愛しくて
瑤子や伴の者ら一行は、皆歓声を上げながら、桜の木々の中に入ってはしゃいでいた。
だが、ゆりは違った。
皆が驚喜するこの絶景を見つめながら、両目からとめどなく涙を流していた。
やがて、小さく嗚咽を漏らした。
美濃島咲が、そんなゆりの様子に気付いた。咲は、ゆりの泣いている姿を認めると、一瞬意味深に笑った。そして、瑤子たちの歓喜に沸く輪の中から抜けて、ゆりに歩み寄って来た。
咲は、ゆりの側まで来ると、ふうっと溜息をつき、呆れたような苦笑でゆりの泣き顔をじっと見つめた。
それから手拭いを取り出すと、
「そんなに泣くぐらいなら、やめておけば良かったのに」
と、ゆりの涙を優しく拭ってやりながら言った。
「わ、わたし……」
ゆりは何かを言おうとしたが、泣き声で言葉にならなかった。
そこへ、喜多も気付いて小走りでやって来た。喜多は驚いた顔をしていたが、側まで来るとすぐに微笑に変わった。
「ゆり様」
喜多は優しい声で話しかけた。
「ご自身のお気持ちを優先してもよいかと思いますよ」
「喜多……」
「帰りましょう、城戸へ」
喜多がそう言うと、ゆりは喜多に抱きつき、その胸に顔を埋めてまた泣いた。
その時、伊川瑤子は更に奥へと進み入り、伴の者らと桜を眺めながら、ある感慨に耽っていた。
「懐かしいわ。百合子が生まれたばかりの時も、百合子を抱いて桜を見に行ったのよね」
瑤子はしみじみと呟いた。
だが、彼女もまた、号泣しているゆりに気付くと、慌ててゆりのところへ走った。
「ゆり、どうしたの? そんなに泣いて」
瑤子はおろおろとしながら声をかけた。
ゆりはしばらくして泣くのをやめると、瑤子の顔を見て唇を震わせた。
「わ、わたし……」
「何?」
瑤子が身体を寄せて、自分の手拭いでゆりの頬を拭った。
「も、申し訳……申し訳ございません……」
「何を謝るのよ」
「私、行けません。京へは行けません」
ゆりはそう言うと、再び涙を流した。
「え? 何を言っているの?」
瑤子は顔をひきつらせた。
「京へは……母上と共には……行けません」
ゆりは嗚咽混じりに言った。
「え?」
「わ、私……城戸へ……戻ります」
「戻るって、何を言っているの」
ゆりは、堪えきれずにしゃがみ込んだ。
「母上……母上……申し訳ございません、申し訳ございません」
ゆりは号泣し、溢れ出て来る涙を手で拭いながら言った。
「母上が嫌いなわけじゃないんです。共に暮らしたくないわけじゃないんです。できれば毎日一緒に過ごしたいです。だけど、だけどそれ以上に私は……」
「…………」
「私は、あの人と一緒にいたいんです」
ゆりは、はっきりと言った。
瑤子は、呆然とした様子でゆりを見つめた。
だが、やがてふっと笑みを漏らすと、自分もしゃがみ込んで、ゆりに話しかけた。
「百合子、あのね……」
その時、咲が何かの気配に気付き、視線をそちらにやった。にやりとして言った。
「全く、本当に憎たらしい奴よね。ここで現れるんだから」
皆が、何を言っているのか? と言った風な顔で咲を見た。
咲は、ゆりに寄った。
「来たわよ、お姫様」
えっ? と、ゆりが顔を上げた。
「見てごらん」
咲が指差した。
ゆりはその方向を見た。
「あっ……」
ゆりの泣き顔に明るい光が射した。
そこには、息を切らした礼次郎が立っていた。
礼次郎もまた、ゆりを見ると一瞬安堵の表情となった後、明るい笑みを見せた。
もうすでに、ゆりは駆け出していた。同時に、礼次郎も駆け出した。
無数の桜の花が揺れる下、二人は互いを目掛けて駆けた。
ゆりが、礼次郎が伸ばした両腕の中に飛び込んだ。
