月下の謀略戦
そして五月下旬、徳川家康は四千五百人の軍勢を率いて鷹巣城から出陣した。
鷹巣城の西に小倉山と言う山があり、その裾には野栗原と言う緑野が広がっている。
風魔軍が真っ直ぐに鷹巣城を目指すならば、必ずここを通らなければならない上に、ここは大軍を動かすのに最適の地である。家康はこの地で風魔軍を迎え撃つことを決め、野栗原の東の小高い丘の上に陣を構えた。
だが、家康が構えた陣は普通ではなかった。広大な範囲に渡って柵を張り、更に土塁や空堀まで築いた上に、櫓まで立てたのである。それはまるで小規模な砦か陣城、とでも言っていいようなものであった。
そして、その陣を一日で築くと、家康はその陣内に籠り、兵士らを休ませ始めた。
その知らせを受けた風魔玄介は、一旦小倉山にある小倉砦に入った。
ここからは、野栗原が一望でき、徳川軍の陣も全て見渡せる。
「家康め、かなり堅牢な陣を築いてやがる」
物見櫓から徳川軍の陣を見はるかした玄介は、徳川軍の築いた陣を見て舌打ちした。
「まるで長期間滞陣するような構えですな」
側近の三上周蔵も驚いた。
「それがわからん、一体どういうつもりだ? 数では奴らの方が上だ。一気に勝負を決しようとすぐに襲い掛かってくるものと思っていたが……」
「あれではまるで籠城。あのような陣に籠られては、我らから攻めかかれば多数の被害が出るでしょう」
「うむ。しかし不可解だ。奴らの方が兵の数では優る上に、わざわざ野栗原まで出て来たのに何故あのように堅牢な陣を築いてそこに籠るような真似をする? 何か奇策でもあるのか? 天哮丸があれば負ける気はしないが、今回は確実に勝たねばならん。これは少し様子を見つつ、策を練ろう」
こうして、風魔玄介は小倉砦から徳川軍の動向を見守ることになり、風魔軍と徳川軍、野栗原を挟んでの睨み合いが始まった。
野栗原を挟んで徳川と風魔両軍が対峙し始めたと言う知らせは、すぐに城戸にももたらされた。
礼次郎は、早速、館にいる主だった者たちを広間に集めた。
「風魔軍三千対徳川軍四千五百か」
順五郎が、地図を睨みながら呻いた。
「風魔幻狼衆はほぼ全軍でしょうな。徳川は鷹巣城や他の城に予備の兵を残してはいますが、駿府から連れて来た主力の精鋭を全て入れた備えの様子です。両者共に、此度の一戦に全てを賭けて相手を討ち滅ぼそうとしていると見て良いでしょう」
龍之丞は目を光らせた。
礼次郎が言った。
「この一戦で徳川家康が勝てば天哮丸は家康の手に渡るだろう。だが風魔玄介が勝てば、形勢は一気に逆転し、風魔は関東の徳川軍を駆逐して、一気に関東の覇権を握ることになる」
「はい。そして、どちらの結果になっても、天哮丸を奪い返すのはより難しくなります」
「じゃあ私たちも出陣かしら?」
騎馬の調練から帰って来たばかりで甲冑姿の美濃島咲が言うと、礼次郎は咲と龍之丞を見て、
「咲、龍之丞、仕上がり具合はどうだ?」
「もうだいぶよろしいかと」
龍之丞は礼次郎の方を向いて、軽く頭を下げた。
「例の、馬の方は?」
「馬は臆病だからねえ。全てと言うわけには行かないけど、七割ほどは慣れて来たかしら」
咲が答えた。
「よし」
礼次郎は頷くと、一呼吸ついてから皆を見回した。
一同、それに応えるように礼次郎の方を向いた。
「皆、聞いてくれ。我らも出陣する。この一戦を、我ら城戸家の最後の戦いとする」
短い言葉であったが、全ての決意が込められていた。
礼次郎が力強く大きな声で言うと、皆がそれに応えて気炎を上げた。
そして、礼次郎らは約二千人強の軍を率いて城戸を出立し、途中の各諸城、砦の兵士らを合流させながら、野栗原を目指して南下した。
しかし、龍之丞の献策で、城戸軍は野栗原には直接向かわず、一旦その手前の諸山城に入ることとなった。
龍之丞は、まず徳川軍と風魔軍が戦い終えるのを待ち、勝った方をすかさず襲うべし、と進言した。
