転落
一人が菜々を追って行ったので、壮之介ら三人の相手は五人となった。
こうなると、かなり互角の戦いに持ち込むことができた。
三人は息の合った連係攻撃を見せる。
壮之介の錫杖が豪風を巻いて敵の刃を跳ね飛ばし、宙に躍った千蔵が忍び刀を振り下ろし、咲の鬼走り一文字が左右に閃く。
三人は、ついに全ての幻狼衆の男たちを斬り倒した。菜々を追って行った一人を除いて。
息つく間も無く、咲は早口で壮之介と千蔵に言った。
「まずいよ。一人が加勢に来た菜々ちゃんを追って行った」
二人は顔色を変える。
「すぐに追わなければ。どちらへ?」
「向こうよ。急ごう」
三人は雑木帯の中へ駆け出した。
だが、どこまで行っても、菜々と幻狼衆の男の姿はなく、気配も感じられない。
少し開けた場所で立ち止まった。
「千蔵殿、何か気配は感じられないか?」
「いや、何も」
千蔵は厳しい顔で見回す。
「斬られたような跡は無いわね。”武想郷の人間か?” とか言ってたから、道案内させようとして連れて行ったのかも」
咲は右手奥に見える山道に視線を向けた。
「それはそれでまずいな」
「どうしようか?」
「菜々殿を追うにしても、この山の道を全く知らぬ我らでは追うことはできん。道案内をさせるつもりなら、まだ菜々殿は斬られる心配はないだろう。ならばまずは礼次様とゆり様を探そう。無事でいてくれるといいが」
壮之介は祈るような顔となる。
三人は、礼次郎とゆりを探すべく、慎重に辺りを見回しながら元来た方向へと足早に進んだ。
その頃、礼次郎とゆりもまた、壮之介らと合流するべく不慣れな山中を歩いていた。
だが、どこも似たような景色で、どこをどう歩いたのか全くわからない。
完全に迷ってしまっていた。
そのうち、左手脇が急斜面になっている細い山道に出た。
「あれ? ここはさっき通らなかったか?」
礼次郎は前後左右を見回した。
「そうね。見覚えがあるわ」
「そうだ、思い出した。確かこの先から逃げて来たんだ。向こうには三本ぐらいに分かれてる道があって、それをもっと行った先で壮之介たちとばらばらになってしまったんじゃなかったかな」
「あ、そうかも。私も思い出した。ってことはここを行けば皆と合流できる可能性が高まるわね」
「ああ。あいつらが無事でいてくれれば、だけどね。そして幻狼衆の連中が待ち伏せしてなければ」
その道は、右手が切り立った崖となっており、左手もほぼ崖と言っていい急斜面である。
道の幅はおよそ一間と、とても狭い。
万一足を踏み外してしまえば、たちまちに転落してしまうであろう。
また、ここで幻狼衆に見つかってしまったら一巻の終わりである。
礼次郎を前に、ゆりを後ろにして緊張しながら歩いて行った。
「さっきはよくこんなところを走れたわよね」
ゆりが、恐る恐る斜面の下を覗き込みながら言う。
「無我夢中だったからな。そういうもんだよ」
礼次郎が答えたその時であった。
突然ゆりが悲鳴を上げた。
何かが、礼次郎とゆりの間に飛び降りて来たのだ。
「どうした?」
礼次郎が振り返ると、そこには一匹の猿。
と、その猿に驚いて後退したゆりが、道から足を踏み外してしまった。
「あ……」
「ゆり!」
体勢を崩し、急斜面に倒れ込んだゆり。
礼次郎は咄嗟に右手でゆりの腕を掴んだ。だが、それで礼次郎も体勢を崩した。
急斜面を落ちて行くゆりに引きずられるように、礼次郎も急斜面に転げ落ちた。
礼次郎は左腕でゆりの身体を抱き寄せた。
「うっ……」
鋭い痛みが左肩を襲った。
だが、転落は止まらない。止めたくても止められない。
二人は急斜面を転げ落ちて行った。
先が途切れている。
崖であった。
二人は宙に投げ出された。
背筋が凍る。
抱き合った二人の視界に見えたものは、遥か下に見える木々の梢。
二人は真っ逆さまに空中を落ちて行った。
かと思うと、何か柔らかいものの上に落ちた。
沢山の木の枝と葉であった。
――助かったか?
