ゆりの笛
翌々日、その通りになった。
風魔玄介率いる幻狼衆軍は、城戸軍に戦いを挑むことなく反転し、引き揚げて行った。
進軍中の玄介の下に、一つの知らせがもたらされたのである。
「小田原に動きあり。大軍を催して再び七天山に攻め寄せる模様」
しかもその知らせは、一回だけでは終わらなかった。わずか一刻半の間に、何人もの下忍が次々と飛んで来て同じ内容を報告した。
北条が大軍で攻めて来るとなれば、一之倉城や城戸どころではない。
「城戸はまだまだ勢力も小さいし、とりあえず放っておいてもよいかと存じます。それよりもまずは北条の大軍に勝たなければ」
三上周蔵はこう進言した。玄介はそれに同意し、そのまま七天山へ戻ったのであった。
幻狼衆軍が退却した。それを聞いて、
「本当にお前の言う通りに引き揚げて行ったな。何でわかった?」
驚く礼次郎らに、龍之丞は笑いながら言った。
「わかったと言うより、私がそうさせたのですよ」
「そうさせた?」
「ええ。我々が一之倉城を攻め落とせば、風魔玄介は一ノ倉城を奪い返さんと、すぐにでも自ら兵を率いてこちらに来るだろうと思っておりました」
「それは俺も予想はしていたが……」
「しかし、まだまだ我々の力は小さい。三倍の数の幻狼衆軍を相手に、負けるとも申しませぬが、勝てるとも申せませぬ。ならば、戦を避ける方が良い。そう考え、年明けより千蔵殿、喜多殿と密かに謀り、あらかじめ甘楽郡と北武州に流言をばらまいておいたのです。北条が前回の恥辱を雪がんと、大軍を催して再び七天山に攻める準備をしている、と。そしてこの数日はその流言を更に増やしたのですよ」
「なるほど……」
一之倉城を攻めるずっと前より、このような事態に対する手を打っていたと言う。
礼次郎は、龍之丞の用意周到さに感心した。
しかし、そこで龍之丞が呟くように小さな声で言った。
「まあ、奴らに教えてやった、とも言えますが」
「うん? 何だ?」
「いえ、何でもございません」
龍之丞が笑って言うと、そこで順五郎が素直な疑問を口にした。
「だけど、去年の末も、今回と同じ三倍の数の鉢形衆に勝ってるじゃないか。今回もお前がまた作戦を立てれば勝てるんじゃないか?」
だが、龍之丞は笑みを消し、真面目な顔になって言った。
「いや……風魔玄介が自ら出て来るとなると話は別です。私が見るところ、風魔玄介の将器は藤田氏邦よりも上です。それに何より、奴は"それを握れば天下を得る"と言われる天哮丸を持っているのです。私が必死に知恵を絞っても、今の我らの兵数では勝てるかどうか……それ故に、決戦回避の策を打ったのです」
「そうだな。俺もそれがいいと思う」
礼次郎は大きく頷いた。
「我らの敵は幻狼衆ですし、今も戦っておりますが、我らの軍備がもっと整うまでは、風魔玄介との直接対決はできる限り避けましょう。まあ、どうしようもなくなれば戦うしかありませんが」
「わかった。これでとりあえず風魔玄介は七天山に戻って行った。この間に、俺達は旧美濃島領を攻めるわけだな?」
「その通りでございます」
一方、風魔玄介。
七天山に戻り、入り口の大門を潜り抜けるなり、三上周蔵らに言った。
「これは城戸礼次郎の謀略だろう。俺達に兵を退かせる為の」
「え?」
「色々と不自然だ。恐らくは奴についている宇佐美龍之丞とか言う男が、千蔵に命じて流言をばら撒かせたに違いない」
風魔玄介は、白い顔に薄笑いを浮かべながらも、目だけは怪しく光らせながら言った。
「誠ですか?」
別の側近、黒岩重兵衛が聞き返す。重兵衛は、甲冑の上からでもその筋骨隆々ぶりがわかる堂々たる体躯の猛者である。
「ああ、多分な」
玄介が短く答えると、周蔵が怪訝そうに聞いた。
「そう見抜いていて、何故みすみすその策に乗って退いたのですか?」
玄介は薄笑いのままに、
「これは確かに流言飛語だが、あながち嘘とも言えないぞ。前回藤田氏邦の討伐軍を返り討ちにしてからおよそ一月だ。そろそろ、北条がまた攻めて来てもおかしくない頃だと思わないか?」
「ああ、確かに……」
周蔵が気付いて頷いた。
「やることが多すぎるせいか、俺もうっかりそのことを忘れていたが、今回の奴らの流言がそれを思い出させてくれた。はは、城戸礼次郎に感謝しないとな」
玄介は不敵な高笑いを上げた。
登って行く山道の先、木々の梢の間から見える七天山城の本丸に、何人もの兵が忙しく動き、壮麗な建築物が建造されているのが見える。
玄介は先月より、天守を作らせているのであった。玄介はその建造途中の天守を見て、意味深ににやりと笑った。
伊川瑤子は、城戸の館に滞在して早一か月となる。
心のうちでは早く帰らねば、とは思っていたが、雪などの悪天候や城戸軍の一ノ倉城攻略などによる慌ただしさでなかなかきっかけがなかった上、ゆりやおみつ、龍之丞らにその高い教養を慕われて、もう少しもう少しと引き止められ、歌や舞、小唄、楽器などを教授して日を過ごしているうちに、いつの間にか一月も経ってしまったのであった。
しかし本当は、瑤子自身がこの城戸に滞在しているのがとても心地良く感じていたからかも知れない。
上野の山間の中の小さな土地である城戸は、はっきり言って田舎である。
