまるで見えなかったぜ」
「………」
順五郎らも一様に驚きの口がふさがらない。
まるで蛇に睨まれた蛙の如くとなった残りの伊賀者たち。
「お前らこれ以上やってもどうせ俺に斬られるだけだ。今のうちに逃げな」
茶筅髷の男はせせら笑うと、虎之進の方を向いて、
「さっき真円流はそんなものか、とか言ってたよな? どうだったかね、今の真円流秘技、無天乱れ龍は」
「真円流秘技だと?」
「さて、どうする? まだやるか? やってもいいけど、礼次やこいつらも腕が立つみたいだから、俺たち五人相手だと流石に不利じゃないかね? 俺は久々に剣を振ったのでちょっと疲れちまった。見逃してやるからとっとと帰ったらどうだ?」
男はニヤニヤ笑いながら言った。
虎之進は唇を真一文字に結んでいた。
だが、その表情には明らかに動揺と悔しさが入り混じっている。
――こいつは一体何者だ? 今の技は?
虎之進は下から睨みつけるかのような目つきで言った。
「何を戯言を……貴様一体何者だ?」
「誰だっていいだろう? お前が強そうだったから戦ってみたくなっただけだ」
男は嘲るように笑う。
礼次郎は、目の前のことが未だ信じられぬと言った面持ちでいたが、すっと前に進み出た。
「お師匠様……何故ここに?」
「お師匠様?」
順五郎らが驚いて男を見た。
そして順五郎はその顔を見て気が付いた。
「そうか……葛西清雲斎先生だ!」
その茶筅髷の男は、幼少の頃の礼次郎に剣術と真円流を教えた葛西清雲斎であった。
「何? 葛西清雲斎だと?」
虎之進は驚きの目を見張る。
清雲斎は意地悪そうな笑みを見せた。
「俺の名前は知ってたか。じゃあますますどうするかね?」
虎之進は生き残った伊賀衆を見た。
皆戦闘の構えは取っているが、一様に動揺している。
――この徳川家自慢の伊賀衆が心をやられた。これでは戦にならん。
虎之進は清雲斎をキッと睨んだ。
「葛西清雲斎か、その顔覚えておくぞ」
そして残った者たちに指示を出し、「帰るぞ」と背を返した。
だが礼次郎は、
「待て! ここで逃がすか!」
と追って行こうとしたが、
「やめろ!お前が勝てる相手じゃねえ!」
と怒鳴った清雲斎の言葉にぴたっと脚を止めた。
礼次郎は歯噛みしながらその背を見送るしかなかった。
やがて虎之進らの後ろ姿が見えなくなった。
「結構大人しく帰ったな。あいつ頭も切れると見た」
清雲斎が呟いた。
そこへ礼次郎が歩み寄って行く。
「お師匠様の秘技、無天乱れ龍、相変わらずの凄まじさです」
「ふふ、久々に使ったよ。しかし礼次、誰があんな風に教えたよ? 乱戦の際は常に背後に気を配れ、それが鉄則だって何度も言っただろ?」
「はい、すみません」
そう答えた礼次郎の顔には未だ戸惑いの色が残っている。
「お師匠様、何故ここに?」
清雲斎は刀を懐紙で拭くと納刀し、右腕をぐるぐると回した。
「酒はないか?」
城戸の館――
徳川軍の手により半壊状態にされてしまったが、原型を留めている部屋はある。
そして運が良かったことに、台所はほぼ無傷で残っていた。
わずかに生き延びた城戸家の女中たちが、避難先の渋川村より呼ばれて館の台所で飯の煮炊きをしていた。
本当に久しぶりに、城戸の館に美味そうな匂いの炊煙が立ち上った。
「うむ、この干した昆布と煮干しを入れ、煮立つ直前で弱火にしてぐつぐつ煮るのだ。決して沸騰させぬようにな。沸騰する手前ぐらいを保つのが肝要だ。あ、その猪肉はまだ厚い、よいか、ここまで薄く切るのが一番美味い。ああ、順五殿、火はもう少し強くできるか?」
台所で煮炊きの指示をしているのは何故か軍司壮之介。
筋骨隆々、鋼の錫杖を振れば一騎当千の豪傑であるこの僧形姿の男が、およそ似つかわしくない台所でてきぱきと調理の指示をしているのは、城戸の女中たちにとって実に不思議であった。
女中の一人がおかしそうに、隣のまだ少女のような女中にささやいた。
「ねえ、おみつ、面白いお坊さんねえ。あんな台所が似合わない大きな身体で色んな料理知ってるなんて」
おみつもくすくすと笑った。
「ふふ……あっちの人も見てください、あの包丁の速さ凄いです」
と言うひそひそ話の目線の先、無言のまま物凄い速さで大根や人参などの野菜を切って行く千蔵がいた。
「あれで凄腕の忍びだって。野菜を切るのまで凄いのね」
「それにしても若殿は本当に昔からおかしな人にばかり好かれるのよねえ」
