毒牙
咲が唇を重ねようと礼次郎の顔に近づく。
その時――
「うっ!?」
咲が咄嗟に顔を背けた。
礼次郎が口から何かを吐き出し、咲の顔に吹きかけたのだった。
そして次の瞬間には、素早く動いた礼次郎の左手が咲の腰の小刀を抜き、その切っ先を咲の喉元に突きつけていた。
咲の部下二人は音に気付いてすぐに振り返ったが、すでに遅かった。
「動くなよ」
礼次郎がにやりと笑って言った。
「お前……」
咲が礼次郎を睨んだ。
「残念だったな」
礼次郎は、ぺっと口の中に残っていたものを吐き出した。
彼は蕩媚丸を飲んだふりをしただけで、実際には飲み込んでおらず、舌裏に貯めていただけであった。
そして今、隙を見て咲の顔に吐きかけたのであった。
礼次郎は小刀を咲の喉に突き立てたまま、身体を起こして言った。
「確かにお前は魅力的だ、まず普通の男はお前の虜になるだろうよ。だけど誤算だったな。今のオレにはきかえねえよ」
「何?」
礼次郎は鉄格子前の女部下二人に向かって言った。
「おい!オレの荷物と刀を持って来い……、いや、それがある部屋に連れて行け!」
荷物と刀を持って来させず、それが置いてある部屋に連れて行け、と言ったのは、この二人に他から人を呼ばせないようにする為であった。
部下二人が躊躇していると、咲が落ち着いた声で言った。
「こいつの言う通りにしな」
礼次郎が片手で咲の身体を羽交い絞めにし、片手で刀を首に突き立てながら立ち上がった。
そして、部下二人の後をついて鉄格子の部屋を出た。
連れられて入った別の部屋に礼次郎の荷と刀が置いてあった。
「よし、荷を背負わせろ。そして刀を腰に」
礼次郎の指示に、部下二人は言われる通りにした。
「お前、ここから逃げるつもりか?」
咲が言う。
「当たり前だろう。お前はさっき言ってたな。朝まで楽しもうと思ってほとんどの者を麓の村に帰させたと。はは、失敗だったな、おかげで逃げやすいぜ。」
礼次郎が嘲笑った。
「調子に乗るなよ」
咲の目から淫蕩の火が消え、冷酷な目つきとなっていた。
「何言ってやがる。さあ、ここから出せ!」
礼次郎が再び要求した。
しかし部下二人はここでも躊躇った。
咲が冷静に言った。
「構わん、言う通りに出口まで案内してやりな」
「はい……」
「その前にこの部屋の明かりが無駄だから行燈を消して外しておきな」
咲が言ったが、この時咲がにやりと笑ったのを、位置の関係で礼次郎は気付くことができなかった。
部下二人が歩き出す。
礼次郎は咲の首に小刀を突き立てたまま後をついていく。
歩いてみて初めてわかった。
この城全体は広くはないが、構造が複雑でわかりにくい。
礼次郎はしばらく歩かされたが、やがて痺れを切らして言った。
「いつまでぐるぐる歩いてるんだ?まだか?」
「慌てるな、そろそろだよ。ここは間者が入りにくいように複雑にしてあるんだ」
咲が笑みを浮かべて言った。
その時、礼次郎はある気配を感じて咄嗟に振り返った。
瞬間、一本の矢が礼次郎の左肩を掠めて行った。
「うっ!」
礼次郎の身体から一瞬力が抜けた、その機を咲は逃さなかった。
さっと礼次郎の手から身体を滑らせ抜け出した。
――しまった!
しかしもう遅い。咲の身体はそこになく、礼次郎の後ろにいた。
礼次郎は振り向きざまに抜刀、横に薙ぎ払った。
だが身の軽い咲はひらりと飛びよけた。
「何をする!」
女部下二人が背後から斬りかかって来た。
それを察していた礼次郎は身を回転させてよけながら刀を一閃、一人の肩口を斬った。
「あっ」
その一人が血の噴出する肩を押さえながら崩れ落ちた。
礼次郎は返す刀でもう一人に斬りつけようとしたが、そこへ矢の気配を感じ取り、身を低くした。
瞬間、頭上の虚空を矢が切り裂いて行く。
「咲様!」
その隙に女部下一人が咲に駆け寄った。
礼次郎は振り返って素早く場の状況を確認した。
女部下一人が抜刀して構え、その後ろで守るようにして咲がいる。そして更に後方に一人が小弓を、もう一人が刀を提げていた。
――これはまずいな。
礼次郎は瞬時に不利を悟り、身を翻して前方へ駆けた。
咲がドスのきいた声を響かせた。
「追うんだ!」
彼女の後ろの二人が追って走り出した。
咲はいまいましげに舌打ちすると、
「城戸礼次郎・・・よくもこの私に恥をかかせてくれたね、逃がさないよ」
背を返してどこかへ向かった。
暗がりの中を走る礼次郎。
廊下の角を右に曲がると、壁際に背中をくっつけて息を潜めた。
そして礼次郎を追って来た一人が角を曲がって来るや、不意打ちの一撃を浴びせた。
男が悲鳴を上げて倒れた。
続いて追って来たもう一人の男は、
「あっ、伝吉! 畜生っ!」
と、憤然と構えを取った。
礼次郎はやや後方に退き、刀を右脇構えに構えると、男の手元と呼吸を観察した。
男はじりじりと距離をつめると、気合いの叫びと共に振りかぶって来た。
刹那、礼次郎は左に避けると同時に男の胴を薙ぎ払った。
男もまた血飛沫を上げて崩れ落ちた。
――これでいい、他には兵がいなそうだし、今のうちに脱出しなければ。
礼次郎は足元に気をつけながら小走りで急いだ。
だが、この城の複雑な構造に、礼次郎は迷った。
――どうなってやがる!
礼次郎の胸に焦りが募る。
だが、しばらく勘のままに走ると、やがて美濃島咲と初めて対面したあの大広間に出た。
――よし、ここからならもうすぐ出られるはずだ。
連れて来られた時、目隠しをされていたが、この城に入ってから大広間に来るまではそれほど時間はかからなかったのを覚えていた。
大広間の四隅からはそれぞれ廊下が通じている。
――どれだ?
礼次郎は連れて来られた時の感覚を辿る。
――直感に任せるか。
礼次郎は対面の隅に向かって駆け出した。
だがその時、その隅の廊下から走り出て来た者がいる。
「逃がさないよ!」
美濃島咲であった。