三つ巴
七天山城本丸の大広間。
風魔玄介に意見をした幹部の一人が、その場で天哮丸によって斬り捨てられた。
腹から血を噴出させ、呻きながら横転した部下を冷たく見下ろし、玄介は言った。
「周蔵、こいつを片付けとけ」
「はっ……」
玄介の側近、三上周蔵は、複雑そうなで顔で応えた。小者を呼び、後処理を命じた。
すっ飛んで来た小者らが、その無残な遺体を片付けている間、周蔵はちらりと玄介の顔を見た。
玄介は、青白い顔に血走った眼で冷たく見下ろしていた。
近頃、玄介の表情が明らかに変わって来ていた。
戦況が徳川軍に押されるようになってからである。
頬がこけ、目は常に血走って時折妖しい光を湛え、元々の色白がますます病的なまでに青白くなった。以前は、普段は柔和な容貌の中に時々恐ろしいほどの残忍さと酷薄さを現していたのが、最近では常に悪鬼のような表情で、残忍さも増した上に粗暴になった。
何か気にいらないことがあると、すぐに部下を手討ちにするようになった。
そんな玄介の変貌と、近頃の芳しくない戦況から、風魔幻狼衆の内部にも動揺が起き始めていた。以前は、神性を帯びた圧倒的な忍びの技と統率力に、玄介のことを陰で何か言う者などいなかったのに、今ではひそひそと人目を忍んで何かささやきあっている者らを見ることがある。
(一時は武州を平らげて小田原城にも迫ろうかと言う勢いであったのが、今では奪い取った諸城を德川に奪われ、本拠地であるこの七天山までが脅かされている。この状況がお頭を変えた一因であるのだろうが、お頭はそれだけでここまで人が変わる人ではない。もしやまさか……)
三上周蔵は、玄介の手に握られている、未だ生々しく鮮血に濡れている天哮丸を見た。
(天哮丸の魔性の力に蝕まれているのか? 天下を握るほどの力を得るが、相応しくない者が使えばその身を滅ぼすと言う……まさにその伝説の通りではないか)
周蔵は、全身に薄寒いものが這い寄ったのを感じた。
(しかし、嘆いてばかりはいられん。このままでは離反者が出るであろう。何とかせねばならぬ)
周蔵が難しい顔をしたその時、取次の下忍が慌ただしくやって来て、広間の外の廊下に跪いた。
「申し上げます」
下忍の男が、少し前に進み出た。
「何だ? つまらん報告だったら叩き斬るぞ」
玄介は血走った鋭い眼光を向けた。
下忍の男は、一瞬恐怖に身を固くしたが、すぐに唾を飲み込んで報告をした。
「六条原にて、徳川軍と城戸軍が一戦に及んだ結果、城戸軍が勝利し、徳川軍が敗走いたしました」
「何?」
玄介が赤い目を見開いた。
「誠か?」
「はっ。徳川軍は城戸軍よりも多勢でありましたが、城戸軍の巧みな采配により打ち破られたようです」
広間の両脇に座っていた側近幹部連中の間にざわめきが起こった。
「そうか」
玄介はにやりと笑って頷いた。
「徳川が負けたか……やはり城戸礼次郎は侮れませんな」
周蔵は眉間に皺を作った。
玄介は何か思案していたが、やがてふふっと薄笑いを浮かべた。
「しかし、これは好機ではある。調子に乗っていた徳川の勢いが挫かれたのだ。今こそ反攻の機であろう」
そして、風魔玄介は出陣することを皆に告げた。
その日は、空に雲が多い曇天であった。
六条原の戦いで惨敗した倉本虎之進は、約四百人ほどの残兵と共に鷹巣城に帰り着くと、血と傷に汚れた痛々しい甲冑姿のまま徳川家康の前に出た。
「面目ございませぬ。殿の兵を預かりながらのこの惨敗。言い訳のしようもございませぬ」
虎之進は、広間の外の庭先に両膝をつき、無念そうな顔を垂れた。
家康は縁側に立ち、険しい顔で虎之進を見下ろしていたが、やがて表情を緩めて、
「仕方あるまい。顔を上げい、虎之進」
と、落ち着いた声で言った。
「はっ」
虎之進は恐る恐る顔を上げた。
「万が一のことを考えて後詰を送ったが、まさか敵にも更に後詰があったとはのう」
家康は呻いた。
「城戸のことは大体調べて、およその戦力は把握していたつもりであったが、まだそれだけの兵をどこかに隠しておったと言うことか」
「はっ。しかしそれでも、総兵力は我らの方が上。であるにも関わらずこの負け方。この虎之進、いかような処罰をくだされようとも、決してお恨みはいたしませぬ」
虎之進は、普段は冷酷な表情に悲壮な色を満たして言った。
だが、
「ああ、よいよい。気にするでない。処罰はせん」
家康は手を振って笑顔を見せた。
「え?」
虎之進は驚いた。
