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天哮丸戦記  作者: Samidare Teru
出会い邂逅編
30/221

上田の城下町

「いや、その……負け戦でね。逃げる途中、転んだり木の枝に引っかかったりしたからな」

「そうだったんですか。大変でしたね。でもこれを塗れば治りは早くなりますから」

「すまない」

「気にしないでください……それより、さっきはその……すみませんでした」


 ゆりは、頬を少し赤らめた。


「さっき?」

「言い過ぎました。あの時はびっくりしていましたし、よく見てなかったからついあんな風に言ってしまいましたが、こんな身体じゃ確かに立札を見落としてもおかしくはありませんね」


 ゆりは手を止め、頭を下げて素直に謝った。


「いや、謝らなくてもいい。オレがもっとちゃんと見てれば良かったんだ。それにオレも酷いことを言ったような……こちらこそすまなかった」


 礼次郎もまた謝ると、ゆりはパッと表情を明るくした。


「じゃあおあいこですね」


 と、にこっと笑った。


「よく見ると私と同じぐらいの歳でしょうか? 私はゆりと申します」


 ゆりが無邪気な笑顔を見せて言った。


「ええーっと……私は……れ、いや、栄次郎と申します」


 礼次郎は少し考えて、偽名を使った。

 この、ゆりと言う女からは邪気や害意は感じられない。だがこの先、礼次郎のことをどこで誰に言うかわからず、どこかで人に話した結果、それが徳川軍の耳に入ってしまう可能性はあるのだ。

 それ故、礼次郎は用心した。


「栄次郎さん。いいお名前ですね。お歳は?」

「今年十七だ」


 すると、ゆりは嬉しそうに笑った。


「あら、私と一緒!」

「そうか。偶然だな」


 礼次郎は微笑んだ。


「で、栄次郎さんは何故この温泉に? 戦の帰りに湯治に寄ったわけですか?」


 ゆりが、再び傷に薬を塗りながら聞いた。


「まあ、そんなところだ」

「ふうん……この後は帰るんですか? お家はどちらですか?」


 ゆりは、礼次郎に興味を持ったらしい。次々と質問を浴びせた。


「ええっと……そう……家は信州佐久郡で……」

「あら、また偶然! 私たちも信州なんですよ。ちょうど、信州から旅をして来たところなんです」

「旅? ではこれからどこかへ行くつもりか」

「旅ってほどでもないんだけど……ちょっと上州までね」

「上州か」


 礼次郎は眉をぴくりとさせた。


「上州に何か用事でも?」

「うん、ちょっとね」


 今度は、ゆりが口を濁した。礼次郎はあえてそこには突っ込まず、

 

「しかし……この辺の女の二人旅なんて危ないぞ。特に、上州では先日……まあ、オレも詳しくは知らないんだが、碓氷郡城戸のあたりで戦があったらしく、落ち武者狩りをやっていると聞いた。気をつけた方がいい」


