謀将の貌
「婚姻……」
その言葉を聞くと、礼次郎の眉が曇った。
「そのことですが……私は今やこの通り領地も……」
「ああ、そのようなことは問題ない」
信幸は笑い飛ばすと、
「しかしな……実は今、その相手の女子がおらぬのだ」
困ったような表情で言った。
「いない?」
「うむ。突然どこかへ出かけてしまってなぁ……一昨日の朝だったか、気付いたらどこにもおらず、部屋の机の上に、ちょっと出かけてきますと書いた紙だけが残されていた」
「はあ……」
「こういうことは昔からよくあって……いつも何も言わずに突然どこかへ出かけるのだ。必ず伴の者を連れて行くから安心ではあるものの、一旦どこかへ出かけると、二、三日、長いと七日間ぐらいは帰って来ない」
「どこへ出かけているのでしょうか?」
「さあ、よくわからんが……後から聞くところでは、何か面白いところがあると聞いてはそれを見に行ったり、湖で舟遊びをしたいと言っては出かけたり……戦見物に行ったこともあったらしい」
「へえ。行動力がありますね」
「良く言えばそういうことなのかもしれんが……。可愛らしい女子ではあるが何せ変わった娘でなぁ。最近では何を思ったのか自分で鉄砲を作っていた」
「鉄砲? 自分で?」
「そう。鉄砲を自分で作り、それだけでは飽き足らず、書物をかき集めて自分で工夫し、火薬まで作っている始末。この前などはうちの草の者たちにも訊いて回り、ついには爆薬まで作り出しおった。その上、実験と称して三の丸の広いところで爆発させたところ、調合に失敗したのか蔵の壁が吹き飛んでしまったのだ」
呆れた表情で信幸が言った。
「それは何とも……」
礼次郎は苦笑した。だが、内心は面白い女子だ、と興味をひかれた。
「いや、すまん礼次郎殿、こんな話をしてはがっかりしてしまうかもしれんな」
信幸ははっと気づき、慌てて言った。
「しかし安心してくれ、ちょっと変わっていると言うだけで気立てはとても良く、頭も良いし、何よりもとても美しい娘だ。帰って来て会って見ればきっと気に入るはず」
「いえ、とんでもない。面白そうな女子です。しかし私は……」
と、礼次郎が言いかけると、
「源三郎様、殿がお帰りになられました」
襖の向こうからの声がそれに被った。
「おう、そうか。では礼次郎殿を会わせたいから本主殿の広間でお待ちしていると伝えてくれ」
信幸が、襖の向こうへ言葉を返した。
広く空間を取ってある上田城の広間。
信幸と礼次郎は二人並んで座り、真田昌幸が入って来るのを待った。
順五郎と壮之介は礼次郎の後ろに座る。
「源三郎様、そう言えば、源二郎様(信繁、後の幸村)はどこに?」
礼次郎が聞いた。
「ああ、弟なら今は大坂だ」
「大坂?」
「うむ、今我が真田家は豊臣秀吉様の傘下に加わっている。源二郎には人質として大坂に行ってもらっているのだ」
「そうでしたか」
「源二郎はその前も上杉家への人質として越後に行っていた。真田家の為とは言え、こうも人質としてあちこちに行かされるのは流石に不憫……と思っていたのだが、上杉家では人質どころか客将扱い、大坂でも秀吉様に気に入られて客人扱いだそうだ。かなり自由な暮らしをしているようで、時々送られて来る手紙からは向こうでの暮らしを満喫している様が伝わってくるわ」
信幸はおかしそうに笑った。
「それは良かった。しかし残念です、源二郎様にもお会いしたかった」
「いずれ大坂の方に行く機会があれば会えるだろう。それより礼次郎殿、わしも一つ聞きたいのだが、天哮丸は持って来なくて良かったのか?」
「天哮丸を。何故でしょう?」
「いや、このような情勢になった今、礼次郎殿は当分城戸のあの辺りには戻れないであろう。であれば、いかに天哮丸のある場所がわかりづらく、城戸家当主しかその場所を知らないとは言え、天哮丸を置いて来るのは少し心配ではないか? 絶対に徳川が見つけられないと言うことはないのだから。ましてや城戸が滅んだ今、天哮丸のことを知った他の良からぬ者どもも天哮丸を探そうとするかもしれん」
そう信幸が言うと、礼次郎はじっと考え込み、
「言われてみれば確かに……あの時は逃げるのに夢中で思いつかなかったが、天哮丸は持って来るべきだったかもしれません」
「うむ。まあ、今となっては仕方ない、落ち着いたら取りに行くのがいいだろう」
信幸が言った時、こちらへ歩いて来る足音が聞こえて来た。
「お、来たようだ」
信幸が言うと、礼次郎ら三人は平伏した。
そして、真田昌幸が広間に入って来た。
昌幸は平伏する礼次郎らをちらっと横目に見ると、上座に座り胡坐をかいた。
すると、礼次郎や信幸が言葉を発する前に、
「城戸殿、そう固くならずに面を上げられよ」
と、声をかけた。
「はっ」
礼次郎は顔を上げて昌幸を見た。
頬の肉が厚く、やや下がり気味の両目は穏やかに見えるが鋭い光を放っている。
久しぶりに見る昌幸の顔は、壬午の戦乱を生き抜き、独立大名となった謀将らしいものとなっていた。




