真田信幸の義心
「何? 城戸礼次殿が訪ねて来た?」
部下の報告を受けて、自室で書見をしていた真田源三郎信幸は、思わず開いていた書物を取り落しそうになった。
「本当か? 嘘ではないだろうな?」
「はい、それがしは城戸殿を見たことがないので本人かどうかはわかりませんが、少なくとも当人はそう名乗っております」
すると、信幸は困惑した表情ではあったが嬉しそうな声で、
「よし、ではすぐにここへ通せ!」
「はっ」
「い、いや待て! 本人かどうか確認せねばならん、わしから行こう」
信幸は、書物を閉じて慌ただしく立ち上がった。
礼次郎らは、上田城の二の丸の東虎口の前で待たされていた。
先程から感じていた殺気は変わらず辺りを漂っている。
「真田は草の者(忍び)をよく使う。何があるかわかりませぬ、くれぐれも油断めされぬよう」
壮之介がそう囁く。
「わかってる、さっきから見張られてるこの感じ、用心するには十分だ」
礼次郎が頷くと、
「だけど、真田がオレ達を捕らえたり殺す必要があるかな? 特に城戸家とは以前から友好関係があるのに」
順五郎が言うと、壮之介がはっと何かを思い出して、
「そう言えば某が京より上州に来る途上に茶屋で聞いた話なのですが……。実は先々月の七月、徳川家康は真田攻めに出陣しました。ところが豊臣秀吉の介入で真田攻めは中止され、両者の間に和議が結ばれたとか」
順五郎が顔色を変えた。
「何? と言うことは?」
「そう……和議を結んだばかりの今、真田にとって、徳川家康が狙う城戸礼次郎を匿い、万が一それが家康にばれてしまったらまずいことになる」
じっと聞いていた礼次郎は本丸の方向を睨んで、
「なるほど、だったらオレを匿うよりかは捕らえるか殺してしまい、首を家康に送る方が、真田にとっては問題が起きるどころか利益になるな」
「来なければ良かったかな」
順五郎が舌打ちした。
「申し訳ござらん、この事をもっと早く思い出していれば……」
「いや、仕方ない。その情報を今からでも知れただけで十分だ。まさかいきなりオレを捕らえようとはしないだろう。源三郎殿たちに挨拶したら早々に離れよう」
すると、
「礼次郎殿!」
と言う大声が聞こえた。
礼次郎らがその声のする方を見ると、背の高い大男が小走りでやって来る。源三郎信幸である。
「源三郎様!」
礼次郎が笑顔で答えた。
今しがた不穏な話をしていたばかりであるが、そうは言っても旧知の仲、久しぶりの友に会う感覚であった。
「おお、やはり礼次郎殿だ、かなり成長したようだがあの頃の面影がある! すぐにわかったぞ!」
走り寄って来ると、信幸は嬉しそうに目を細めた。
「源三郎様もお変わりなく……いや、また背が伸びられましたか?」
礼次郎は、見上げながら言った。
信幸の長身は驚くべきものがある。壮之介よりも頭一つ高い。
「はっはっはっ……この歳になっても止まらなくてな。今や兵士たちも含めて我が家中でわしが一番背が高い」
と、信幸は笑うと、
「それよりよく無事だったなぁ。城戸でのことは部下より知らせを受けている、正直言って礼次郎殿はもうこの世になき者と思っていたぞ」
「はい、どういうわけか運よくこのように生きております」
「うん、本当に良かった」
と、言うと、信幸は礼次郎の後ろの順五郎と壮之介を見て、また驚いた。
「お、後ろにおられるのは大鳥順五郎殿か? 順五郎殿も無事だったか?」
「源三郎様、酷いですよ、俺のことは忘れてましたか?」
順五郎は冗談めかして笑った。
「ははは、いやいやすまん、つい礼次殿のことばかり心配してしまってな。もちろん忘れるわけがない。順五郎殿もこれはまた一段と大きくなられた。武芸の腕はますます上がっている様子」
と、信幸も大笑した。
「こちらにいるのは、道全と申す僧。縁あって共にやって参りました」
礼次郎が紹介すると、壮之介は丁寧に頭を下げた。
「道全と申します、お初にお目にかかります」