「どちらが勝っても、一戦を終えた直後は兵力も減少し、酷く疲れているはずです。そこを突きましょう。諜者を多数放って戦況を常に把握し、両軍の戦が終わったら時をおかずに急襲するのです。但し、その意図が奴らに見破られれば風魔も徳川も警戒して動かなくなり、状況は膠着してしまいます。わからぬように、諸山城や国生城など、近い各拠点に分散して待機いたしましょう」
こうして、城戸軍は諸山城や国生城、野栗原まで最も近い北山砦などに分散して入り、意図を悟られぬように動きを潜めて徳川軍と風魔軍の戦の行方を注視し始めた。
だが、徳川家康の炯眼は流石であった。
「甘いわ。浅知恵よ」
家康は陣中で笑った。
家康は、鷹巣城を出た時から、城戸方面への諜者の数を増やしており、細かい動きまで掴んでいた。
諜者たちから城戸軍の動きを聞くと、家康はすぐに、城戸軍の偽装と、その意図を看破した。
と言うより、家康は、最初から城戸軍がそう出て来ると読んでいた。そして、読んだからには当然対策も立ててある。
「佐渡をこれへ」
家康は、本多正信を呼んだ。そして人払いをすると、二人で長時間に渡って謀議を凝らした。
その夜――
風魔玄介は、小倉砦内の板張りの一室で、三上周蔵ら側近数人と共に、作戦を練っていた。
だが、取り次ぎの小者の報告に、思わず驚いて訊き返した。
「何? 誠か?」
「ええ。わずかな護衛の者数人と共に来ております」
「今はどこにいる?」
「二の丸の城門の前に待たせております。如何いたしましょうか?」
「いいだろう、会おう」
風魔玄介は即断し、脇に置いてある天哮丸を掴んで立ち上がった。
二の丸の城門まで行くと、確かにその男が護衛の侍数人と共に待っていた。
男は、やって来た風魔玄介を見ると、頭を下げてから名乗った。
「お初にお目にかかります。本多佐渡守と申します」
本多正信は、穏やかな微笑を見せた。敵地だと言うのにいささかの緊張もない、落ち着いた様子である。
「風魔玄介と申す」
玄介は簡潔に挨拶すると、松明と床几を持って来させて、正信に座るように勧め、自らも床几に腰かけた。
「さて、高名な本多殿がわざわざ自ら敵地にまで参られた理由をお聞かせ願おう」
薄闇の中、玄介は真っ直ぐに篝火の揺らめきに照らされる本多正信の顔を見た。
正信は微笑で返した後、
「まずはこちらを。我が主君からでござる」
と言って、家康が書いた書状を差し出した。
受け取った玄介は、部下に松明の火を寄せさせてその書状に目を通した。
玄介は読み終えた後、驚いた表情で正信の顔を見た。
その夜は満月であったが曇天であり、黒い空には灰色の雲がまだらに重く流れていた。星の光は遮られれ、白い満月は、時折雲の間から顔を覗かせるだけであった。
それ故、下界の地上もいつもより闇が濃かった。そのような暗闇の中、一つの細い影が音も立てずに上州多胡郡の白縄山の山中を歩いていた。
その影は、城戸軍の女忍者、早見喜多である。
喜多は、配下の下忍たちとの根気強い探索の末、白縄山の深い場所に、北条家風魔衆の隠し砦が存在することを突き止めた。そして今夜、自ら砦の様子を探りに来たのであった。
配下の者どもを連れて来なかったのは、人数を連れては逆に気取られて危険に陥るかも知れぬ、と言う恐れを抱いたからである。しかし、配下の下忍たちは、何かあればすぐに駆けつけられるように、数人を麓近い場所に潜ませてある。
忍びの者など大抵はそうなのであるが、喜多は特に夜目が利く。時折除く満月の明かりだけを頼りに、慎重に、しかし器用に深い樹木を掻き分けて進んで行った。
やがて、樹木が薄くなって来ると、少し開けた場所に、砦らしき建築物が、不気味な佇まいで沈んでいるのを見つけた。ぽつぽつと、篝火の灯りが揺らめいているのも見えた。
――あれか。
喜多は息を潜め、遠目から窺った。
いくつかの櫓を備え、周囲には土塁を巡らせているが、その土塁も低く、全体の構造も簡素なように見える。
喜多は更に近づき、用心深く周囲の様子を探った。
人が潜んでいる気配は無かった。
――隠し砦であるが故に、流石の風魔も外には見張りを出していないようだな。
