徳川家康、再び
城戸へ戻ると、茂吉やゆり達が、城戸の城下を縦に貫く大通りの入り口まで出迎えに来ていた。
ゆりはかなり心配していたようであったが、一足先に来た使番の知らせで勝利を知り、大喜びしていた。
「ゆりの爆薬で勝てたようなもんだ。おかしな火薬弄りの趣味もたまには役に立ってくれるな」
礼次郎が馬上から冗談を言うと、ゆりは頬を膨らませた。
「いつも役に立ってると思うけど。上田城の時も武想郷の時も私の鉄砲は役に立ったでしょう?」
「はは、そうだったな……」
「もう……あっ……え?」
ゆりは、礼次郎の背後にいる二人乗りの騎馬を見て驚きの声を上げた。
「瑤子様? それに源次郎殿?」
ゆりは、睫毛深い形の良い大きな目を見開いた。
「ゆり殿、また会えて嬉しいわ」
前に乗る瑤子が、たおやかな笑顔を見せた。
「ゆり様、お久しゅうございます」
後ろで手綱を握る信繁も微笑みかける。
「どうしてお二人がここに?」
ゆりは目をぱちくりさせた。
彼女のその疑問は、その夜、大広間で開かれた戦勝を祝う宴で解けた。
「そう言うことだったのですか。大変でございましたね」
ゆりは心の底から同情し、涙さえ浮かべた。
「ええ。でも、美濃島咲殿、そして礼次郎殿のおかげで助かりました。このご恩にはどうやって報いたら良いのかわかりません」
瑤子は袖で目尻を拭った。
「結局私は大して力になれなかった。誠に面目ない次第」
真田信繁は、順五郎の隣で苦笑いで頭をかいた。
信繁は、後年の武名が嘘かのように、穏やかで常に微笑を絶やさないような青年であった。今も気まずそうにしているのだが、苦笑が苦笑に見えず、おかしそうに微笑しているように見えてしまう。
そのせいか、隣に座っている順五郎は慰めようとしたのだが、つい笑い飛ばすような口調になってしまった。
「何を言っているんですか。気にするもんじゃないですよ。そもそも源次郎様がいなかったらお救いする機会すら無かったんですよ。源次郎様がそのひでえ村で瑤子様に気付き、そしてずっと救い出す機会を窺ってたからこそです」
瓶子を持ってやって来た礼次郎も、それに同意した。
「その通りですよ。俺達はたまたま近くにいて、最終的に少し手助けをしただけです。ずっと瑤子様と悪党どもを見張り、俺達の戦の混乱の隙に乗じて助けに動いた源次郎様が一番の手柄です」
すると信繁は、盃を片手にますます気まずそうに苦笑した。
「ふふ、流石は礼次郎殿、そう言って他の者に功績を譲るところなど、すでに立派な主君だね」
「そんな。本心です」
礼次郎は手を振った。
「はは、そうですか。しかし、その言葉で私は十分に救われるよ。ありがとう」
信繁はにっこりと笑った。
その向かい側に座っている龍之丞は、そんな礼次郎らのやり取りを見て愉快そうに飲んでいたのだが、斜め向かいの瑤子とゆりを見ると、ふと盃を運ぶ手を止めた。
何か思案をするような表情で、瑤子の顔をじっと見つめる。
隣に座っていた咲がそれに気付いて、呆れたように言った。
「何じっとあの人を見つめてるのよ。まさか、手を出そうと考えているんじゃないでしょうね? 人妻よ。しかも関白の近臣の。やめておきなさいよ」
龍之丞は苦笑いで否定した。
「まさか……いくら俺でも流石にあのお方に手を出そうなどとは思わないぜ。俺はそんな下衆じゃない。それに、以前にも言ったが俺はいくら美人でも年増は好みではないのだ。若いのが好きでな」
すると、咲は城戸に来たばかりの時にあったことを思い出して、冷たい目をして額に青筋を立てた。
「あんたまだそれを言う?」
龍之丞はさっと顔色を変えた。
「あ、いやいや……そう言う意味ではございません。まあまあ、そう怒らずに、さあさあ、どんどん飲んでくだされ」
慌てて下手に出て、咲に酌をした。
咲は酌を受け、徐々に機嫌を直して行ったが、龍之丞がまだ瑤子の顔を見つめているのを見て訝しんだ。
「何でまだ見てるのよ」
龍之丞は盃を置き、真面目な顔となった。
「いや……ちょっと考えるところがあってな」
「ふうん……」
彼女もまた瑤子をじっと見つめた。
そして、龍之丞に言った。
「ねえ、似てると思わない?」
「何が?」
「あの二人よ。お姫様と瑤子様」
「ええ?」
龍之丞は瑤子とゆりの顔の上で視線を行き来させたが、首を傾げた。
「そうかな? 全然似てないと思うが」
「目は違うけど、鼻と口が似てるわ」
「そうかねえ……」
龍之丞は盃を取って口に運んだ。
「それに雰囲気もなんとなくね」
「雰囲気こそまるで似てないと思うぞ」
「ふふ。あんた、女を見る目はまだまだねえ。よく見てみなさいよ。似てるわよ」
