灼熱の死闘の果てに
その時、天守の入り口前には、順五郎と美濃島咲が辿り着いていた。
だが、二人は戸の向こう側の廊下、広間などのあちこちに炎が広がっているのを見て、動けないでいた。そもそも、戸自体が炎に燃えていて、そこを通って行くこと自体ができないのである。
「まあ、これならいいんじゃない? 放っておいても勝手に焼け落ちるでしょう。もう戦は私たちの勝ちなのよ。引き返しましょう、じゃないと私たちが焼かれるわ」
咲が言うと、
「だけどよ。まだ風魔玄介の首を挙げていない。天哮丸も見つけられていない。奴はきっと天哮丸と共にこの中にいるぜ」
順五郎は、中に飛び込もうかどうしようか迷っている風である。
「もし玄介が中にまだいるとしても、いずれ天守と共に焼け死ぬでしょう。放っておけばいいのよ」
「だけど、天哮丸は……」
「こうなった以上仕方ないでしょう。殿には諦めてもらいましょう。そもそも、よく考えると天哮丸なんて剣ははろくでもないわ。あれが無ければ城戸家も私たちもここまでの苦労はしなくてすんだんじゃない。焼失してしまうなら、それの方がいいわ」
咲が皮肉を言って笑った。
「おめえ、それを言っちゃあおしまいだぜ」
順五郎が眉をしかめて返した時だった。
戸の向こう側に、礼次郎が返した者らが姿を現した。
「おお、まだいたか」
順五郎が大声で呼びかけると、
「大鳥様、美濃島様、大変です」
兵士らは青い顔で喚いた後、思い切って跳躍し、戸の炎の中を潜ってこちらに飛び込んで来た。
「おお、すげえな」
その大胆な行動に驚く二人へ、兵士らは中の状況を告げた。
「何、殿が?」
聞いた二人は目を丸くして仰天した。
「後方で指揮を執っているものとばかり思っていたら、真っ先に突入して行ったのかよ。それはまずいぜ」
順五郎は不安そうに上層階を見上げた。
「殿は、風魔玄介が天哮丸を破壊するつもりだと言われまして……」
「それにしても、自ら行くことないでしょうよ。結果、こんなことになっているじゃない」
咲は怒り混じりに呆れている。
「とにかく、火を消そう。できるかどうかはわからないが。急いで千蔵や喜多にも知らせるんだ」
そして、本丸の戦はまだ続いていたが、一方で城戸軍による天守の消火活動が始まった。
しかし、この状況下で水の手から水を運んで来て、すでに回り始めている炎を消すと言うのは困難を極めた。と言うより、雨が降らない限り不可能である。
しばらくして、城戸軍は本丸内の敵を全て掃討したが、天守の消火だけはどうにもならず、逆にますます燃え広がって行く炎を前に成す術もなかった。
その頃、城戸の館――
本主殿の前の庭で、葛西清雲斎が薄闇の中に佇んでいた。
廊下を歩いていてそれを見つけた女中のおみつが、声をかけた。
「葛西様。そのようなところでいかがされました?」
清雲斎は振り返らなかった。夜空を見上げ、星海の中に浮かぶ白い三日月を見て静かに言った。
「礼次が斬り合っている」
「え? 殿が?」
「ああ」
「どこでですか? 何故わかるのですか?」
おみつは不思議そうに訊いたが、清雲斎は答えなかった。
――あの業を使う時は気をつけろよ、礼次……。
清雲斎の顔に、珍しく憂いの色が浮いていた。
瞼の裏に思い出されるのは、初めてその業を伝授した時のこと――
深夜、子の正刻。屋外の稽古場の四隅に篝火を焚き、その中央で師弟は向かい合っていた。
「ここまで、お前の最大の長所である勘の鋭さと目の良さを鍛えて来た。今から伝授する業には、何よりもこの二つが必要になる。真円流究極の秘剣と言われているだけあり、最も真円流らしい業と言え、最もお前に相応しい業でもある。そして、今のお前ならば必ず習得できるはずだ。だがな……」
清雲斎は険しい表情となった。
「この業を使えば、お前は心の闇に呑み込まれ、そのまま戻って来られなくなる可能性がある。それ程、精心術によって限界まで心の皮を剥いていく必要があるからだ」
