好き
西に傾きかけている陽光は、黄金色を帯びて来ていた。
崖下の赤や黄色に染まった木々の梢、遠方に人が米粒のように動いている田畑、更に遠くの山脈の尾根までが金色に染まる。
「綺麗」
洞穴の中からその光景を見て、ゆりが穏やかに呟いた。
だが礼次郎は、それとは逆に洞穴の外にいて叫んでいた。
斜面の上と崖の下に向かって、
「おい、誰かいないか?」
と、大声で何度も呼びかけたが、その声は虚しく山肌にこだまするのみで、返事は無かった。
ゆりと交替にして、ずっとこうやって助けを求めているのだが、一度も返事は来ない。
「駄目か」
礼次郎は肩を落としながら洞穴の中に戻った。
「少し休もうよ。朝からずっと走りっぱなしなんだから。私は流石に疲れちゃった」
ゆりが言うと、礼次郎は「そうだな」と頷いて、岩壁に背をつけて座った。
しかし、それでも彼はどこかそわそわとして落ち着きが無い。
「参ったな。こうしている間にも天哮丸は風魔玄介の手に……仁井田統十郎もいるし……」
「こうなった以上仕方ないじゃない。この機会にちょっとは休んでおこうよ」
「うん……」
「本当にせっかちね」
「こんな状況でのんびりしてられる方がおかしいと思うぞ」
「そうかな?」
「天哮丸や風魔玄介どころか、もしこのまま誰にも見つけられなかったらどうするんだよ」
「それは確かに心配だけど……」
「考えたら恐くなるだろ?」
「ううん」
ゆりは首を小さく横に振って、
「礼次郎と二人なら恐くないよ」
と、頬を少し染めながら微笑んだ。
その花のような微笑があまりに可憐で、礼次郎は思わず目を逸らした。
ゆりも、自分で今の発言が少し気恥しくなったのか目を逸らしたが、すぐに礼次郎に視線を戻し、
「そうだ。左肩は大丈夫? 今のうちにちょっと見てみようか?」
「あ……そうだな。頼む」
礼次郎は顔を戻し、着物の前をはだけて左肩を露わにした。
ゆりは礼次郎の前に座り、その傷跡を丹念に検めると、驚嘆の声を上げた。
「凄いわ。急速に回復して来ているみたい」
「本当か」
「うん。もう結構動かせるんじゃない?」
そう言われて、礼次郎は左腕をそっと上げてみた。
肩の高さまで上げることができた。それ以上は上げられないこともなかったが、流石に鋭い痛みを感じた。
だが、礼次郎は喜んだ。
「本当だ、やった」
顔が明るくなった。
「こんな短い間でここまで回復するなんて信じられないわ」
「ゆりがこの前作った新しい薬が良かったんだろう」
「とにかく良かった。これなら来月にはもう完治するんじゃないかしら」
ゆりも喜んで微笑むと、振分荷物の中から薬を取り出し、傷口に塗った。
処置を終えると、再び元の位置に戻って座ったが、
「寒い」
と言って、両手で自身の身体を抱え込んだ。
「そんなに寒いか? ここはあまり風も入らないし、外に比べれば温かいと思うんだけど」
「え? 寒くないの?」
「全然」
「変ね。私はこんなに寒いのに。寒いからかな。頭も少し痛いの」
ゆりが額を触ると、礼次郎は何か思い当たったかのようにゆりの顔に見入った。
彼女の顔はほんのりと赤い。先程の発言で照れたから、と言うわけではなさそうである。
「頬が少し赤いな」
礼次郎は呟いた。
そこでゆり自身も気付き、礼次郎と顔を見合わせた。
「まさか風邪……?」
二人同時に言った。
「そう言えば熱があるような……どうしよう」
ゆりは狼狽えた。
「すまない、多分俺の風邪が移ったんだろうなあ」
礼次郎は数日前まで風邪をひいていたのだ。
「困ったわ。風邪の薬は凜乃様のお屋敷に置いて来ちゃってる」
「……とにかく温かくしないと」
「でも、ここでどうやって?」
ここは山肌の洞穴。布団どころか防寒になるような物は一切無いのだ。
「とりあえず、俺のこれを着て」
礼次郎は自身の黒貂の羽織を脱いで、ゆりの肩にかけた。
「いいの? 礼次郎だって風邪が治ったばかりなのに」
「大丈夫だよ」
礼次郎はそう答えたが、その時外から一陣の風が入り込み、礼次郎はぶるっと震えた。
「ほら、寒いでしょう」
「でもゆりの方が風邪ひいてるから」
「このままだと礼次郎もぶり返すよ……あ、そうだ」
ゆりは、ある考えを思いついた。だが、すぐに躊躇いの表情となり、目を伏せて口を閉じた。
しかし、礼次郎が肩を縮めているのを見て、思い切って切り出した。
「ねえ。そっちに、さっきと同じように座って」
ゆりは、礼次郎が背をつけていた岩壁を指差した。
「ここか」
礼次郎がその通りに座ると、ゆりは羽織を持って礼次郎の前に移動した。
「脚、開いて」
「……?」
不審に思いながらも、礼次郎はその通りに両脚を開いた。
すると、ゆりはその礼次郎の開いた両脚の間に腰を下ろした。
そして、礼次郎にもたれるように背をつけた。