「これはご丁寧に。拙者、真田源三郎信幸と申す。お見知りおきを。おっといかん、ここで立ち話などとは。さ、中に入ってくれ、話を聞かせてくれ」
源三郎信幸の自室。
礼次郎ら三人は茶と菓子でもてなされた。
信幸の自室であるからか、すでに礼次郎らを見張るような殺気は消えていた。
昔と変わらぬ信幸の接し方に、礼次郎はいくらか安心した。
まずは順五郎が持っていたおかげで徳川の手に渡らずにすんだ、礼次郎の父城戸宗龍からの手紙を信幸に渡した。
手紙は真田昌幸のみならず信幸宛てにもなっていたので、信幸は手紙に目を通した。
「うんうん、そうか、それは良かった」
信幸は手紙を読んで嬉しそうに一人納得した。
実はその手紙には、城戸宗龍が、今回の縁談について礼次郎が承知し、挨拶に向かうので宜しく頼みたいと言うようなことが書かれていた。
宗龍は、今回の縁談を強引に決めてしまおうと思っていたのだった。
使いに行くついでに顔でも見て来いと言ったのは、相手の女性が大層美しいとのことなので、礼次郎も相手を見ればすぐに気に入り、その上こちらで先に話をまとめてしまってあれば、いくら渋り続ける礼次郎でも承知するだろうと踏んでのことだった。
しかしそんな宗龍の思惑も、手紙の内容も礼次郎は知らない。
信幸が何でそんなに嬉しそうなのか少し疑問に思った。
「よし、これはまあいいとして……城戸で何があったのか聞かせて欲しいのだが」
信幸が聞くと、礼次郎は、城戸で起きたことを一通り信幸に話した。
礼次郎が話し終えると、信幸は唇を噛んだ。
「そうだったか……徳川殿がそのようなことを……。その所業、とても許されぬものではない」
信幸は静かに言ったが、その声色は憤りに燃えている。
「はい、こうして城戸は滅んでしまいましたが、城戸家の嫡男として生き残った私は天哮丸を守り、仇敵徳川家康を討ち、必ずや城戸家を再興する決意です」
礼次郎は力強く言った。
すると信幸は膝を打ち、
「流石は礼次郎殿! それでこそ城戸家の男よ!」
嬉しそうに言い、
「何も心配はいらない。志を遂げる日までこの真田家にいるがいい、できる限りの援助はしよう」
と、有難い言葉をかけた。
しかし礼次郎は眉を曇らせ、
「しかし、近ごろ真田家は徳川と和議を結んだと聞いております。徳川が狙う私を匿っては真田家にご迷惑がかかります」
すると信幸は声を大きくして、
「おう、耳が早いな。その通り、最近我が真田家は豊臣様の仲介で徳川殿と和議を結んだばかり。しかしそれとこれとは別、我が真田家は城戸家とも以前よりつきあいがある。その城戸家がこうなってしまった今、一人生き残って逃れて来た礼次殿を見捨てるような義にもとることは断じてできん!」
と、熱い言葉を吐いた。
信幸は続けて、
「もし礼次殿がここにいるのが徳川にばれたとしても、徳川と一戦交えてでも礼次殿をお守りしよう! 我が父安房守(昌幸)は何と言うかわからないが、わしが必ず説得してみせる」
後年、信幸は、関ヶ原の戦と大坂の陣における父昌幸と弟信繁(幸村)の活躍のせいで、江戸幕府に様々な理不尽な仕打ちを受けた。しかしどんなに屈辱的な扱いを受けようとも耐え忍び、真田家の存続に尽力した。それは、真田家嫡男として何としてでも真田の家を守らねばならぬと言う使命感からの行動である。
しかし、元々信幸は弟の源二郎信繁(幸村)と同様、義に篤い真っ直ぐな男である。
特に今は二十歳と言う若さ故の義心が燃えている時であり、礼次郎の境遇をとても見て見ぬふりはできなかった。
「ありがたいお言葉。感謝いたします」
礼次郎は深々と頭を下げたが、
「しかし、お世話になるのはやはりまずは安房守様に伺ってからにしたいと思いますが」
「まあ、それはそんなに心配しなくてもいい、父が何を言おうとわしが必ず説得してみせる。ちょうど今父は外出しているし、まずはくつろいでくれ。それに婚姻のこともある」
信幸はニコニコして言った。