土塁の間の簡素な鉄門の前に、見張りの下忍が二人立っているだけであった。
だが、その下忍は夜半にも関わらず、まるで眠そうな素振りを見せずに、隙の無い鋭い視線を周囲に配っているようである。
喜多は、そこを避けて、砦の様子を探りながら迂回し、裏手に向かった。
櫓の上には、やはり下忍が立っていた。闇に紛れやすいよう、全身濃紺ずくめの喜多は、その見張りの下忍が別の方向を見ている隙に、素早く土塁に駆け寄って身を伏せた。
そして、慎重に土塁をよじ登り、また下忍が別の方角を見ている間に、さっと中に降り立つと、猫の如く静かに素早く駆けて、近くの土蔵の陰に身を隠した。
中にも、数人の風魔忍びが巡回して見張りをしていた。
喜多は息を潜めて気配を殺していた。やがて、一人の見張りが土蔵の前まで来ると、喜多は素早く駆け寄って首筋に毒針を突き刺した。見張りの男は、声を上げることもなく気絶して崩れ落ちた。喜多はその男を再び土蔵の陰に引き摺ると、素早く甲冑を剥ぎ取り、自分で着た。
そして何食わぬ顔で土蔵の陰から出て、歩き始めた。
風魔の下忍に化けることには成功したが、それでも他の巡回の下忍たちとはなるべく会わぬよう、気をつけながら歩いた。歩いているうちに、この砦の全体の構造がわかった。曲輪は、この一つだけであった。この本廓内に、館、兵士らが寝起きする建物、小屋、材木小屋、武器蔵など、全ての施設があった。
――うむ、砦と言うよりは大規模な忍び小屋と言ったところか。上州一帯の隠密活動の拠点だな。
喜多はそう判断した。
だが、風魔の拠点だけあって、ただの砦や忍び小屋ではなかった。釣押や臑払い、落とし穴などの罠があちこちに仕掛けられているようであった。
喜多はそれらを避けながら慎重に歩き回り、やがて敷地内の隅にある大きな土蔵の壁に目を止めた。
壁の下、地面に接している部分に、格子のはまった小窓らしきものがあった。
――あれはもしや?
喜多の直感がざわついた。
周囲を窺い、人の気配が無いことを確かめると、土蔵に近づき、しゃがみ込んでその小窓を探った。
――地下室か。
喜多が思った通り、それは地下室の明かり取り用の小窓であった。
更に身を屈め、格子の隙間から中を覗き込んだ。だが、外も月明かりのみの夜闇ならば、中も灯火が無い闇であった。いくら喜多が夜目が利くと言っても、流石に中は見えない。
喜多は意識を集中し、中の気を探った。微かな、人の呼吸の気配を聞いた気がした。
単騎での決死の敵地潜入の為、嵩張る龕灯は持って来ていない。最後の最後と言う時に使う、非常時用の小さい松明を一本持って来ているのみである。 だが喜多は思い切ってそれを取り出して点火した。そして、その火を格子に近づけて中を透かし見てみた。闇はまだ濃かったが、先程よりは中の様子が見えた。すると、薄い闇の中、仰向けに寝転がっているような人影が沈んでいるのが見えた。
――千蔵だ。
喜多はすぐにわかった。
はい、もう少しです。もう95%ぐらいのところまで来ました。
もう少しおつきあいいただければと思います。
しかし、前回の伊達政宗のところ、皆様がどう思ったかが気になりますね。
この作品読んでくださっている方なら、「まあ、フィクションだからねー」で笑って理解してくださると思いますが、伊達政宗が最新兵器の馬上筒を七十丁も贈るなんて、まずありえないことです。
更に言えば、騎馬鉄砲は存在しましたが、実際にはこけおどしで大して役に立っておりません。突撃しながらだと一発しか打てないですしね。鉄砲隊の高速移動が主目的なら話は別ですが。
そもそも、馬は非常に臆病なので、馬上で当時の火縄銃を打つなど本当にできたかどうかすら疑問です。
ですがまあ、何度も言っている通り、この作品は歴史小説でもなければ昨今流行りのリアル系時代小説でもなく、あくまでエンターテインメント第一のライト時代小説ですので、面白さ重視で馬上筒を出しました。
車懸りの陣を出した時と同じです。
さて、あと十回ぐらいですかねえ。城戸礼次郎の最後の戦い、どうか見届けてやってください。