だが、その勢いが良すぎて、礼次郎はゆりを抱き留めた瞬間、その勢いを受け止めきれずに身体が押され、二人の身体が半回転した。
「おっ……と……」
礼次郎はゆりを地面に下ろすと、
「勢い良すぎるな」
と、苦笑いした。
ゆりは礼次郎の顔を見上げて、先程までとは一転、きらきらとした笑顔を見せた。
「嬉しいんだもの」
「嬉しい?」
「ねえ、どうしてここがわかったの? ううん、どうしてここに来たの?」
「ええっと……その……」
この期に及んで、礼次郎は照れた。
ゆりの笑顔があまりに可憐であったのと、瑤子とその伴の者達、咲と喜多もいたからである。
だが、礼次郎はすぐにそんな照れを振り払い、ばっとゆりを抱きしめた。ゆりの目から再び一筋の涙が零れ落ちた。
礼次郎は、ゆりを抱き締めたまま、右手でゆりの髪を撫でながら言った。
「すまない、京へは行かせられない」
「うん」
ゆりは小さく頷いた。
「明日、万の敵が攻めて来ようとも、俺はゆりを守る」
「うん」
ゆりが泣き顔に微笑を浮かべた。
「……帰ろうか」
「うん。あなたと一緒に帰りたい」
「城戸へ帰ろう」
礼次郎は言うと、ゆりの身体をそっと離した。そして、ゆりの涙に濡れて光る瞳を見つめて、
「帰ってから……今日すぐに祝言を挙げよう」
「は?」
ゆりがぽかんとした顔になった。そしてすぐに、
「え? ええっ?」
ゆりの目が丸くなった。
「帰ってから? すぐに?」
「ああ」
「今日?」
「うん。もう夫婦になることに決めた。だから祝言を挙げる」
「…………」
ゆりは、口をあんぐりと開けて礼次郎の顔を見つめた。
礼次郎の顔に不安そうな色が浮いた。
「あれ? 夫婦になるのは嫌か?」
「いえ、嫌じゃないけど……」
ゆりは首を横に振った後、呆れ顔となった。
「あなたって人は、こんな時にまで……せっかちすぎにも程があるわ。いくら何でも今日帰ってすぐに祝言を挙げるなんて、無理に決まってるじゃない。準備が整わないわよ」
「そんなのいくらでも何とかなる。適当に準備して、間に合わないなら明日にしても……」
「そんなの嫌。一生に一度の大事な祝言よ。しっかり考えて、ちゃんとやりたい。人も呼ばないと行けないし」
ゆりは、片頬を膨らませて横を向いた。
「ああ、そうか。ごめん、そうだよな……」
礼次郎は気まずそうに肩をすくめた。
ゆりはそれを見ると、ふふっと笑った。
「でも……礼次らしい」
「ごめん、ちゃんと考えよう」
「うん、そうしましょう。でも、いいの? 夫婦になるとか、祝言だとか、今はそんな時期じゃないって言ってたじゃない」
「大丈夫だよ。問題ない」
「城戸家の当主になったばかりよ? 徳川や風魔と戦っている最中よ。祝言なんて挙げていいの?」
「奴らが襲って来たら返り討ちにしてやる」
「……祝言の時に敵が攻めて来るかも知れないよ?」
「じゃあ、甲冑を着て祝言だ」
「そんなの嫌」
ゆりは再び膨れっ面になった。だが、すぐにおかしそうに笑い声を上げた。
礼次郎も笑った。
一時、二人は見つめ合った。
そして、再び抱き合った。
瑤子がおり、伴の者達もおり、咲と喜多も見ている。
だが、礼次郎は構わずに、ゆりを抱き締め、ゆりもまた、しがみつくように礼次郎の背に両手を回した。
暖かな風が吹き抜けた。
その風で、沢山の桜の花びらが舞い、礼次郎とゆりに降り注いだ。
しばらくして再び、礼次郎がそっとゆりの身体を離した。
その時、待っていたかのように、瑤子が歩み寄った。
礼次郎はそれに気づくと、ゆりから両手を離し、緊張した硬い顔で瑤子に向き直った。
「礼次郎殿、あのね……」
瑤子が言いかけると、礼次郎は勢いよく頭を下げた。
「瑤子様、申し訳ございません」
そして顔を上げると、真っ直ぐに瑤子の目を見つめて、