礼次郎がゆりを抱きかかえるような体勢となった。
礼次郎はびっくりして硬直したが、ゆりはそのまま黒貂の羽織を広げ、後ろの礼次郎ごと、布団のように肩から羽織を被った。
「これで二人とも寒くないでしょう」
ゆりは言ったが、その顔は真っ赤になっていた。
「う、うん。温かい……けど……」
礼次郎は、それ以上の言葉に詰まった。彼の顔も赤くなっている。
突然の密着に、心臓がどきどきと高鳴っている。
それはゆりも同じであった。自分から言い出したことであるが、いざこうして密着してみると、心臓が飛び出しそうな思いがした。
ゆりは、堪えるようにぎゅっと目を閉じた。
張り裂けそうな緊張感と静寂に、互いの心臓の音が聞こえそうであった。
――何か言わなきゃ。
二人とも、そう思っていた。
だが、もどかしいほどに言葉が出て来ない。
長い沈黙の果て――先に言葉を発したのはゆりだった。
「礼次郎、汗のにおいがする……」
「え? ああ、ごめん」
礼次郎は慌てて身体を離そうとしたが、ゆりはそれを制した。
「ううん、大丈夫。このにおい、好きよ」
ゆりは目を伏せてふふふと笑った。
「…………」
礼次郎は言葉が出なかった。
再び沈黙が流れるかと思えた。
だが、ぽつりと漏れた言葉。
すき――
ゆりの口からであった。
「え?」
「すき」
「…………」
「あなたが」
ゆりは目を伏せたまま言っていた。自然にこぼれ出た言葉だった。
「…………」
「すきで……いとおしくて……どうしようもなくて……」
声が震えていた。
礼次郎は気付いた。
「泣いてるのか……?」
ゆりの伏せた目から涙が流れていた。
「ごめんね……」
ゆりは袖で涙を拭うと、涙声のまま続けた。
「本当はこんなこと言うつもりじゃなかったの……あなたは今は城戸家の当主で……天哮丸のことだけじゃなくて、お家のこととか色々なことを抱えているから……私のこんな気持ちを伝えたら邪魔になる……許嫁って言ったってあなたは了承してなかったわけだし、私は所詮居候なんだから……だから言わないようにしようって思ってたんだけど……」
「そんな…………」
「それに……あなたの心の中にはまだお藤さんがいるから……」
「…………」
「でも……こんなのもう我慢できない……すきだから……」
ゆりが言う一言一言が、やけに洞穴の中に響いた。
考えてみれば、彼女が自分の気持ちをはっきりと口にしたのはこれが初めてであった。
これまでは何となく好意を示していただけである。
それに対し、礼次郎は表情を失ったような顔をしていた。
しばし言葉が出ずに何か考えていたが、やがて一言、言った。
「ありがとう」
ぽつりと言ったが、ふわりとした優しい響きを持っていた。
そしてまた一時の沈黙の後、礼次郎は言葉を継いだ。
「ゆりは……俺の許嫁だ」
「…………」
「じゃなかったら……あの時一人で槙根砦に助けに行ったりしなかった」
ゆりの涙に濡れた目が動いた。
――オレの許嫁だ! 放さねえと全員叩き斬るぞ!
今も、まるで昨日のことのようにはっきりとゆりの耳に残っている言葉。
激しく叩きつけるような言葉なのに、何故か温かく優しく胸の奥を触れて来る言葉。
「確かに俺の父上と源三郎様が強引に決めたことだ……俺の気持ちを無視して勝手に……そして俺は……幼馴染のふじをずっと想っていた……。ふじがいなくなってからも、俺の心の中にはずっとふじがいた……上田に行った時も、七天山に行った時も、越後でゆりに再会した時もだ……思い出さない日はなかった」
礼次郎は前方の虚空を見つめ、一つ一つ、その意味を確かめるように言葉を繋いで行った。
「だけど……ゆりが新発田に捕まったって聞いた時に……俺の心の中からふじが消えた。いや、消えたって言う言い方はおかしいかもしれない。どこかにはいたはず。でも、本当に一度も思い出さなかった。あんなに毎日思い出していたのに……。代わりに、ゆりのことで頭がいっぱいになった……。ゆりを死なせるわけにはいかない。失いたくない、何としてでも俺が助けなきゃいけない。そんな思いで単騎で槙根砦に向かったんだ」
「……………」
「だから、槙根砦でゆりを助け出せた時は本当にほっとした。嬉しかった」
「……………」
「でも……あの後から苦しくなった。あの時のことがきっかけかどうかはわからないけど、あの時からふじを思い出すことが減った……だけど、逆にどんどん苦しくなって行った……そして、ゆりの顔を見る度に辛かった」
「え……どうして?」
ゆりは驚いてちらっと振り返った。
礼次郎はそこで目を閉じた。
ゆりは身体を動かして礼次郎に向き直ると、礼次郎の顔を見上げた。
礼次郎は目を開き、ゆりの顔を見つめた。
「好きになってしまったから」




