表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天哮丸戦記  作者: Samidare Teru
最終章
198/221

修羅の家

「お考えは変わりませぬか?」


 板格子の外から、目のぎょろりとした若い男が膝をついて訊いて来た。

 男は食事を運んで来ていた。雑炊がなみなみと盛られた木椀を、格子の隙間から滑り込ませた。

 座って瞑想をしていた笹川千蔵は、目を開けてじろりと男を一瞥しただけで、男の問いには答えなかった。


「如何でしょうか?」


 薄暗い板格子の外で、男が再び訊ねた。

 千蔵は置かれた木椀から立ち上る白い湯気をちらりと見た後、男の顔を睨んで言った。


「くどい。俺は変わらぬ。俺は真田家の笹川千蔵であり、今は城戸頼龍様の家来だ」

「さようですか」


 若い男は無表情に頷いた。


「爺殿、いや、風魔小太郎は?」


 千蔵が言った。


「今日はお出かけでございます」

「…………」

「もっとも、おりましてもお会いすることは叶いませんがな。お頭は、千蔵様の気が変わるまでは会わぬと仰せです」


 男は薄笑いで言った。


 ここは、二間四方ほどの地下牢。

 千蔵は、ここに幽閉されていた。


 上方に、地上に通じている明かり取りの小窓が一つあり、そこから陽光が漏れ入っている。

 千蔵は小窓の眩い光を見上げて、吐息をついた。


 ――城戸はどうしているであろうか。


 あの日、千蔵は、気付くと板張りの冷たい床の上で目を覚ました。

 彼の記憶は、丸蔵山の間道で服部半蔵配下の者たちと死闘を繰り広げた末、その新型の毒薬によって倒れたところで途切れている。

 それ故、頬に突然触れた木板の冷たさに驚き、目を開けたと同時、跳ねるように立ち上がった。

 素早く四方を見回した。

 そこは広間のような一室であった。四囲も板張りの壁であり、上方に

 そして、左右には男達が居並んで座り、跳ね起きた千蔵を、特段表情も変えずに見ている。


 ――徳川伊賀衆の忍び屋敷か何かか?


 男達が忍びらしき服装であるので、千蔵はそう思った。

 と、同時、右手を素早く左の腰帯にやった。だが、そこに彼の刀は無かった。


「お前の刀ならばここだ」


 低い大声がした。

 その声の方を振り向くと、部屋の上座、熊皮の敷物を敷いた上に、一人の巨漢が座っていた。巨漢は、千蔵の刀を握り、鞘の鐺を床板に立てていた。


「ようやく目を覚ましおったか」


 巨漢はにやっと笑った。開いた口から猛獣の牙のような犬歯がのぞいた。


 ――服部半蔵ではない。何者だ?