「勝手な事とは重々承知しておりますが、どうかゆりを城戸に置いて行ってはくれませぬでしょうか? いえ、その……できれば……いや……ゆりと夫婦に、祝言と、その……」
自分から言い出したこととは言え、自分でも想定していなかった展開である。
当然、頭の中に何の言葉も用意していないので、礼次郎はしどろもどろになってしまった。
すると、
「礼次郎殿」
と、瑤子が言った。
「はっ」
答えた礼次郎の額に汗が浮いている。
「祝言を挙げることは許しません」
瑤子は、語気鋭くぴしゃりと言い切った。
礼次郎の顔がひきつった。
瑤子は、無言のまま恐い顔をしていた。
「だ、駄目ですか……あの、何故でしょうか?」
礼次郎が青い顔で恐る恐る訊くと、瑤子は睨むように礼次郎の顔を見て、
「私も出席したいからに決まっているでしょう」
「え?」
礼次郎が口を開けた。だが、ゆりは表情をぱっと輝かせた。
「貴方たちは、城戸で祝言を挙げるつもりですか? 私はこれから京に帰らないと行けないと言うのに。ずっと離れ離れだったとは言え、私はゆりの母ですよ。祝言の席に出たいのは当然でしょう? 」
「あ。ええっと……それはつまり……」
「京に帰った後、私は殿にゆりのことを全て打ち明けるつもりです。我が夫は優しく寛大な人ですので、怒るようなことはないと思いますが、お許しが出たならば、私はまたすぐに城戸を訪ねたいと思います。祝言を挙げるならば、その時にしてちょうだい。そして、その時までは礼次郎殿、ゆりをしっかり守ってやってくださいね」
瑤子はそう言い終えると、初めて笑顔を見せた。
その表情ときらきらとした目の輝きが、またゆりにそっくりであった。
「母上、ありがとうございます」
ゆりも、同じような笑顔になった。
礼次郎も、ひきつっていた顔が見る見る緩み、笑みがこぼれた。そして、再び頭を下げた。
「ありがとうごございます!」
礼次郎は大きな声で言った。
瑤子は手で口元を隠して笑い、
「礼次郎殿、ゆりのことをしっかりと頼みますよ。ゆりは、私がずっと探していた宝物なのです。ようやく見つけたばかりなのです。それを預けるのですから……この後、きっと貴方はより厳しく激しい戦いをするのでしょう。でも、決して負けないでね。必ず勝って、貴方の大望を遂げて。そして、私の何より大切な娘の花嫁姿を私に見せてちょうだいね」
「はい」
礼次郎は、微笑して答えた。
だが次の瞬間、表情に覇気が満ちる。
「必ずや、風魔玄介、徳川家康を討ち、天哮丸を取り戻します。そして瑤子様、いえ、義母上にゆりの花嫁姿をお見せいたします」
「ふふ……その日を楽しみにしてるわ」
瑤子が、本当に穏やかな優しい顔を見せた。
喜多と咲が歩み寄って来た。
「ゆり様、良かったですね、本当に」
喜多はしみじみと言った。涙を流していた。
「おめでとう、と言いたいところだけど何か腹が立つわねえ。結局どっちともやれなかったうちに二人が夫婦だなんてさ」
咲が腕を組み、口を曲げた。
ゆりが苦笑した。
「まだそんなこと考えてたんですか」
「当たり前じゃない。あなた達二人ともどちらも私の好みだもん。ああ、でも、関係ないか。あなたたちが夫婦になっても、機会はいくらでもあるものねえ」
そう言って、咲は濡れるように妖艶な流し目を礼次郎にくれた。
ゆりの顔が青くなった。
「咲さん、やめてくださいよ」
「冗談よ」
咲は笑いながら言ったが、その後、礼次郎に向けてちらっと胸元をはだけて見せた。
「ちょっと、咲さんがやると洒落にならないですよ! あ、礼次も何で見てるの?」
ゆりは怒り出した。
「あ、いや、違うよ。だって見えたから……」