「勝敗は兵家の常と言う。敵より多数の兵で当たっても負けることなどよくあること。いちいち処罰をしてたら家来が皆いなくなってしまうわ」
と、家康は虎之進の重い気持ちを吹き飛ばすかのように笑うと、今度は一転厳しい顔つきとなり、
「それに、この負け戦の責任は儂にもある。決してそなたの采配だけではない」
「殿に?」
「うむ。先日の諸山城での空城の計。あれで手痛い反撃を受けても、儂はまだどこかに城戸礼次郎を侮っている気持ちがあった。"城戸の小倅"、"少々剣はできてもまだ戦知らずの青二才"、"源氏の名門とは言っても所詮小さな国衆に過ぎない家"などと、罵ったようにじゃ。だが、それは儂が間違っておった。儂の認識が甘く、奴の器量を見誤っていたのじゃ。此度の敗戦はそれが原因よ」
家康は鋭い目で曇りがちの天を睨んだ。
「そして、此度の戦でようやくはっきりとわかった。あ奴は小さな国衆の小倅でもなければ、戦知らずの青二才でもない。優秀な知将、猛将を従え自在に動かすだけでなく、本人にも戦の天分有り。城戸頼龍は紛れも無く戦国の武将である。儂の持てる全ての力を尽くして戦わねば勝てぬ最強の敵である」
家康は天を睨んだまま、強く言い放った。
虎之進だけでなく、背後左右で聞いていた井伊直政や服部半蔵などの武将たち、近習の者たちなどが、皆静まり返った。
家康は、彼らをゆっくりと見回して、厳しい表情で言った。
「次は儂自ら出向く。七天山攻略の前に全軍で城戸を攻め滅ぼすぞ」
その場にいた者たちが皆、ははっ、と答えて頭を下げた。
だが、そこへ使番の者が慌ててやって来て、家康の側に跪いた。
「申し上げます。七天山の風魔軍に動きあり」
「何? 詳しく申せ」
「はっ。風魔玄介は、六条原での我らの敗戦を知り、反撃の機会はまさに今、と見たようです。どうやらこの鷹巣城を奪い返さんとしているようで、二、三日中にも七天山から出陣する模様です」
「ふむ……」
家康は頷いた後、小さく溜息をついた。
「儂としたことが少し打つ手を間違えたかのう……有利に運びながらも後手に回っておるわ……まあ良いわ。風魔玄介が自ら出て来るとなれば好都合よ。奴はきっと天哮丸を持って来るであろう。これを機に野外で一戦して風魔軍を完膚なきまでに叩き潰し、風魔玄介の首をも挙げた上で天哮丸を奪ってくれん。城戸はその後じゃ」
と、家康は言ったが、急に眉をしかめて、「いや、待てよ……」と、何か考え込んだ。
「我らが風魔を迎え撃ちに出て行くとなると……」
その後、家康は、うむ、うむ、と一人頷きながら思案に耽った後、皆に出陣することを告げた。
六条原の一戦で勝利を収めた直後、礼次郎ら城戸軍は、その勢いに乗じて、諸山城の南方にあるいくつかの徳川方の小城や砦を奪取していた。
その後、礼次郎本人は再び諸山城に入り、徳川軍や風魔幻狼衆の動向を注視し始めた。
だがそれより五日目、城戸から来た一つの知らせを受けて礼次郎は驚き、再び諸山城を軍司壮之介に任せて、皆と共に城戸へ戻った。
城戸へ帰り着いた翌々日。
礼次郎は皆と共に、城戸盆地の北の入口まで、彼らを出迎えに行った。
彼らの一団は、夕暮れ時、赤い残照を浴びながら続々と山道を下ってやって来た。
約三百人の屈強な兵士たちであった。先日の直江兼続らと同様に、彼らは旗を差していない。だが、率いてやって来た先頭の武将を見て、礼次郎は微笑して声をかけた。
「源次郎様、お久しゅうございます」
その武将は、真田家の真田信繁であった。
一昨日受けた知らせは、沼田城の真田信幸からの手紙で、「突然のことであるが、差支えなければ是非我々も力を貸したい」との旨であった。
「やあ礼次郎殿、遅くなってすまないね」
真新しい南蛮胴の甲冑に身を固めた信繁は、目庇の下から柔和な笑顔で答えた。
「いえいえ。まさか源次郎様が自ら来られるとは思いませんでした」
「いやあ、たまたま関白殿下にお許しをいただきこちらに戻っていたものの、ちょっと暇を持て余していたところだったからね」
「しかし、本当に急なことで驚きましたよ」
「私も驚いたよ。兄者が急に、『礼次郎殿に兵を貸すことにした、源次郎、お前連れて行け、ついでに少し助けて来い』なんて言うものだから」
信繁は困ったような言いぶりだが、表情は嬉しそうであった。
「何でまたこうも突然?」