 するとゆりは、背後の喜多を指して、


「大丈夫です。この喜多は男に負けないぐらい腕が立ちますので」


 と、自慢げに言った。


 やっぱりか――と、礼次郎は内心肯いた。

 ゆりの伴の者であるらしいその喜多からは、男装であるからと言うわけではなく、その全身からはっきりとした武の匂いがしていたのだ。

 細身であるが、長身であり、肩幅は広い。着物の下にはしなやかで強い筋肉と共に、相当な武芸の腕を隠していると思われた。



 ――そにれしてもこの二人は何者だろう? このゆりって言う女は身分の高い家の娘のようだが。



 礼次郎が考えていると、


「さあ、これで終わり!」


 と、ゆりが仙癒膏を塗り終わった。


「ああ、終わりか。ありがとう」

「とんでもございません、当然のことです。では、冷えると良くないので早く着替えを。貴方のお着物は?」

「あそこに」

「じゃあ、後ろ向いていますので」


 そして礼次郎が着物を着終えると、ゆりが寄って来て、仙癒膏の入った木箱を渡して来た。


「これ、貴方に差し上げます。残りはあまり多くないけど、明日、明後日と傷口に塗ってください。きっと早く治りますので」

「え、いいのか? これはゆり殿の物だろう」

「大丈夫、私はまだ他にも一箱持って来ていますので」

「そうか、ありがたい。じゃあ何か……」


 と、礼次郎はお礼に何か渡そうと思ったが、あいにく何も持たずに逃げて来た身である。当然、渡せるような物は何も持っていない。


「すまん、何か礼に渡そうと思ったが何も無い」


 礼次郎は、恥ずかしそうに頭を掻きながら言った。


「いいのよ、そんなつもりでやったわけではありませんから」


 ゆりは屈託なく笑った。その笑顔が、花のように美しかった。

 そこへ、喜多が横合いから言った。


「ゆり様、そろそろ参りませんと……日が暮れぬうちに」


 ゆりは頷いて、


「そうね、あまり時間が無いし。では栄次郎さん、私たちは先を急ぎますので」

「ああ、本当にありがとう。助かった。この礼はいつか必ずする」


 礼次郎が頭を下げて言うと、ゆりはニコッと微笑んだ。


 そして、ゆりと喜多の二人は、足早に出て行った。

 去り際、ゆりが振り返った。


「またね」


 と、友達のように砕けた口調で言い、手を振った。


 ゆり達が去った後、礼次郎はもう一度手ぬぐいで髪を拭き、適当に束ね上げると、順五郎と壮之介がいる茶店に向かった。

 二人は軒先の長椅子に座って餅を食べ、茶を飲んでいた。


「おう、さっぱりされましたか」


 壮之介が礼次郎を見て言った。


「ああ、とても良い湯だった」

「じゃ、若もこっちで団子を。なかなか美味いよ」


 順五郎が手招きする。

 礼次郎は腰かけて、味噌のタレを塗ってある餅を手に取った。その時、ふと気付いた。



 ――そう言えば礼は必ずすると言ってしまったが、よく考えると信州のどこに住んでいるのか知らないな。聞いておけば良かったかな。



 礼次郎は餅を一口かじった。

 香ばしい味噌の香りと味が口の中に広がる。



 ――まあいいか、いつかどこかでまた会うこともあるだろう。



 礼次郎は上州の方向の空を見上げた。 

 青く澄んだ空に一筋の雲が泳いでいた。




 そして翌日、礼次郎たちは真田家の居城がある上田の城下町に入った。


 千曲川が南に流れる断崖の上の台地に上田城があり、その東から北にかけて街が広がっている。

 街にはちょうど市が立っており、店が連なる中を人が行き交い、華やかな賑わいを見せていた。


「去年ここで戦があったとは思えない賑わいだな」


 順五郎が周囲を見回しながら言った。


 一年前の天正十三年(1985年)、この上田城で、後に第一次上田合戦と呼ばれる真田と徳川の間の戦が行われた。

 真田昌幸は上田城に籠城し、地の利を活かした戦術を駆使してわずか1200人で7000人の徳川軍を撃退、天下にその名を轟かせた。


「真田安房守(昌幸)殿はたった1200人で徳川の大軍を退けた智将、きっと政にも優れた手腕があるのでしょう」


 と、壮之介が言った。


「それにしても久しぶりだな。五年、いや四年ぶりか? あの時はまだまだ小さい街だった」


 礼次郎が懐かしそうに言う。


「来たことがあるのですか?」

「うん、順五郎とふじも一緒に、父上について一緒に来たんだ。安房守様と、ご子息の源三郎様(真田信幸)、源二郎様(真田信繁、後の幸村)にも会った」

「ほう」

「あの時は遊びに行くからと言われて喜んでついて行ったが、今思うと、あの時オレの縁談話が始まったようだ」


 礼次郎が苦笑した。


 すると順五郎が、


「そう言えば、上田には殿が話を進めてたって言うその許嫁の女がいるんだよな?」

「ああ。まあオレはその話は断ってたけど」

「でも、今回城に行ったら会うことになるだろうな」

「だろうな。だが今のオレは城も領地も無い流浪の身、嫁などもらえるわけがない。それにそもそもオレはそんな気はない」


 礼次郎がはっきりと言い切った。



 ――ふじのことか。



 順五郎はすぐに察した。


 彼の胸中は複雑である。


 順五郎は、この若い主君が幼馴染である自分の妹と密かにずっと思いあっていたのを見て来ている。

 彼は二人が一緒になれる日を密かに楽しみにしていたが、まだまだ若いせいか、お互いなかなか素直に気持ちを打ち明けられない様にやきもきしていた。

 そこへ、ようやく二人の気持ちが動き出し、やっと心が通じ合ったと思った途端、ふじは命を奪われてしまった。


 礼次郎の悲しみたるや想像を絶するものがあるであろう。


 特に今では自分のせいで城戸の人々が殺されたと思っているだけに。


 ずっと礼次郎を思っていたふじの兄として、順五郎は礼次郎に妹のことは忘れて欲しくはないと言う気持ちが多少はある。

 しかし、ふじを自分のせいで失ったと言う苦しみからは早く逃れて欲しいと思っている。


 すでにふじはいないのだ。

 何をしたって帰っては来ない。

 その帰って来ない人への想いと、後悔の念にとらわれたままではずっと苦しみ続けることになる。


 このまだ若い主君をその苦しみから早く解放してやりたい。


 その為には新しい恋に出会うのが最も良いと順五郎は思っていた。


 だが、



 ――今回縁談の相手に会うのはちょうどいい機会だと思ったが、この様子じゃ会ってもまだ駄目だろうな。



 順五郎は胸の内で密かに嘆息した。


「しかし、真田殿は大丈夫でしょうか?」


 不意に、壮之介が言った。


「何がだ?」

「真田殿は智将ではありますが、壬午の戦乱の折、短期間のうちにあちこちの勢力に与したように、どうもあまり信用が置けないと言う印象があります」

「ああ。確かにあの時はころころとつく勢力を変えていたらしいな。だが、城戸家とは昔からつきあいがある仲、まさか変な気は起こさないとは思うが」

「そうであれば良いのですが」


 壮之介が顔を曇らせる。


「しかし……」


 礼次郎はちらちらと周囲に隙の無い目線を配り、


「用心に越したことはないようだな」

「やはりお気づきでしたか」

「ああ、さっきから感じていたよ。あちこちに殺気が潜んでやがる」

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