 千蔵は、細い目で巨漢を見た。

 その心底を見透かしたかのように、巨漢は身体を小さく揺らして笑った。


「ははは……儂は服部半蔵ではない。ここにいる者どもも徳川伊賀衆ではないぞ。そして我らはお前に危害を加えようと言う者でもない、安心せい」

「…………」

「この儂がな、服部半蔵らに連れ去られようとしておったお前を助け、ここに連れて来たのだ」

「何……」


 千蔵は細い目を見開いた。

 そのまま、じっと巨漢の顔を見つめた。

 巨漢は、鬼のような顔に、ニタニタと不気味な笑みを浮かべている。


「ここは多胡郡、白縄山の中にある我らの隠し砦」


 巨漢は言った。多胡郡は、甘楽郡のすぐ東の郡である。


「お前は笹川千蔵であろう」


 巨漢は続けて訊いた。


「…………」


 千蔵は答えなかった。


「ふむ、警戒しておるか。しかし無意味ぞ。お前が笹川千蔵であることはわかっておる」


 巨漢はまた低い声で笑った。

 千蔵は、口を開いた。


「某を笹川千蔵であると知った上で……某の命を救ってくれたのが誠であるならば……礼を申し上げる」


 千蔵は、慎重に言葉を選ぶように言った。


「礼など無用」

「しかし、あの場面で、何の為に某をお救いくだされたのか? そして、貴殿は某を知っておるようだが、失礼ながら、某は貴殿を存じ上げぬ。貴殿は何者でござるか?」

「ふふ……」


 巨漢はにいっと笑うと、


「我は風魔小太郎である」


 と、答えた。


「何っ」


 千蔵は驚き、反射的に二歩ほど、後ずさりした。


「はっはっはっ……」


 風魔小太郎は、雷のような笑い声を上げた。

 そして千蔵の顔を見ると、


「その反応。ただ風魔小太郎の名に驚いただけではないようだな。察するに、もう儂とお前の関係については知っておるようだな」


 と、にやりと笑った。

 その薄笑いは風魔玄介と似ていたが、玄介のものよりも凄みと狂気に満ちていた。


「お前の母親は、儂の娘の鶴であろう。つまり、お前は儂の孫に当たる」

「…………」


 千蔵は、細い目を見開き、小太郎の顔を凝視した。

 いつでも動けるように、腰を少し落とし、かかとをやや浮かせた。


「そう警戒するでない。今言ったように、儂とお前は爺と孫の関係ではないか。しかも、今日初めて会ったのだ。めでたい日ぞ。いくら裏切者の娘の子であるとは言え、初めて会った孫をどうこうしようとは思わん」


 小太郎は、にやにやと笑いながら言った。


 ――では、その全身から発する禍々しい気は何だ?


 千蔵は小太郎を見た。


「むしろ、歓迎しておるのだ。ここにおる我ら風魔党の幹部たちと共にな」

「歓迎?」

「うむ。次期風魔小太郎となる、貴重な儂の血を引く男子が風魔に戻って来たのだからな」

「何だと?」


 千蔵は思わず声を大きくした。

 目を見開き、小太郎の顔を凝視した。


「何を言っておるのかわからぬ」


 千蔵が困惑を押し包むように睨みながら言った。


「何故わからぬ? 儂の唯一の孫であるお前を、次期風魔小太郎として迎えると決まったと言うことだ」


 小太郎は、さも当然のことのようにさらりと言った。

 しかし、千蔵の驚きは尋常ではない。ついには困惑を包み切れず、唖然としたような顔で小太郎を見た。

 小太郎は、そんな千蔵の視線は意に介さず、言葉を続けた。


「儂には四人の子がおった。男子三人に、女子一人。その一人の女子とは、お前の母であり、我が娘でありながら我ら風魔を裏切った鶴だ。そして、三人の男子のうち、長男は優れた才を持っておったが、惜しくも任務中に命を落とした。二番目は、どうにも出来がよくないので儂が殺した」

「何だと?」


 千蔵が顔色を変えた。


「そして三番目が、玄介だ。忍びとしては図抜けた優れた才を持っているが、風魔の頭領にするには少々甘いところがあるのと、主家北条家への忠誠心が薄いように見えるのが不安であった。だが、鶴は血迷って出奔し、残った風魔の血を引く人間は玄介しかおらぬ。家来どもも賛成したので、儂は玄介を次の風魔衆頭領、六代目風魔小太郎とすることとした」

「…………」

「だが、お前も知っての通り、あ奴は我々風魔どころか、主家の北条家をも裏切り、幻狼衆の若い連中と共に謀反を起して自立しよった」


 淡々と話すように見えているが、小太郎の表情は徐々に兇気を帯びて行った。


「儂は炎の如く激怒し、自ら玄介を斬り捨ててやろうと七天山に乗り込み、玄介と刃を交えた。だが、途中で思い止まった」

「…………」


 千蔵は、じっと小太郎の兇相を見つめた。

 小太郎は、千蔵が何を思ったのか察したらしい。底冷えのするような冷笑をした。


「ふふ、勘違いするでない。悪鬼と恐れられた儂とて、我が子は可愛い。だが、我が子可愛さで道を間違える我ではない。我らにとって使えなかった次男を殺し、お前の母、鶴が我らを裏切って出奔した時には玄介に殺させたこの儂だ。北条家に背き、我に逆らうのであれば、躊躇いもなく殺す。それが、たとえ愛する女子、可愛い我が子であってもだ」