ところどころ崩れている板張りの一室。
中央の火がくべられた囲炉裏の側で、葛西清雲斎と礼次郎が杯を交わしていた。
清雲斎は杯の酒をぐいっと飲み干した。
つまみはネギの入った焼き味噌。ネギの香ばしい香りと甘味が味噌と相まって酒を進ませる。
「そうか、そりゃ大変だったな。しかし礼次、よく生き延びたなお前」
清雲斎は焼き味噌を舐めながら感心したように礼次郎を見つめる。
「ええ、順五郎、そして壮之介や千蔵に助けられたおかげです」
「ほ~、生意気な。クソガキのくせに一人前に家臣を持ったか」
清雲斎がバカにしたように笑う。
「家臣などとは……」
と礼次郎が言った時、
「できましたぞ。某特製の猪鍋でござる」
壮之介が湯気の上る大きな鍋を運んで来た。
ふわっと食欲をそそるいい香りが広間に広がる。
中には薄く切った猪肉を、大根、里芋、人参などの野菜、椎茸やえのきなどの山菜と共に、煮干しと昆布で旨味を出し、醤油と酒で味付けをした汁を使って煮ていた。
「おう、これは美味そうだなぁ」
清雲斎は楽しそうに見入った。
順五郎と千蔵も台所より皿や箸などを運んで来た。
「さあ、出来立てが美味い、食べましょうぞ」
壮之介が声を弾ませた。
礼次郎らは、清雲斎、それに茂吉も加えて猪鍋を囲んだ。
清雲斎はその美味に舌鼓を打ちながら、
「それで、上州は温泉が多いだろ? 湯治巡りをしてたんだが、途中で城戸が滅ぼされたと噂を耳にした。正直なところ、城戸やお前のことなんぞどうでもいいが、俺の唯一の弟子だと思うと流石に気になってな……来てみたらちょうどその弟子が斬り合ってる真っ最中、しかもやられそうだったんで加勢したってわけよ」
「そうでしたか。師匠の前だと言うのに情けない姿をお見せしてしまいました」
礼次郎は箸を止めて俯いた。
「全くだ、あれから九年は経っていると言うのに大して成長してねえじゃねえか。修行が足りねえぞ」
「はい、反省いたします」
「だがまあ、真剣での勝負には慣れたようだな、そこだけは褒めてやる」
順五郎が薄切りの猪肉を美味そうに頬張りながら、
「それにしても先生、あそこまで助けてくれたならついでにあの倉本虎之進も倒してくれれば良かったのに」
と言うと、清雲斎は箸を止めて鋭い目を向けた。
「ヤツの強さがわからんか? あれは簡単に勝てる相手じゃねえぞ。都の方に行っても五本の指に入る強さだろう」
「でも、先生の強さなら勝てるでしょ」
「ああ……"昔"の俺なら簡単に勝てただろうな。だが今の俺はどうかな? 負けるとは思わんが、仕留めるのには時間がかかりそうだし、仕留めても俺も傷を負うだろう」
「今の?」
礼次郎が不思議がると、清雲斎は左肩を脱いで見せた。
「あっ?」
礼次郎はその左肩を見て驚いた。
そこには生々しい傷跡があった。
「何年ぐらい前だったかな……生意気な男が俺と手合せをしたいと言って訪ねて来てな。面倒くせえから断ったんだが、腕に自信があるらしく、どうしてもと言うからやってやった。俺は例の通り木剣、相手は真剣でな。相手は確かに時々鋭い太刀筋を見せやがるが、正直それでも俺からすると大したことはなかった。だがどうやら俺としたことが油断してしまったらしい。生まれて初めて一太刀浴びちまった……それがこの傷痕だ」
と言うと、清雲斎は肩口をまくり上げて戻した。
「それで……師匠は負けてしまったのですか?」
「まさか。頭に来たから右腕一本で一方的に滅多打ちにしてやったぜ。だが、あの時の傷の治り具合がどうも良くなくてな……あれから左腕にうまく力が入らねえんだ」
「え? あ、本当だ」
清雲斎は左腕は皿に添える程度で持ち上げず、右手だけで食事をしていた。
「だから湯治巡りをしているんだ」
清雲斎は笑った。
壮之介はそこではっと気付いた。
「え? ではあの時は右腕一本であれだけの戦いを?」
礼次郎も気付いて唖然とした。
「そうだ、確か真円流秘技の無天乱れ龍は右手に太刀、左手に脇差を持って二刀でやるはず。それを右手一本で?」
「はっはっはっ、まあな。俺ほどになればあれぐらいは大したことねえよ」
清雲斎は豪快に笑った。
「しかし……お師匠様に一太刀でも浴びせることができるとは凄い。一体何者ですか?」
「それがわからん。面倒だったから名前もロクに聞いてなかったし、叩きのめした時にはもうしゃべることもできてなかったしな……何か背の高い派手な男だったのは覚えてるが」