「まあ、突然とも言えないんだ。兄者は、昨年の暮れから、礼次郎殿が幻狼衆や徳川と戦っているのを知り、何かしら協力したかったらしいんだ。兄者は礼次郎殿がお気に入りだからね。だけど、真田家の立場を考えるとどうにも動きにくいのでずっと葛藤していたんだ。だが、今回、越後の上杉様が兵を出したのを見て、踏ん切りがついたようだよ」
先日、直江兼続が一軍を率いて城戸へ来たが、彼らが城戸へ来るには上州北部の吾妻郡一帯の真田領を通過しなければならない。兼続はその際、極秘に沼田城の真田信幸に使者を遣わし、事情を説明すると共に通行の許可を貰っていた。
信繁の話では、その時に信幸も触発され、城戸へ兵を出すことを決心したらしい。
「しかし、いいのですか? ご迷惑にはなりませんか?」
「いやあ……真田家と徳川家とは、和議を結んだばかり。しかも、徳川家は今や豊臣家に臣従しようとしている。そして私は真田家の次男坊であり、関白殿下のお側に仕える者だ。そのような状況で、極秘とは言え、このように兵を貸していいものかと言ったら……まずいだろうと、私は思うね。隠そうとしてもいずれ徳川方にもばれるであろうし」
「では……」
礼次郎が顔を曇らせると、信繁は礼次郎の懸念を吹き飛ばすように笑った。
「まあ、いいじゃないか。もうこうして来てしまったんだ。何かあったら、言い出した兄上と私で、必死に対応策を考えるよ。心配はいらない。最悪の場合、私が関白殿下に話して何とかするさ。安心して欲しい」
「そうですか……でも……あ、安房守様は何と?」
「一応、文では知らせた。こういう事情で礼次郎殿に力を貸したいと思いますがよろしいでしょうか? と」
「お返事は」
「何も無いよ。使者の話では、手紙を見ても内容については何も答えなかったらしい。無言のまま、何も言わずに謁見の間を出て行ってしまったそうだ。まあ、そういうことだね」
「なるほど、安房守様らしい」
礼次郎は笑った。
つまり、真田が力を貸したことが徳川にばれて問題になっても、その時には昌幸は「私は知らなかった。愚かな息子たちが独断でやったこと。申し訳なかった」とでも言って、何か対応策を講じるつもりなのだろう。
「なので礼次郎殿、安心していただきたい」
「はい、ありがとうございます」
と、礼次郎は笑みを見せたが、すぐに感極まったような表情になった。
「私は何もお返しできていないと言うのに、源三郎様にはいつも助けられている。もちろん、源次郎様、安房守様にも……いずれ、このご恩は何倍にしてお返しいたします」
すると、信繁は慌てたように手を振り、
「いいよいいよ、気にしないで。私も兄上も、徳川家康や風魔玄介のやり方に憤りを覚え、旧知の仲の礼次郎殿を助けたいだけなんだから。それに、あまり大きな声じゃ言えないが、これは我ら真田家にとっても益あることなんだ」
「え?」
「城戸に来る途中、父上からの使いがこっそりと私のところに来てね、父上からの言伝を残して行ったんだ。『つぶさに今の徳川軍を見て参れ。もし機会あれば遠慮なく家康の首を取れ』とね」
「あ……」
礼次郎は驚いた顔となった後、苦笑した。
「流石安房守様」
「だろう? だからまあ、気にしないでくれ」
とは言ったものの、上杉家に続き、真田家の協力である。義心からの行為であるとは言え、この戦乱の世に見返りも求めずに兵を貸してくれたのだ。日ノ本広しと言えど、このようなことをしてくれる家などそうそうない。
礼次郎は感激すると同時に、いずれこのご恩を返さねばならない、と強く誓った。そして、何としてもこの戦いに勝たねばならない、との決意をますます固めた。
だがその三日後、礼次郎を更に驚かせる事が起きた。
「何、姉上が?」
その時、礼次郎は葛西清雲斎との激しい稽古の後で、強い疲労から昼寝をしていたのだが、ゆりが身体を揺すって来ながら言った言葉で、跳ね起きた。
「本当か?」
「ええ。突然だけど里帰りですって。しかももう国境まで来ているとの話ですよ」
ゆりもまだ驚きの残っている表情である。
「はあ? もう国境まで? もっと事前に知らせてくれれば良いものを。急いで出迎えの支度をしないと」
礼次郎は跳ねるように立ちあがった。
「出迎え? 里帰りでしょう? 突然のことなんだから、別に来るのを待っていればいいんじゃない?」
「あの姉上のことだ。突然とは言え、出迎えに行かなかったら、何をされるかわかったもんじゃない」
礼次郎は怯えに近い表情で、急いで着替えにかかった。ゆりは慌ててそれを手伝う。