「…………」
「実を言うと、これは真円流の業ではない」
「え?」
「本来は極円流の業だ」
礼次郎は驚いて口を開けた。
「極円流? しかし極円流は確かただの伝説だとお師匠様が……」
「いや、あれは嘘だ。お前が極円流に興味を持たないようにああ言ったんだ。何故なら、強さを追い求めるあまり、極円流を修行した人間は、全て気が狂って死んでいる。お前がどうなろうと俺にはどうでもいいんだが、お前は俺の唯一の弟子だ。その弟子が狂い死にする様は見たくないからな」
篝火に照らされ、清雲斎の険しい顔がより深刻そうに見えた。
礼次郎は唾を飲み込み、訊いた。
「……本当に狂ってしまうのですか?」
「ああ。俺の師匠がそうだった。極円流の修行を開始して、わずか一年程で狂人になっちまった。だから礼次、約束しろ。絶対に極円流には手を出すな。そして、今から伝授する業も、使えば狂人になってしまう可能性がある。だから、どうしようもなくなった時にだけ使え。わかったな」
「はい、承知いたしました」
「では始めようか。その俺の師匠が教えてくれた唯一の極円流の業だ。名を龍ノ牙と言う」
「龍ノ牙」
「まずは俺がやって見せよう。本気で俺に打ち掛かって来い」
「はい」
”影牙”を躱した風魔玄介は、余裕の笑みを浮かべながら剣を八相に構えた。そして摺り足で間合いを詰めて行く。
礼次郎は正眼に構え、切先の向こうに玄介を睨む。
額から汗が垂れた。
階下で炎が燃える音はますます大きくなり、空気は熱を上昇させていた。
そして、礼次郎と玄介、二人の激しい斬り合いが再び始まった。
「腕を上げやがったな」
途中、間合いを取って、玄介が憎らしげに言った。
「それでもまだまだだけどな」
玄介は嘲笑すると、天哮丸を正眼に構えた。
だが、それから五合目のことだった。
狙い澄ました礼次郎の一撃が絶妙を極めた。
玄介は受け止めたものの、その手から天哮丸を取り落してしまった。
玄介の顔色が変わった。その隙を逃さず、礼次郎は突きを放つ。
玄介は大きく後方へ飛んでそれを躱した。
その瞬間、礼次郎は覇天の剣を捨て、代わりに玄介が落とした天哮丸を掴んだ。
城戸礼次郎の手に、城戸家重代の宝剣である天哮丸が握られた。
――これは……。
礼次郎の表情が変わった。
天哮丸の柄を握った瞬間、そこから礼次郎の全身に電流の如く駆け抜けて行くものがあった。
それは、以前武想郷で天哮丸を初めて握った時のような、何か魔物にでも魅入られてしまったかのような感覚ではない。
――何だこれは。
礼次郎は戸惑った。
とても言葉では言い表せぬ感覚であった。
だが、
――不思議だ。
礼次郎は、疲労を感じ始めていた全身に、再び力が呼び戻されて行くのを感じた。
「ふん、天哮丸を持ったからってどうにかなると思うなよ」
その時、広間の上段に退いていた玄介は、上段の壁際に掛けてある大刀を取って抜いた。
礼次郎は天哮丸を八相に構えると、不敵な薄笑いを浮かべた。
同時に、礼次郎は更に精神集中を行い、感覚を鋭く深化させて行った。
天哮丸による不思議な感覚のせいか、どこまでも感覚が鋭くなって行くようであった。
――わかる。玄介がどう動いて来るのかが。何手先までも読める。
礼次郎は、不敵に薄笑いをした。
その時、階下で、何かが崩れ落ちる音がした。その瞬間、両者は同時に飛び出した。
再び刃が激突し合う。
しかし、礼次郎には玄介の動きが全て読めていた。身体の動き、太刀捌きも鋭さを増していた。
そして、礼次郎が玄介を押し始めた。
玄介の顔から余裕が消え、必死な表情となった。
だが、すぐに礼次郎の顔も歪み始めたのだった。
ついに、このすぐ下の階にも炎が回り始めたようである。
空気がますます熱くなり、薄くなっている。