館を中心に小さな町があり、他に数えるほどの村、集落がある以外は、田畑と山と森林しかない。その自然にしても、至って平々凡々なものであり、決して風光明媚と称賛できるようなものでもない。
戦乱で何度も荒れたとは言え、それでも日ノ本の中心である都で育った瑤子にとっては退屈であろう。事実、彼女は遠い昔に、理由あって山村暮らしをしていた時期があったが、その時は余りの不便さと退屈さに耐え切れず、都に帰った経験がある。
だが今は違っていた。この城戸のありふれた平凡な田舎の風景が、今の瑤子にはやけに好ましく、落ち着くものに感じられていたのだ。
それだけではない。今の城戸家は、事実上の現当主である礼次郎頼龍を初めとして、家臣団が皆非常に若い。
古くから仕える勘定方の茂吉を除けば、最年長である軍司壮之介でまだ三十二歳である。
そんな若い彼らと毎日接しているのはとても新鮮で面白く、自分も何だか活力をもらえている気になるのだった。事実、もらえているのだろう。
伊川家にももちろん若い家臣は沢山いる。だが、日常で彼らと接することはあまりない。だから、この城戸で若い彼らと接する時間がとても楽しく、ついつい日々が過ぎて行ってしまうのだった。
この日も、瑤子は館内の座敷の一室で、ゆりやおみつら若い女中らに笛の指導をしていた。
「あら、とても上手ねえ」
と、瑤子が邪魔をしないように小さく手を叩いて褒めた。
穏やかで優しく、しかしどこか切ない抑揚を持った風雅な旋律。
白く細い指を、笛の穴の上で軽やかに踊らせてその音を奏でていたのは、ゆりであった。
やがて一曲を吹き終えると、瑤子はもちろんのこと、おみつら他の者らも皆手を叩いた。
「わあ、ゆり様、笛お上手なんですね」
少女のおみつは素直に感動して、目をきらきらさせていた。
「本当に上手だわ。意外ねえ」
瑤子も手放しで称賛した。
ゆりは照れながらも嬉しそうに笛を下した。
「笛は、小さい頃から母に教えられていたのです」
――母……
その単語が、瑤子の心に引っかかり、ゆりに聞いてみた。
「ゆり殿、聞いてみてもいいかしら?」
「はい、何でございましょう」
「母君は、どのような方だったの?」
すると、ゆりは一瞬の沈黙の後、微笑を湛えながら言った。
「私には最初、母はおりませんでした」
「え?」
「私が物心ついた頃には、父勝頼の正室はすでにおりませんでした。でも、父の妾の一人だった綾様と言う方が、私の母代わりになってくださいました。しかし母代わりとは言えぬぐらい、実の子と同じように可愛がってくださいました」
「あら」
ゆりは目を伏せ、少し寂しそうに微笑んだ。
「とても優しくしてくださいました。でも、悪い事をすればちゃんと叱ってもくださり、私は本当に実の娘と同じでした。その母が、笛がとても得意で、いつも熱心に教えてくれたのです」
ゆりは、懐かしそうに遠い記憶に思いを馳せた。
「そうなの……」
瑤子は、心に立った波が寂しさと共に静まって行くのを覚えた。
目を伏せて何か思っているゆりの顔を見つめた。
その横へ、おみつらが膝を進めて来た。
「ゆり様、今の曲、もう一度吹いてくださいませんか? 私も覚えたいです」
「え? ええ……」
ゆりは、瑤子の顔を見た。
瑤子は優しく頷いた。
「今の曲は私も知りませんでした。私も覚えたいので、是非もう一度吹いていただけるかしら?」
「はい」
ゆりは笑顔で答え、口元に再び笛を持って行った。
この時、ちょうど礼次郎が、清雲斎と共に裏手の山から帰って来たところであった。
館の大手門を一歩潜り、響いて来た笛の音を耳にして、礼次郎は足を止めた。清雲斎も立ち止まり、音が響いて来る方を振り向いた。
「おう、これは風流だな」
清雲斎は耳を澄ませた。
「これはあの瑤子殿の笛か? 流石に上手いもんだな」
この傍若無人の壮年男も、瑤子に対しては殿をつけ、敬語で対していた。
清雲斎は感心した口ぶりで瑤子の笛を褒め称えたが、じっと聴いていた礼次郎は小さく首を横に振った。
「いや、違うでしょう……これは多分……ゆりだ」
「何、ゆりちゃんだと? あの小娘、笛が吹けるのか?」
「いや、それは聞いたことありませんが」
「では何故わかった?」
清雲斎が途端に表情を変えた。鋭い目で観察するように礼次郎を見る。
「何となくです」
礼次郎は笑いながら答えた。
ゆりは、これまで礼次郎らの前で笛を披露したことはない。
笛のたしなみがあると言うことを聞いたことすらない。
だが礼次郎は、この笛の音を響かせているのがゆりだと直感した。
(うん、これは絶対にゆりだろう。笛が吹けたのか……)
礼次郎は微笑しながら中庭の方へ歩いて行ったが、漏れ響いて来る音曲を聴いているうちに、何故だか胸が苦しくなって来た。
――これは……。
礼次郎は再び足を止めた。
穏やかで優しい、とても耳に心地良い曲である。
だが、礼次郎の心に哀切と共に迫るものがあった。優しい旋律の奥に、ゆっくりと伝い落ちる涙のような悲哀があった。それが礼次郎の心の皮をすり抜けて、心の真ん中へ滲み落ちるように迫るのであった。
――おい、ゆり……。
礼次郎は、笛の音が流れて来る方を見つめた。その目尻から、自分でも気づかぬうちに涙をこぼしていた。




