二人の気持ち
その頃、徳川家康は居城、浜松城への帰路についていた。
あの日、礼次郎にすんでのところで逃げられて後、家康は何としてでも礼次郎を探し出し、捕らえて来るようにと命令を下した。
と同時に、天哮丸の捜索も強化した。
しかし結局礼次郎を探し出すことはできず、天哮丸もまた、城戸の町中をくまなく探したが手がかりすらつかむことができなかった。
城戸の地に着陣してから十日以上、これ以上家康が浜松を留守にするのは諸事に差障りが出る。
仕方なく、家康は諦めて浜松に帰ることを決めた。
家康を先頭に、軍が街道を進んで行く。
先日の雷雨とは打って変わって、今日はまた秋晴れである。
そんな空の下であるが、馬上揺られる家康の心は晴れやかではない。
家康は呟いた。
「城戸を攻め落としたにも関わらず……結局天哮丸を手に入れることはできず、城戸礼次郎には逃げられた。得たのは儂の悪名だけじゃのう」
後ろで聞いていた倉本虎之進は、
「大変申し訳ございませぬ」
と、唇を噛んだ。
「私の部下たちに、残って引き続き天哮丸を探させるよう命じておきましたので、必ずや」
家康はちらりと振り返りざまにじろりと虎之進を見た。
「見つけられると申すか? 手がかりはあるのか?」
「それは……」
虎之進が言葉に詰まると、家康は再び前を向き、
「城戸の館、町をあれだけ探しても見つからなかったのだ。お主の部下数人が残ったところで見つけられまい」
「殿、やはり仁井田統十郎が先に奪って逃げたのでは?」
「うむ。その可能性はある。しかしこの前も言ったように、儂らが手がかりすらつかめなかったのに統十郎があの場であっさり見つけらるとも思えぬ」
「仁井田は最初からどこにあるのかを知っていたのでは?」
「であれば我が家中に来る必要は無く、最初から城戸家に入り込むであろう」
「確かに」
それからしばし、馬蹄の音のみが響く静寂が続いた。
やがて、ふと家康は呟いた。
「もしかしたら、城戸の町の中には無いのかもしれんな」
虎之進は驚いた。
「何ですと?」
「城戸家の秘宝とは言え、城戸の館や町の中に置いておかなければいけないと言うこともない。城戸領内にあれば城戸内部の者がその在処を知り、奪ってしまう危険性があり続ける。それを防ぐ為に城戸の町の外のどこかに隠すと言うことは考えられるであろう」
「なるほど」
虎之進は感心した。流石は家康である。
「抜かったわ。最初からこの可能性に気付いておれば……」
家康は爪をかんだ。
「今からでも残っている私の部下たちに伝えましょう」
「うむ。だが城戸の外にあるのであればそれこそ雲をつかむような話よ。数人ではとても無理であろう。帰ったら半蔵に命じ、特に諜報力に優れた忍び数人を遣わせよう」
と、家康は言い、
「そして城戸礼次郎よ。奴は何としてでも捕らえねばならん」
家康の脳裏には、織田信長の狂気を帯びた目と重なった礼次郎の目つきがこびりついて離れない。
家康は虎之進に命じた。
「奴が生きておる限り、どうにも寝覚めが悪い。虎之進、浜松に戻ったら腕利きの者を選りすぐり、半蔵の手の者と合わせて礼次郎を追わせよ」
「はっ、承知仕りました」
「頼んだぞ」
礼次郎とゆりは、二人で上田城の城下町を歩いていた。
そこここに店が立ち並び炊事の煙がが漏れ、道端には行商人が品物を並べて大声を出して客を呼び込んでいる。
走り回る子供たち、立ち話をする大人たちの顔は明るく、自然と町は活気に溢れている。
「ここが行商人が集まる市場で、あちらが広場よ」
ゆりが楽しそうに礼次郎に言う。
「ふうん」
「お盆の時には、あそこでとても大きなお祭りをするの。先月やったばかりだけど、すっごく盛大で楽しいのよ。しかも、お城のあちこちに明かりを灯して、お城が夜空に照らし出されてとっても綺麗なの」
「それはすごそうだな」
礼次郎は感心して、
「しかし本当に随分と発展したんだな」
礼次郎は呟く。
「そうね、元々この辺は武田や北条などの国境に当たって人は少なかったんだけど、安房守様がこの城を建ててからはどんどん周辺に住む人が増えて来たの」