礼次郎は慌てて弁解する。
「見えたなら見るわけ?」
「いや、そうじゃなくて……」
そんな彼らの様を見て、喜多が笑い、咲が笑い、伴の者らも笑った。
瑤子もおかしそうに笑った。その後、頭上に揺れる淡紅の桜を見上げた。
そこに、遠い記憶の彼方に去ってしまった、かつて愛し合った男の顔を描いた。
――義嗣様、安心してください。少し寂しいですが、私たちの百合子は、私たちがいなくても美しく優しい子に成長していましたよ。
桜の花びらがひらひらと舞い降りて来て、瑤子の肩に落ちた。
瑤子は、それを振り払うことはしなかった。
顔を下ろし、慈愛に満ちた微笑みでゆりを見つめた。
――そして、とても幸せな恋をしていますよ。結ばれなかった私たちの分まで……。
その夜――
礼次郎の部屋には、行燈ではなく燭が灯されていた。そして部屋の中央、二組の夜具がぴったりとくっつけて敷かれてあった。
その上に、礼次郎とゆりが座っている。
ゆりは、両膝の上で手を握りしめて、俯いていた。
元々、見る者をはっとさせる美少女であるが、今宵のゆりはその可憐な美しさが際立っていた。しみの無い透き通るような白い肌はまさに百合の花であり、筋が細く通った鼻の下の唇は、柔らかそうに淡紅に艶めき、深く長い睫の下に伏せられている大きな眼は、黒い瞳が濡れたように光っていた。
「緊張してる?」
礼次郎が優しい口調で訊くと、ゆりは無言で小さく頷いた。
「大丈夫だから」
と、礼次郎は言ったが、彼自身の顔にも微かに緊張の色がある。
ゆりは処女であるが、礼次郎は経験がある。しかし、これまでに潜り抜けて来た生きるか死ぬかの修羅場ほどの場数を踏んでいるわけではない。そっちの方はまだ未熟なのである。
「やっぱり……恥ずかしい……」
ゆりは、消え入りそうな声で言った。
瞬間、燭の灯に照らされた白い頬が赤く染まり、手を置いている柔らかい太腿が微かに揺れた。
それを見た礼次郎は、湧き上がるものを抑えきれず、ゆりの身体を抱き寄せた。
「あっ」
ゆりは、これまで礼次郎が聴いたことのないほどの艶めかしい声を上げた。
「ごめん、痛かったか?」
礼次郎は、慌てて手を離した。
「ううん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」
「そうか」
礼次郎はほっとして笑みを見せた。
「あの……やめないで。そのまま……」
ゆりが、顔を真っ赤にして言った。
「あ、ああ」
礼次郎は、ゆりを胸の中にそっと抱き寄せた。
少しの間、そのままゆりを抱いていたが、やがて、壊れそうな物を下ろすように、静かに夜具の上に倒した。
礼次郎は、ゆりの顔を見つめた。ゆりも、恥じらいに頬を染めながらも、礼次郎の顔を見つめ返した。
礼次郎は微笑みかけながら、右手でゆりの顔を撫でた。すると、ゆりの固かった表情が少し和らいだ。
「ねえ、本当にいいの?」
「何が?」
「祝言を挙げるまでは、とか、幻狼衆を倒して天哮丸を取り戻すまでは我慢する、とか言ってたって聞いたけど」
礼次郎の動きが、一瞬固まった。
「確かにそうだったけど……」
「ふふ」
ゆりがいつもの笑顔を見せた。その時、何故だか甘い香りがした。
「もう、我慢できないんだよ」
「我慢、できない?」
「俺は関東一のせっかち者だからな」
礼次郎が笑った。
そして、ゆっくりとゆりの唇に自身の唇を重ねた。
「うんっ……」
ゆりの唇から、艶やかな吐息が漏れた。
礼次郎が手を胸の間に滑り込ませると、
「あっ、待って……」
ゆりが、左手で礼次郎の手首を掴んだ。だが、礼次郎の手は止まらずにゆりの胸を這う。
「もう、本当にせっかちなんだから……」