「目……まあ、越後の御屋形様には、お前は顔を見ておらん、とか怒られたしな」
「あはは……でも、実はあの瑤子様って方がお姫様の本当の母親だったりしてね」
咲が冗談めかして言うと、龍之丞はむせて口に含んでいた酒を噴き出した。
「まさか。二条家の女性だぞ。日本一の大貴族だ。そんなことあるかよ」
「聞いてないんだからわからないわよ。女は時々、平然としながらも実はとんでもない秘密を隠していたりするものよ」
「だけどな……そうだとしても……武田の姫さんは本当は親のわからぬ素性の知れぬ捨子だったが、実は素性が知れぬどころか大貴族の娘だったとか、まるでお伽噺じゃねえか」
「ふふ……だったらとても面白いじゃない」
咲は妖艶な笑みを見せながら、盃を口に運んだ。
勝ち戦を祝う酒宴は、賑やかに深夜まで続いた。
城戸家の面々は酒豪揃いである。皆、夜が更けるのと共に盃を重ね、澄み渡った冬の星空に明るい笑声を響かせ、宴はいつまでも続いた。
翌日、真田信繁は礼次郎らに再会を約束し、元の予定通り、兄信幸を訪ねに沼田城へと旅立って行った。
瑤子は、礼次郎の好意でしばらく城戸に滞在することとなった。
もう年の瀬であり、まもなく新年を迎える。都への旅の途中で年を越すのは寂しいであろうし、これから寒さがますます厳しくなる季節に旅をするのは過酷であろうからだ。
藤田氏邦ら鉢形衆の幻狼衆への敗戦、続けて城戸家へも敗北したと言う知らせは、すぐに北条家の小田原城に届いたが、同時に徳川家の駿府城へも伝わった。
駿河国駿府城。
徳川家康は、居城をそれまでの浜松城よりこの駿府城に移していた。
その駿府城の本丸内に、家康が側近らと密談謀議を凝らす時に入る隠し部屋がある。
戌の刻(20時)頃――
家康は、正面に座った本多佐渡守正信より報告を受け、顔をしかめていた。
「そうか。北条の討伐軍は負けおったか」
「ええ。七天山の幻狼衆と言う連中、思ったよりも手強い様子」
正信は扇子を膝に立てながら言った。
「たった一千人に、三千の鉢形衆が負けるとは……先日、氏政が脅しに乗り、すぐに七天山を攻めて天哮丸を奪い返して来ると約束した時は、これで儂らが手間をかけることなくすぐに天哮丸を手に入れられるわ、と喜んでいたが、まだまだ時間がかかりそうじゃのう」
「ええ。しかもそれどころか……某は次も北条側は勝てるかどうか怪しいと見ております」
「何? 誠か?」
「はい。伊賀衆がもたらしてくる報告を分析しまするに……幻狼衆は一千と言う実数以上の実力を秘めている様子。対して、北条氏政には未だに幻狼衆に対する侮りがあります。北条側が、所詮風魔の一部の若者連中、と言う気持ちを持っているうちは危ういでしょうな」
「ううむ……」
家康は呻いて爪を噛んだ。
「次もまた負けるとなれば困ったのう。これではいつまで経っても天哮丸は儂の物にならぬ」
しかし、正信は悠然とした笑みを見せた。
「いえいえ、殿。それはそれでちょうど良いではございませぬか」
「何? どうしてじゃ」
「いい口実です。北条家が謀反人の風魔玄介をなかなか討伐できないでいるので、同盟関係にある我らが助勢いたす、と言って我々が兵を出すのです。そして我々の手で七天山を攻め落とし、天哮丸を奪ったついでに、幻狼衆が支配している南上州の諸城も攻め落としましょう。これまでは同盟関係にあったが故に手を出せなかった南上州ですが、こうすれば堂々と我らの物とできまする」
「なるほど。それは名案じゃ」
家康はぎょろりとした目を光らせて笑った。
「ああ」
と、正信は、思い出したように更に続けた。
「そうだ。ついでに、ちょろちょろとしぶとく生き延びている城戸の小倅めも始末しておきましょう」
「城戸礼次郎か?」
家康の顔が一転、険しくなった。
城戸礼次郎――その名は、喉奥に刺さった小骨のように、常に家康の心に不快感を残していた。
「ええ。城戸はすでに廃墟となりましたが、今回も鉢形衆に勝利したように、城戸礼次郎は先日、越後の上杉景勝より兵を借り受けてその城戸に戻り、着々とその力を回復させているとのこと」
「そうか。儂としたことが甘かったのう。城戸は大した旨味も無い山間の小領土の上、北条領の向こうであるが故に放棄したが、礼次郎が生きておるならば、我らが支配下に置くべきであったわ」
「はい。ですが、まだ遅くはありませぬ。我らが大軍を差し向ければ、一揉みに揉みつぶせるでしょう」
正信は、燭の灯に不気味な薄笑いを揺らめかせた。
「ふふ……そうよのう。では、今度こそあの小倅の首を取るとしようか」
家康は、狭い部屋に低い笑い声を響かせた。




