母の音
だが、そう簡単には行かなかった。
誰でも、子を産んだからすぐに母親になれると言うものではない。初めてのことばかりで、慣れないことばかりである。だが、大抵の場合、そこを実の母親や、周りの身内の者らが助けてくれる。父親は産後初期にはほぼ無用の長物と化すことが多い。
ところが、瑤子の場合、たった二人の侍女と従者と共に逃げて来た。一番頼れる母親はいない。しかもある日、従者の男がこの先の生活に不安を覚えたのか、行方をくらましてしまった。
更に悪いことに、残ったたった一人の侍女も不慣れな田舎の生活で病にかかり、床に臥せってしまった挙句、世を去ってしまったのだ。
瑤子も、荒れ果てていた京であったとは言え、それでも庶民に比べれば不自由の無い最上級貴族の生活をしていたのだ。
それが突然、乳飲み子を抱えた上に、誰も助けてくれる者のいない、何もかも自分でやらねばならない生活になった。
瑤子はたちまちに心を病んだ。母は強しとは言うが、それまでの生活との落差があまりに大きすぎた上に、誰も頼れる者のいない育児生活が、彼女の心身を急速にむしばんで行った。
我が子が夜泣きをする度に髪をかきむしっては喚き散らし、昼にはぐったりして床に臥せる日々が続いた。やがて食事もまともに取れないようになり、乳も十分に出なくなった。
もう限界が来ていた。
瑤子はついに、
――この子がいなければ……。
と言う悪魔の考えが頭によぎるようになった。
その度に頭を振ってそのような邪念を振り払い、すがるように我が子の笑顔を見ては何とか平常心を取り戻した。
そんな折だった。
瑤子の居場所を突き止めた実家の二条家から、父晴良の使いが来た。
全てを許すから帰って来い、と言うものだった。
しかし、それには条件があった。
「予定通り、伊川経秀様に輿入れすること。その為には、追放された近衛家の者と関係があり、子まで成したと言う事実は無かったことにせねばならない。従って、辛いことではあるが、子は捨てて来ること」
瑤子は愕然とした。余りに冷酷非情な沙汰である。
しかし、それ以上に彼女は疲れ果てていた。精神状態は正常さを失っており、思考もまともに働かなかった。
彼女は虚ろな目で、父親の条件を受け入れた。
夏のある日の払暁、瑤子は集落からほど近い小さな祠に行き、その前に眠っている我が子を置いた。
首には、あの革紐を通した観音菩薩の木像をかけた。
――この祠には毎日誰かしらが訪れる。きっと誰かが拾ってくださるだろう。
瑤子は、すやすやと眠っている百合子の寝顔を見つめた。
この頃虚ろな鈍い光しか無かった瑤子の目に、久しぶりに涙が浮いた。
――許してたもれ……。
そして、瑤子は父の使いと共に、京の二条邸へと帰ったのであった。
京に帰った瑤子は、以前のような暮らしをする中で、徐々に心身の正常さを取り戻して行った。
それを見て安心した父の二条晴良は、頓挫していた伊川経秀との縁談を再開した。
瑤子も素直にそれを受け入れ、信州から戻っておよそ半年後、婚礼が正式に決まった。
そんなある日の夜、自室の窓からぼんやりと真っ白な満月を見上げていた瑤子は、突然、夢から覚めたかの如く、表情を変えて叫んだ。
「百合子!」
瑤子は立ち上がった。自室を出て、廊下を走り、中庭に飛び出した。
「百合子……百合子……!」
瑤子は半狂乱になってその場に泣き崩れた。
ひとしきり泣くと、瑤子は再び立ち上がった。そして深夜、また以前の時と同じく、わずかな従者と侍女を連れて邸を飛び出した。
一路、信州に向かった。佐久郡に入り、あの集落を抜け、百合子を置いた祠に行った。
だが当然、そこには百合子の姿は無かった。
百合子は集落に行き、村人たちに、半年以上前、あの祠に捨てられていた赤子について何か知らなないか、と聞いて回った。だが、誰も知っている者はいなかった。近くの村々を回り、同じように聞いて回った。だがそこでもやはり、誰も知っている者はいなかった。
無理も無かった。百合子は捨てられたあの日、すぐに通りかかった旅人が見つけて拾い、そのまま目的地の上州まで向かい、途中に立ち寄った永願寺に預けたのだが、その永願寺は、祠からおよそ十里もの距離があったのである。よもや、すぐにそのような遠いところまで行ったとは思いもしなかったのだ。
「でも私は諦めませんでした。伊川経秀様と夫婦になった後も、時間を見つけては、貴方を探す旅に出ました。十七年もの間……。でも、見つからなかったわけよね。貴方はなんと武田家の姫になっていたのですから。でもずっと、ずっと……私は貴方を探していたのですよ」
瑤子は、ぼろぼろと泣きながら、ゆりの両手を取った。
ゆりは、何も言えなかった。と言うより何も出て来なかった。
初めて知った自分の出生の秘密。大きな衝撃を受けたのは事実であるが、未だどこか他人事のように感じられるのだ。
しかも、これまでずっと「優しく教養深い瑤子様」と慕って来た目の前の貴婦人が、実は自分の生みの母親だったなど、あまりに突拍子もないことである。
だが、ひたすらに謝る瑤子の、自分への気持ちは痛すぎるほどに伝わった。
「これまでごめんなさいね。ずっと辛く、寂しい思いをしてきたでしょう。私を許さなくてもいいから、謝らせてちょうだいね。そして、これから沢山償わせてちょうだい」