 そう、禍々しい薄笑いで言ってのけた小太郎を見て、千蔵は全身が戦慄に包まれるのを感じた。


 小太郎は猛獣の牙のような犬歯を見せてにやりと笑った。


「だが、玄介はたった一人残った風魔頭領家の血を引く人間。殺してしまえば、次の風魔党の頭領となる人間がいなくなってしまう。それ故に、儂は恐らく人生で初めて殺しを躊躇った」

「…………」

「だがの、玄介が、お前の存在を口にした。鶴の息子、つまり儂の孫であり、風魔頭領家の血を引く男が生きている、と」

「…………」

「それを聞いて、儂は思わぬ幸運があったものよ、と喜んだ。その儂の孫、つまりお前を連れて来て跡継ぎとすれば、それで全て解決するではないか、と。そして、躊躇いなく玄介めを始末できる」


 小太郎は、薄笑いで言った。


 ――人ではない。まさに悪鬼。


 千蔵は、血が冷えて行くのを感じた。

 目の前にいるこの男の思考は、尋常ではない。畜生ですら親子の情愛があり、肉親の死には心を痛めると言うのに、この風魔小太郎は、自らにとって使えなければ、我が子ですら簡単に殺し、それまで存在すら知らなかった孫をさらって来て代わりに据えるのだと言う。狂気と言う程度ではない異常者である。

 しかも、恐ろしいことに、この男が自分の祖父だと言う。こういう思考を持った男の血が、自分にも流れているのだ。

 その事に、千蔵は戦慄した。


「さて。と言うわけで、千蔵よ。我が孫よ。今日から、お前は次期六代目風魔小太郎だ。いや、儂ももう歳だ。望むならば、今日より家督を譲り、六代目風魔小太郎となってもよいぞ」


 途端に、小太郎は相好を崩した。だが、全身から発せられる兇気は消えていない。

 千蔵は、半ば青い顔で小太郎を見つめていた。

 だが、やがて、心を落ち着かせると、普段の冷静ないち忍びの表情に戻り、小太郎の顔を見つめて言った。


「戯言を。某、風魔玄介より自分が貴殿、風魔小太郎殿の孫に当たることは聞いている。しかし、だからと言って某は貴殿の孫であると言う意識は無く、自身が風魔一族の人間であると言う意識もない。某は真田家旗下の吾妻忍び衆の笹川千蔵であり、今は城戸家の家臣である。どうして風魔党の頭領になどなれよう」