礼次郎の額からは汗がしきりに落ち、呼吸は荒くなった。
それは玄介も同じであった。
何合目か、刃を噛み合せて左右に弾けた後、二人は互いに宿敵の顔を睨みながら、動けずにいた。
だがやがて、玄介が嘲笑った。
「本当に馬鹿な奴だ。貴様は今天哮丸を取り戻したわけだが……わかるか? もうすぐにでもここまで火は上がり、この天守は焼け落ちるだろう。もし貴様が俺に勝ったとしてもだ、すぐに貴様も炎の中に焼かれるわけだ」
礼次郎は、息を乱しながら、玄介を鋭く睨んだ。
「まだ時はある。すぐにお前を斬り、ここから脱出するさ」
「ははっ、どうやってだ? 聞こえるだろう? すでにこの下は火の海だぜ」
玄介は、狂ったような高笑いを上げた。
轟々と、物が焼ける音が聞こえていた。
玄介の言う通り、すでにこの下は炎の海であろう。
そして確かに、礼次郎がここで玄介を斬り倒すことができたとしても、その後ここから脱出できる可能性は限りなく薄い。
礼次郎は唇を噛んだ。
額から汗がしきりに流れ、目に沁みた。
「諦めるんだな。まあ、そろそろ終わらせてやるさ。そして……貴様と斬り合っているうちに俺は気が変わった。元々はこの城を枕に死ぬつもりだったが、今ならまだ間に合う。俺はここから脱出して再起を図る」
「何?」
「そこの格子窓を破って外に飛び降りる。風魔忍びである俺の技なら、それぐらい造作のないことよ。まあ、外に出れば貴様ら城戸軍で埋まっているだろうが、そこは何とかうまく逃げて見せる」
「…………」
「ここで貴様を斬り、再び天哮丸を我が手に収め、ここから脱出して他国へ落ち延びる」
玄介は、汗だくの顔をにやりとさせた。
「そうはさせるか……」
「ふん……」
玄介は鼻で笑うや、いきなり間合いを詰めて飛び掛かって来た。
再び激しい斬り合い――
その間に、ついにこの階にも火が回り始めた。
下の階に通じる階段が燃え始めたのである。
しかし城戸礼次郎と風魔玄介。
灼熱の業火が迫るこの地獄の中でも、互いの魂を斬り刻み合っていた。
ずっと昔からそうしていたような、これから先も永遠にそうするかのような、果てしない戦い。
二人の人間が、目を剥き、歯を食い縛り、ただ相手を倒そうと、刀身をぶつけ合う。
その間に、礼次郎は左脇をわずかに斬られ、玄介は右肩の袖を割られた。
そして、礼次郎の足が先にもつれ始めた。
心の皮を剥いているせいもあり、疲労の進行が常の倍以上だったのである。
それは、天哮丸がもたらす不思議な力でも追いつけないほどであった。
顔は青くなり、呼吸が一層激しく乱れ、太刀捌きの速度も鈍り始めてしまった。
間合いが出来た時、玄介が笑った。
「愚か者め。この状況で真円流を使えば疲労はより激しくなるに決まってるだろう。自滅するようなもんだ」
玄介も同様に呼吸は乱れて顔面も汗だくであったが、礼次郎ほどの疲労は見えていない。
「火が回り始めている中ではこうなるだろうと思い、俺は真円流の技は使っていない」
「…………」
「俺の勝ちだ。残念だったな」
玄介はにやりと笑い、剣を八相に構えた。
だが、礼次郎もまた不敵に笑った。
「真円流を舐めるなよ……天哮丸もな」
「何?」
「俺は……お前の動きを全て読み切ったぞ……勝つのは俺だ」
「何だと……戯言を。やってみせろよ」
熱で空気が歪み始めた中、二人が同時に前に出た。
二本の剣光が、上下左右に乱れ飛んでぶつかり合う。
だが、やはり精神面体力面での疲労が濃い礼次郎の方が分が悪いのか、礼次郎の方が終始押され気味であった。
逆に、玄介は勢いを増して鋭く斬り込んで来る。
しかし、玄介の攻撃を防ぎながら、礼次郎は笑みを浮かべていた。
「何がおかしい」
玄介は目をカッと怒らせ、怒声を上げた。
同時に、八相から袈裟に斬り込んだ。
礼次郎はそれを撥ね上げる。
間髪入れず、玄介は水平に右なぎの斬撃を放った。