ゆりが言った。
「そうか、武田家が滅んで織田傘下に入ってから安定したんだな・・・」
礼次郎は言いかけたが、すぐに気付いて、
「ああ、ごめん。別に悪気があったわけではないんだ」
「ううん、いいの、気にしないわ」
ゆりは首を振って笑顔を作った。
だがその顔はどこか寂しげである。
彼女は胸元の観音菩薩像を触った。
「この戦乱の世の中だもの、仕方ないわ。貴方だって大丈夫? お家が滅んじゃったばかりで辛いでしょう?」
ゆりが礼次郎の顔を見た。
礼次郎は、信幸の言葉を思い出した。
「大丈夫、辛くないと言えば嘘になるけど。オレが城戸家再興の志を持っている限りは城戸家は滅んでいない」
声に力を込めて言った。
するとゆりはニコッと笑って、
「そう、頑張ってね。……実は、あの温泉で会った時、私は城戸に行く途中だったのよ」
「え、そうだったのか ?何で?」
「うん、喜多たち忍びから、私の嫁ぐ先の城戸が徳川軍に攻撃されたって話を聞いて、居ても立ってもいられなくなって見に行こうとしたの」
「そうだったのか」
「うん、でも途中で徳川軍の兵士たちが色んな所にうろうろしてて、しかも城戸に通じる道を塞いでたから仕方なく帰って来たの」
「なるほど、だからオレと一日違いで帰って来たわけか。徳川軍は何であちこちにいたんだ?」
「何か人を探してたみたいよ」
「それはきっとオレを捕らえようとしたんだろうな」
「ああ、そっか」
礼次郎はしばし無言で何やら考え込んだ。
ゆりはじーっとその横顔を見て、
「あの時のあれだけの傷は城戸での戦で受けたわけね。そう言えば、その後具合はどう?」
礼次郎はふっと我に返った。
「ああ、もうすっかり治った。ありがとう、ゆり殿のおかげだ」
「あ、"どの"なんてつけないで! あの時ゆりって呼んでって言ったじゃない」
「ああ、すまん、どうも慣れなくてね」
「もう。この先夫婦になるんだから、ゆり殿、なんて言ったらおかしいじゃない。あ、でも私は貴方を"殿"って言わないといけないのか」
――夫婦? 何か変だな。
「あ、えーっと……あの、その夫婦ってのは……」
と、礼次郎が言いかけると、ゆりが同時に、
「あっ、お蕎麦屋さん!」
と、言って指差した。その方向に蕎麦を出す店があった。
ゆりは礼次郎を振り返り、
「ねえ、蕎麦切りって食べたことある?」
「そばきり? 蕎麦掻なら好物だが」
「あ、やっぱり知らない? 最近この辺りで流行ってる蕎麦よ。じゃあ食べよう!」
と、ゆりは目をキラキラと輝かせ、礼次郎の腕を引っ張った。
二人は蕎麦屋に入った。
店と言ってもこの時代はまだまだ簡素である。中は土間で、蕎麦を作る厨房の他に、長い床几がいくつか適当に置かれているだけである。
だが、この店はすでに先客が数人いて、結構繁盛しているようであった。
蕎麦の良い香りが立ち込め、何とも食欲を刺激する。
恰幅の良い中年の女将がゆりに声をかけた。
「これはゆり様、いらっしゃいませ」
「おばさん、忙しい? 蕎麦切りを二つお願いね」
「大丈夫、すぐに出せますよ、お待ちくださいね」
女将は笑顔で答えて店の奥へ向かった。
ゆりと礼次郎は並んで床几に腰かけた。
「ここの蕎麦は美味しいのよ。特に最近始めた蕎麦切りって言うのが人気なの」
ゆりが嬉しそうに言って、
「あ、ちょっと待っててね」
立ち上がって女将のところに何やら話をしに行った。
――そばきりか。何だろう? それにしても楽しそうだな。
礼次郎は、はしゃぐゆりの様子を見て微笑んだ。
ふと、草鞋の紐がほどけかかっているのに気付き、結び直そうとして上半身を屈めた。
すると、懐から何かが落ちて転がった。
「あ」
それはふじの櫛であった。
礼次郎はその赤い漆塗りの櫛を拾った。
「…………」
じっと見つめた。
程なくして、ゆりが碗を二つ持ってやって来た。
「お待たせー。ん?」
ゆりは、礼次郎が櫛をじっと見つめているのに気付いた。




