仙癒膏
「何見てるのよ!」
と、言う女の言葉で我に返ると、女を睨みながら文句を言った。
「女子だからと思って大人しく聞いていたが、流石に言い過ぎじゃないか? 俺は本当に間違っただけだ。知らなかったんだ。だけど二度までも湯を投げつけてくるなんて失礼だとは思わないか」
「その間違えたって言うのがそもそも信じられないわ。外の立札が何で見えなかったの?」
「疲れててな。それに寝起きでぼーっとしてたから、本当に目に入らなかったんだ」
「どうだか……私が一人でいるから変なことしようとしたんでしょう!」
「そんなこと考えてない、あんたがいたことすら知らなかったんだ!」
「さっきだって私の胸見たじゃない」
そう言われると、礼次郎はますます腹を立てた。
礼次郎は、先程ちらっと目に入ったこの女の胸と、先日見た美濃島咲の胸を思わず比べてしまった。
美濃島咲はとても豊かな乳房であったが、この女のはそれに比べるとだいぶ膨らみが小さい。
「あの小さい胸見てどうかしようなんて思うかよ」
礼次郎は、つい皮肉を言ってしまった。
すると女は顔を赤くして大きな眼を吊り上げた。
「な……何よ……! 酷い」
再び湯を礼次郎に投げつけた。
「いいから早く出て行って!」
「わかったよ」
礼次郎は背を向け、湯から立ち上がった。
そして出て行こうと歩き始めたのだが、突然ぐらぐらと眩暈を覚えた。身体が揺れ、足元がふらつく。
「うっ……」
疲労か、傷の痛みか、それとも思いがけず長時間湯に浸かっていたせいなのか、強烈なまでの眩暈に空間がぐるぐると回った。
そして礼次郎は、ついには気を失い、ドボンと湯の中に倒れ込んでしまった。
「え?」
その水音に女は振り返った。
礼次郎が湯の中に沈んだのを見ると、驚いて恐る恐る声をかけた。
「ちょっと……どうしたの?」
しかし、湯の中に沈んだ礼次郎は起き上がらず、当然返事もない。
もう一度声をかけたが、やはり反応が返ってこなかった時、彼女は礼次郎が気を失って倒れ込んでしまったことに気付いた。
「のぼせたの?」
女は慌てて湯をかき分けて近寄り、礼次郎の身体を湯の中から起こした。
礼次郎の口から湯が噴き出る。
その時、女は初めて礼次郎の身体が傷だらけであることに気がついた。
「何この傷……しかもこんなに沢山……どうしたの?」
「う……っ……」
礼次郎は再び湯を口から吐き出し、目を覚ました。しかし、頭はまだ朦朧としており、ろれつも回らない。
「何か熱もあるみたい。のぼせただけじゃなさそうね。これは良くないわ」
女は呟くと、
「喜多!喜多!」
と、大声で叫んだ。
すると、すぐに喜多と呼ばれた女が外から飛んで来た。女であったが、男装をしていた。
その喜多は、目の前の状況を見ると驚き、
「ゆり様! その男は……? 無礼者!」
と声を荒げて湯の中に飛び込もうとした。
だが、ゆりと呼ばれたその少女が、慌てて手を振って制した。
「大丈夫よ! 別に何もされてないから! この人、どうも間違ってこっちに入って来ちゃったみたいなんだけど、見てほら、すごい傷だらけで何か熱もあるみたい」
喜多は足を止めると、ふらついた身体を支えられている礼次郎を注意深く見て、
「確かにこれは尋常ではない様子」
「でしょう。ちょっと手伝って。あそこに寝かせよう」
「わかりました」
二人は、湯殿から礼次郎を引き上げると、脱衣所に連れて行って仰向けに寝かせた。
「喜多、手ぬぐいを……その……お願い」
ゆりは顔を赤らめた。
喜多は苦笑し、長い手ぬぐいを行李から取り出すと、礼次郎の腰から股間の上にかけた。
その間、ゆりは急いで身体を拭き、着物を着る。
礼次郎は、意識が段々とはっきりして来たらしい。
「すまん……もう大丈夫だ」
と、半身を起こしかけた。しかしゆりが寄って来て、
「駄目、もうちょっと寝ていてください」
と、叱りつけるような口調で言って礼次郎の上半身を再び倒した。
その時、礼次郎の視界に、ゆりと言う女の胸のあたりに、小さな木彫りの像が揺れるのが見えた。
それは小さく精巧にできた観音菩薩の木像で、ゆりはそれに革紐を通して首から提げていた。
「喜多、私の薬袋を取って」
「はい」
喜多が言われた通りに、行李から革の薬袋を出してゆりに渡した。
受け取ると、ゆりはその中から紙に包んだ粉末状の薬を取り出した。
「はい、これを飲んで。熱が下がりますので」
ゆりは、その薬を水と共に礼次郎に飲ませた。
そして、次に礼次郎の身体の傷を詳しく観察して、
「こういう傷にはこれが効くのよ」
と、小さな木箱に入った半練り状の塗り薬を取り出して礼次郎の身体の傷口に塗って行った。
その一連の手際の良さに礼次郎は感心していた。まるで医者である。
「これはね、仙癒膏って言って私が作った薬なんです。試した限りではほぼどんな傷にもよく効きます」
ゆりは言いながら、礼次郎の身体の傷に次々と仙癒膏を塗って行く。
「自分で作った……? ほ、本当か?」
礼次郎は驚き、まじまじとゆりの顔を見た。美貌であるが、まだ少女のような面差しが残っている。とっても薬を自分で作るような女には見えなかった。
だがゆりは、そんな礼次郎の疑念を見透かしたかのように、
「嘘じゃありませんよ、本当に私が作ったんですから」
と、笑いながら小さな胸を張った。続けて、ゆりの背後に控える喜多が付け加えた。
「ゆり様は幼少の頃から医術に興味を持ち、あの曲直瀬道三殿の教えも受けている。薬の調合なども自分でされるのだ」
「何……そうか、とてもそうは見えないが、凄いんだな」
礼次郎は再び感心してしまった。
「それにしてもすごい傷ね……何をしたらこうなるのかしら? 戦にでも行っていたのですか?」
「いや、まあちょっと……そんなところかな」
礼次郎は口を濁した。
「いや、違うわね、これは切り傷じゃないし。鞭や棒で叩かれたような傷……まるで拷問でもされたみたいだわ」
ゆりは眉根を寄せて言った。