鮮やかな、腰の入ったぶれの無い一閃である。これほどの極限状況下であっても見事な業の冴えであった。
だが、礼次郎はその斬撃の間合いと軌道を完璧に読んでいた。
玄介が斬撃を放ったのと同時に、礼次郎は左に飛びながら同じく右薙ぎを放った。
天哮丸の刃が、飛んで来る玄介の刀身の上を滑った。
そして、玄介の刀身の上を滑って行きながら、その鍔を斬り割り、そのまま柄を握る玄介の右手をも斬り裂いた。
玄介が小さく悲鳴を上げた。
右手から血が噴出し、握っていた刀が落ちた。
すかさず、礼次郎は返す刀を左から右へと一閃させた。
天哮丸の恐るべき斬撃力。
その青白い刃は玄介の胴を斬り裂き、腹を真横一文字に抉ったのだった。
床に夥しい鮮血が撒かれた。
玄介は詰まったような呻き声を上げ、動きを止めた。
堪えきれずに身体をくの字に折らせ、両手を熱くなった床板についた。
これで、勝負は決した――
礼次郎は、激しく息を乱しながら、玄介を見下ろしていた。
「き、貴様……」
玄介は苦痛に呻きながら、顔を上げて礼次郎を睨んだ。
「何だ……今の剣は……」
だが礼次郎も、まるで斬られたのが自分であるかのように、顔を苦悶に歪めていた。
「龍ノ牙……真円流の極みの剣……い、いや……極円流の技……」
呼吸の音が、痛々しいほどに乱れていた。
「きょ、極円流……聞いたことがある……本当に……そんなものがあったのか……」
玄介は真っ青となった顔を震わせながらも笑った。
その顔から、何かに憑りつかれたかのような悪鬼の表情が消え、元の柔和な優男のものに戻っていた。
「おい……と、とどめを……とどめを刺してくれ……」
玄介は声を震わせながら言った。
礼次郎は呼吸を整えながら、無言でその顔を見下ろしていた。
すでに、床板のあちこちに炎が這っていた。
物を焼き焦がす音が轟々と渦を巻いていた。
「わかった」
礼次郎は頷き、残る力を振り絞って天哮丸を振り上げた。
「あ、姉上……」
玄介が、突然呟いた。
目から涙が流れていた。
「も、申し訳ございませぬ……しかし……今……お側に行きますぞ……」
そして、玄介は礼次郎に言った。
「せ、千蔵を……お、俺の甥を……頼んだぞ……」
「ああ」
礼次郎が答えると、玄介は苦しそうな微笑を見せた。
「さらばだ、風魔玄介」
礼次郎は呟くように言うと、振り上げた天哮丸を斜めに振った。
鋭く閃いた白銀の光と共に、鮮血が噴出した。
音を立てて、玄介の首が床に転がった。一拍遅れて、胴が崩れ落ちる。
――終わった。これで全てが終った。
礼次郎は、玄介の首を見つめた。
不思議な想いが胸に込み上げて来た。
――終わってみれば……悲しい男だった……そして凄い男でもあった。時と境遇が違えば、時代を動かす英雄であったかも知れない。
礼次郎は目を閉じ、玄介の為に黙祷した。
炎が唸るような凄まじい物音を立てていた。
壁にも火が回り始めている。
――帰らなければ……。
目を開けた礼次郎は、天哮丸を握ったまま、四方を見回した。
隅に下へ通じる階段があるが、そこはすでに炎によって焼け落ちてしまっていた。
壁には、いくつかの格子窓がある。
礼次郎は意を決した。
力を振り絞りながら、そこへ向かってよろめきながら歩いた。
だが――
礼次郎の身体を異変が襲った。
凄まじい頭痛が押し寄せ、心臓が早鐘の如く動悸を打った。
呼吸がますます苦しくなり、気が狂いそうになる感覚に押し潰された。
礼次郎は苦悶に顔を歪めた。
ついには立っていられなくなり、両膝をついた。
そして、両手で頭を掻きむしりながら唸り声を上げていたが、やがて大きく絶叫を上げると、気を失って倒れ込んでしまった。
炎はあらゆる物を呑み込みながら勢いを増している。
何かが崩れ落ちる大きな音が響いた。
地獄のような灼熱に歪む空間。
床板の上を炎が這い広がって行く。
礼次郎は気を失ったまま突っ伏していた。