千曲川の風
城下町を抜け、礼次郎らは用意されていた馬に乗り、千曲川沿いに駆けた。
夜空にかかり始めていた灰色の雲はいつの間にか消え、再び無数の星と白い月の穏やかな輝きがその姿を現していた。
風が頬を撫でる。
川沿いなので少し冷たい風であるが、決死の斬り合いと逃走で熱くなった身体には心地良かった。
やがて礼次郎らは、小高いところにぽつんと立っている小屋にたどり着いた。
「ここです」
千蔵は馬から下りた。
小屋の中に入ると、真田信幸が待っていた。
信幸はずっと心配していた様子で、入って来た礼次郎らを見ると、まずほっと安堵の表情を見せた。
「良かった、無事であったか!」
信幸は喜び、礼次郎の肩に手を置いた。
「ええ、何とか」
礼次郎は少し苦笑いで言った。
「流石は千蔵、よくやってくれた!」
信幸が褒めると、千蔵は、
「喜多殿にも手伝っていただきました」
「おお、そうか!喜多もよくやってくれた、でかしたぞ!」
喜多は軽く頭を下げる。
「私は自分一人でゆり様と礼次郎様を助けようとしていたのですが、偶然千蔵に会って源三郎様の命で動いていることを知り、共に動いたのです。」
「そうであったか、ご苦労であった。しかしお前たち二人が礼次郎殿らを助けたことはばれてはおるまいな?」
「はい、それは問題ございません」
「うむ、ならばよい」
信幸は満足げに言うと、ゆりを見て、
「やはりゆり様も一緒でしたか。あの屋敷の壁を吹き飛ばして礼次郎殿を助け出したのはゆり様ですな?」
「ええ、ごめんね」
ゆりはいたずらっぽく笑った。
礼次郎は庇うように言った。
「ゆり殿がいなければ今頃はとっくに捕らえられていたでしょう、本当に助けられました」
「うむ、良かった……まさかゆり様の爆弾がこんな時に役に立つとは」
信幸は笑ったが、すぐに真剣な顔になり、
「礼次郎殿、すまなかった! 許してくれ!」
と言って、突然土下座をした。
礼次郎は驚き、慌てて信幸を起こして、
「源三郎様、何を言いますか。源三郎様が千蔵殿に私を助け出すよう手配したのでしょう。おかげでこうして助かったのです」
「いや、そもそも我が父が礼次郎殿を捕らえるよう指示したのが悪いのだから……実ははこうなったのは……」
「大体のわけはわかりますよ。徳川と和議を進める真田家にとって私の存在は邪魔なのでしょう?」
「え? 何故わかった?」
「安房守様にしてはわかりやすいですよ」
礼次郎は笑った。
「そ、そうか……それなら……いやいや、本当に申し訳ないことをした。我が父に代わって謝る、許してくれ」
「いえ、真田家を守ろうとする安房守様の考えもわかります、仕方のないことです。それに結局最後には源三郎様に助けていただき、こうして無事なのだから構いませんよ」
「本当はわしが直接父の命令を受けた者どもを止めたかったのだが、真田家嫡男であるわしが礼次郎殿を助けたと言うことが徳川に知れるとまずいと言うので、こうして極秘に千蔵に命じたのだ」
「なるほど」
「しかし、せっかく我らを頼って来てくれたのに、本当に礼次郎殿には申し訳ないことをしてしまった」
「もう謝らないでくださいよ」
礼次郎は困ったような顔で笑った。
「いや、いくら謝っても謝り足りん……それに言いにくいのだが……」
信幸が言いかけると、礼次郎はそれへかぶせるように、
「安心してください、我らは上田を離れます」
「え?」
「もちろんわかっています。オレ達はもうここにはいられません」
「そうか……そうなのだ。心苦しいが、こうなった以上もう我が真田家に礼次郎殿を置いておけぬのだ……本当にすまぬ」
信幸が大きな身体を曲げて頭を下げた。
「いいんですよ。それに元々源三郎様たちに父からの手紙を渡して挨拶したらすぐに上田を離れるつもりでしたから」
礼次郎が微笑んだ。
ゆりは複雑そうな表情でその会話を聞いていたが、
「でもどうするの? 上田を離れてどこへ行くの? 行く当てはあるの?」
「そうだな……」
礼次郎はしばらく考え込むと、
「まずは天哮丸を取りに行く。源三郎様も言うように、自分の手元に持っていた方が安心だ」
礼次郎が言うと、壮之介が、
「しかし、天哮丸を取りに行くと言っても城戸にはまだ徳川軍がおります。戻って大丈夫でしょうか?」