瑤子は、手に取ったゆりの両手に零れ落ちるほどの熱い涙を流しながら、ただ謝っていた。
「いえ、そんな……そんなに謝らないでください。確かに寂しい時はありましたが……私の父上も母上も、私を実の子として可愛がってくださいましたし、辛いことなんて全然ありませんでした」
ゆりにしてみれば、何の悪意もない言葉なのであるが、瑤子の心には痛く突き刺さった。
瑤子は切なそうにゆりの顔を見つめた。
「あの……何か?」
ゆりは恐る恐る尋ねた。
瑤子は笑みを作って、
「いえ、何でもありません。……百合子、今まで何もしてあげられなかった分、この母が何でもして差し上げますからね」
「はい……」
ゆりは、気の抜けたような返事をした。
彼女自身も、ずっと自分の実の親に会いたいと思って来た。しかし、いざ見つかり会ってみたら、元々知っていた仲であった為か、なかなか実感がわかない。
(でも、この人が私の本当の母なんだ。私を産んでくれた人なのよね)
ゆりは、泣き続けている瑤子をぼんやりと見つめた。
(瑤子様が……私の本当の母上……)
ふと、瑤子の手から不思議な温もりを感じた。
――あったかいな……。
ゆりは、その白い両手を見つめた後、目を上げておずおずと言った。
「あの……お願いがあるのですが」
「何? 何でも言って」
「その……あの……」
ゆりは、しばしもじもじと言いにくそうにしていたが、思い切って切り出した。
「あの……私を抱きしめてくださいませんか?」
それを聞いて、瑤子は目を丸くしてぽかんとしていたが、その後微笑して、
「ええ、もちろんいいわよ。私もそうしたかったわ」
瑤子は手を放すと、膝を進めてゆりの背中に両手を回し、大切な宝物を抱えるように優しく抱き締めた。
――あ……。
懐かしいような暖かさが、電流のようにゆりの身体に伝わり、そして彼女を包み込んだ。
次いで、瑤子の心臓の音が伝わって来た。自分の心臓に響いて来た。
遠い昔、幼い頃に……いや、それよりももっと前に、常に感じていた音だ。
記憶の海の深い底にわずかに残っている、この安心する音。
そうだ、自分はずっとこの音をもう一度聴きたかったのだ。
ゆりの目から、涙が一筋こぼれ落ちた。
「母様……会いたかったよ……」
ゆりは目を閉じた。涙がとめどなく溢れて止まらなかった。
「だけどね……あの時は確かに"ああ、本当の母様だ"って感じたけど、やっぱりまだ実の母親って言う実感はあまり無いの。ずっと顔見知りだった人だし、慕っていた人だし……私の中ではまだ瑤子様なのよね」
ゆりは苦笑しながら言った。しかし、その顔はとても穏やかである。一切の曇りが無い、春の朝の空のようであった。
壮之介がいち早く蕎麦掻きを食べ終え、碗を置いた。
「まあ、無理もございませぬな。ずっと探し求めていたとは言え、元々顔見知りだった人が実は生みの母親だったと言われても、そう簡単に母親だとは実感できないのは当然でしょう。 人は子を生めば確かに親になりますが、某はそれだけでは親とは言えぬと思っております。生んだから親になるわけではございませぬ。時間をかけて、子に愛情をかけ、子に対する責任を感じ、そして人は子の親になるのです。と言うことは逆もまた然りではないでしょうか」
「そうねえ。これで瑤子様は、いや、母上はまだ当分ここにいるみたいだし、時間をかけて触れ合って、徐々に本当の親子になって行ければいいな」
ゆりが微笑んだ。その顔を見て、喜多が何か言いたそうにしたが、口をつぐんだ。
龍之丞が箸を止めて言った。
「それにしても俺は美濃島殿に驚いたぜ。正月の時に、美濃島殿が瑤子様がゆり殿の母親なんじゃないかと言っていたが、まさか本当にその通りだったとはな。よくわかったな」
「まあ、私も半分冗談だったけどね。でも半分は本気よ。女の勘ね」
咲はふふ、と妖艶な笑みを見せた。
「いや、俺は誠に感服いたした。今後は、色々な局面で美濃島殿にも意見を聞くこととしよう」
龍之丞は半分笑いながらも、もう半分は真剣に言う。
順五郎が食べ終えて碗を置いた。
「しかしゆり様はこれで、氏素性の知れないどころか、貴族の中の貴族の血統だったってことになるな。二条家の瑤子様の娘ってだけでなく、父親も同じ五摂家の、しかも近衛家の人なんだぜ。凄いことだろ、これ」
「まあ、都の……」
――公家なんかこの戦国の世では無力だけどな。
龍之丞はそう言おうとしたが、止めて苦笑いした。
彼は城戸家に来てから色々と変わった。以前の彼なら、躊躇うことなく口にしていただろう。
「そうよ。私は二条家と近衛家を両親に持つ大貴族よ。もっと敬って。これ、そこの二人、頭が高い」
ゆりは冗談めかして笑いながら胸を反らした。
順五郎と龍之丞がそれに乗り、
「へへー」
と、平伏した。
それを見て、皆が笑う。
千蔵も微笑した。だがその後、急に少し暗い表情になった。
――血……親、か……。
そして二月初旬、ついに徳川家康が動いた。
幻狼衆改め風魔軍に大敗を喫した北条家は、あれ以後反撃に出ることができず、奪取されていない武蔵の諸城を守るのが精一杯であった。
北条家からの使者、また伊賀衆や諜者たちからの報告でそれを知った徳川家康は、まさに機が熟したと判断、
「我らは北条家とは同盟関係にある。助けるのは当然である」
との名目で、約八千人の大軍で駿府から出陣したのである。