「ふむ……」


 小太郎は頷き、


「風魔小太郎の名を継げるのはお前だけなのだぞ」

「某には関わりの無きこと」

「嫌か」

「言うまでもない」

「なるほど……」


 小太郎は頷くと、にやりと笑った。

 そして次の瞬間、元来の兇相を更に凶悪に変化させた。


「では仕方ない。やはり玄介の説得を続けるしかないか。そして、使えぬ孫は片づけるとしよう」

「何?」

「手向かいすることだけは許してやろう」


 と言って、小太郎は持っていた千蔵の刀を千蔵に放り投げた。

 千蔵が刀を手に受け取った瞬間、広間に冷たい風が吹き抜けた。そして、風魔小太郎の姿がそこにいない。

 千蔵は圧して来るような殺気を感じ、背後を振り向いた。同時に、大きく後方へ飛んだ。

 そこには、すでに風魔小太郎の姿があり、長大な剛刀を振り下ろしていた。

 だが、千蔵が大きく飛び退いたので、小太郎の強烈な一閃は空を斬った。


「ほう。儂のこの攻撃を躱すとは。なるほど、流石に儂の血を引いているだけあって、忍びとしての武技はかなりのものを持っているようだな」


 小太郎は笑った。

 千蔵は、素早く抜刀するや、正眼に構えた。

 大きく息を吐いて呼吸を整え、切先の先に、小太郎の挙措を見つめる。


「うむ、悪くない、悪くない」


 小太郎は不気味な笑みを見せた。次の瞬間、またしても小太郎の姿が消えた。

 千蔵は上を向いて、刀を振り上げた。そこに、大きく跳躍した小太郎が刀を振り下ろしていた。

 激しい音を立てて、両者の刃がぶつかった。

 小太郎の斬撃の威力は凄まじく、受け止めたにも関わらず、千蔵の身体は後方に押された。


 ――何と言う力。こちらからやらねばやられる一方だ。


 千蔵は短いを気合いを発し、剣を右から水平に振った。

 渾身の一撃であったが、小太郎は軽く剣を振って打ち払った。


「膂力はまだまだか」


 小太郎はにやにやと笑いながら言うと、袈裟斬りを放った。

 千蔵は右に飛んで避けると、風の如く小太郎の脇を通り抜け、背後に回り込むと同時に右下段から斬り上げた。

 だが、小太郎はくるりと身体を半回転させ、紙一重でその切先を躱すと、その回転の勢いのまま剣を真横に振った。

 千蔵は上体を逸らしながらそれを剣で撥ね上げた。


 二人は、大広間を目まぐるしく移動しながら斬り合った。

 だが、千蔵が常に必死の顔であるのに対し、風魔小太郎は終始余裕の薄笑いであった。


「なるほどな」


 何十合目かの後、小太郎は笑って呟くと、凄まじい一撃を千蔵の刀の鍔元に叩きつけた。

 強烈極まる一撃で、千蔵の刀が手から飛ばされて宙に舞った。

 はっと青ざめ、すかさず後方へ飛んで逃れようとした千蔵に、小太郎は隙を逃さずに飛びかかり、千蔵の首元に手刀を落とした。

 それだけで、千蔵は意識を失い、崩れ落ちた。

 千蔵が床板に転がった音が響いた。その後、奇妙なまでの静寂が大広間を包んだ。

 小太郎は、ふっと息をつくと、倒れた孫を見つめて言った。


「ふむ。まだまだ磨きが足りんが、戦闘能力の素質だけならば玄介以上かも知れんな。殺すのはもうしばらく待つとするか。誰ぞ、こやつを地下牢に入れて来い。考えが変わり、風魔を継ぐ気にならぬまでは出すことまかりならぬ」


 こうして、千蔵は地下牢に収監された。


 そしてひと月近くが経った。


 地下牢は薄暗くじめじめとしていたが、待遇は悪くはなかった。そこは、小太郎自身の指示なのか部下達の配慮なのかはわからないが、囚われの身であるにも関わらず、丁重に遇されている感があった。朝夕の食事は冷えた粥などと言った粗末なものではなく、粟や稗などは混ざっているが温かい炊き立ての飯が出され、汁や漬物、魚の干物などもつけられる。更に、間食と言って果物まで出されるほどであった。


 だが、今、板格子の向こうにいる若い男が、立ち上がりながら言った。


「千蔵様、よく味わってお召し上がりくだされ。お頭は、これで最後の飯にせよ、と仰せです」


 ――何?


 千蔵は顔を上げた。


「すでに二十数日が経っております。お頭は、ここまで待っても考えを改めぬのであれば、最早生かしておくのは無用である、始末せよ、と。但し、仮にも我が孫であるが故、刃で血を流して命を奪うのは残酷で心が痛む。食を与えずに飢え死にさせるがよい、こう言われました」


 男は薄笑いで言った。


「何だと……?」

「では、某はこれにて」


 男は背を返し、暗い廊下の奥へと消えて行った。

 千蔵は、まだ細い湯気を立てている木椀を睨んだ。


 ――何を言っている。それが最も残酷ではないか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