「ああ、そう言えばそうだな。しかし、天哮丸のある場所には徳川軍はいないはずだから大丈夫だと思う」
礼次郎が微笑んで答えると、順五郎は解せぬ顔で、
「え? 天哮丸を取りに徳川軍が占領した城戸へ戻るのに、天哮丸のある場所には徳川はいない? どういうことだ?」
「ははは……まあ、行けばわかる」
礼次郎は笑った。
するとゆりは、
「じゃあ、天哮丸を取りに行ったあとはどうするの? 城戸は徳川軍がいるからどっちみち帰れないでしょ」
「うーん……そうだな、しばらくどこか頼れそうなところに行って……ああ、そうだ、少し遠いが他家へ嫁いだ姉がいるから、姉上でも訪ねに行って……それから考えるよ。自分はこれからどうするべきか、城戸家を再興するにはどうすればいいのか」
「そう……」
ふと、ゆりの脳裏に先程大手門前で取り囲まれた時に礼次郎が言った言葉が響いた。
――実はオレにはずっと想っている人がいる
ゆりは大きな瞳でじっと礼次郎の顔を見つめた。
「礼次郎殿」
信幸が言った。
「はい」
「差し出がましいかもしれんが、越後に行ってみないか?」
「越後?」
「うむ、越後の上杉家だ」
「上杉家って、あの上杉家ですか?」
「うむ。越後の上杉弾正殿(上杉景勝)は先代の不識庵謙信公と同じで非常に義に篤く、また情の深いお方でな。頼って行けば決して嫌とは言うまい。また執政の直江山城守殿(直江兼続)も同じく義を重んじ、曲がった事が何より許せぬお人。わしの弟の源二郎も人質で行ったにも関わらず大層良くしてくれた。きっと礼次郎殿の力になってくれるだろう」
そう言う信幸の言葉であったが、礼次郎は少々困惑し、
「しかし……城戸家は上杉家とは一切関わりを持ったことがなく、オレも当然面識がありません。そんなオレがいきなり頼って行くわけには……」
「はっはっは、それなら心配は無用」
と信幸は笑うと、懐から手紙を取り出し、
「わしは上杉殿、直江殿と面識がある。先程ここで待っている間に上杉殿への書状を書いておいた。これを持って行けば大丈夫だ」
と、礼次郎に手渡した。
「そうですか、それなら……ありがとうございます」
「お主らの荷物も持って来ておいたぞ」
信幸が指差す方には確かに礼次郎らの荷が全部まとめて置いてあった。
「そしてこれは多くはないが当面の路銀の足しにしてくれ」
と、銭の入った布袋を出した。
礼次郎が受け取ると、ずしりと重さを感じた。結構な額が入ってそうである。
「こんなに沢山……いいのですか?」
「うむ、構わん」
「何から何まで本当にありがとうございます」
礼次郎が頭を下げた。
「これぐらい当然のことよ」
信幸が笑う。
「越後上杉家かー。いいね、ずっとどんなところか興味があったんだよな。酒も飯も美味いって言うしな」
順五郎が気楽な口調で言うと、
「お主、後者が目的であろう?」
壮之介が笑った。
「ははっ。しかしこうして色んなところにあちこち行けるなら流浪の生活も悪くないもんだな、若」
「そうか? お前は呑気だな」
礼次郎が呆れたように笑った。
「では礼次郎殿、今宵はここで休んで明日発たれるがいい」
信幸が言った。
と礼次郎は言いかけたが、少し何か考え込んだ。
そしてちらっとゆりを見ると、
「いや、もうすぐにでも行きます」
信幸は少々驚いて、
「何故だ? 疲れているであろうから今宵は寝て行ったらどうだ? わしが城に帰ったら礼次郎殿はもう上田から逃げたと言うことにしておくから安心していいぞ」
「いえ、一刻も早く天哮丸を取りに行きたいですし、それに……」
礼次郎は一瞬口ごもった。
「それに?」
「ここでもう一晩過ごせば離れがたくなりそうで……上田から」
「そうか、ならば引き止めぬが」
「はい」
と礼次郎は言い、
「いいな? 順五郎、壮之介?」
と振り返る。
「もちろん問題ないぜ」
「暴れ足りぬので力は余っております」
二人は笑って言った。
「ははは、頼もしいのう。この二人がついておるならこの先の道中、礼次郎殿も安心だ」
信幸が言った。
「ええ」
「しかし、どうであろう? もう一人連れて行かぬか?」
と言う信幸の提案。
「もう一人?」
礼次郎はまさかと思った。
――え?
ゆりもどきっとして信幸の顔を見た。