そう思ったのは一瞬であった。
木の枝と葉では当然二人の身体を支えられるわけはなく、二人はその隙間を抜け落ちて行った。
しかし、すぐ次の瞬間、二人の背中と尻は土の上に落ちた感触を感じていた。
「あれ?」
ゆりは手を伸ばし、土を触った。
「痛……」
礼次郎は、上半身を起こし、背中をさすりながら周囲を見回した。
そこは、断崖の中にただ一箇所だけぽつんと突き出ている台地状の場所であった。
広くは無い。せいぜい四間四方ほどである。
上を見上げれば、切り立った山肌から二本の木が突き出て枝葉を伸ばしていた。
礼次郎ら二人は、まずその枝葉の上に落ちてから、この場所に落下したのであった。
枝葉がちょうどいい具合に緩衝となったおかげで、二人は幸運にも擦り傷程度で大した怪我も負っていなかった。
「助かった……」
ゆりは、ほっと安堵の溜息を漏らした。
礼次郎は軽く頷いたが、
「助かったって言えるかなあ」
と、険しい顔で四方を見回した。
何せ、そこは断崖絶壁の中にそこだけが突き出ている場所なのである。
頭上約二間ほどに、今落ちて来た急斜面があり、下を覗き込んでみれば約五間ほど下に赤や黄色に紅葉した木々の梢が広がっている。
上に上がることも下に降りることも、まずできそうになかった。
「どうするんだこれ」
「そうね……」
ゆりも言葉に詰まった。
突如、冷たい風が吹いた。
「寒……」
ゆりが肩をすくませた。
何せ断崖の中の吹きっさらしである。秋風をまともに浴びてしまう。
「これは辛いな……あ!」
周囲を見回した礼次郎が顔を明るくした。
台地の端の方の山肌の中に、人が入れそうな大きさの洞穴があった。
「あの中に入ってみよう」
二人は、洞穴の中に入った。
意外にも結構広かった。
二間ほどの高さと、四間ほどの奥行がある。
そしてその最奥に、仏像があった。
「観音菩薩だ」
「…………」
二人は、その観音菩薩像を見つめた。
ゆりは、自身の首に提げている小さな観音菩薩の木像を握った。
「助けてくれたのかな」
礼次郎は呟き、
「この中なら風はしのげそうだ。とりあえずここにいて、壮之介たちが助けに来てくれるのを待とう。無事でいてくれればだけど……」
山道から少し分け入った雑木帯。
捕らわれて連れ去られた菜々は、風魔玄介の前に引きずり出されていた。
玄介の耳には、すでに礼次郎らを討ち損ねたと言う報告が入っている。
それに少し不機嫌となっていた玄介だが、菜々を見ると再び機嫌を取り戻した。
「武想郷の人間か?」
玄介は薄笑いで菜々を見下ろす。
「…………」
菜々は俯いたまま答えなかった。
それを、玄介の部下の一人が小突いた。
「答えろ」
だが、菜々はやはり無言のままである。
玄介は、腰を屈めて同じ目線の高さとなった。
「我々を武想郷に案内してくれないかな? 天哮丸を手入れしてもらいたくてさ」
菜々は視線を上げて玄介の顔を見た。
一見、柔和な優男の顔である。だが、目の奥にどこか冷たいものが見え隠れする。
菜々は口を開いた。
「天哮丸? 盗んだ癖に……」
「今は私のものだ」
「あれは城戸家の物よ」
「誰が決めた? 元々は誰の物でもないだろう? だがあえて誰の物かと言えば、本来は君たち武想郷の人間の物のはずだ」
玄介は笑った。
周囲の部下達もそれを聞いて低く笑う。
「…………」
菜々は気丈にもキッと玄介を睨んだ。
玄介はそれを受けてふふっと笑ったかと思うや、急にドスの効いた低い声を響かせた。
「小娘、案内しろ。いいか? 今の貴様に選べる道は二つしかねえんだよ。俺達を武想郷に案内するか、今ここでぶっ殺されるかだ」
優男から一転、凄まじい殺気を放つ悪鬼の顔となった。
菜々の背筋に戦慄が上る。
その時であった。
「そうか、その小娘は武想郷の人間か」
低く野太い声が響き渡った。
菜々と玄介はもちろん、部下の幻狼衆の男たちが一斉にその声のする方向を見た。
まばらな雑木の向こうより、仁井田統十郎が部下達を引き連れて悠然と現れた。
「俺はついてるぜ。この複雑な山の中ですぐにてめえを見つけられただけじゃなく、武想郷への道を知ってる人間までいたとはな」
統十郎は、傲岸に見下ろすように冷笑した。
「おや……誰かと思えば」
玄介は立ち上がってにやりと笑い、
「流石だな。生きてたのか」
「舐めるなよ。あれぐらいでくたばる俺じゃねえ」
「威勢がいいねえ。だけど所詮負け犬さ。四百年のね……」
「何?」
統十郎の眸がぎろりと凶暴な色を放った。
「貴様も天哮丸を奪いに来たんだろう? ならば今日ここで確実に止めを刺しておこうか。仁井田統十郎、いや、平政盛」
玄介はくくっと笑った。
(仁井田統十郎? この人が? 平家嫡流の末裔だって言う……)
菜々はまじまじと統十郎の顔を見つめた。
「おもしれえ。やれるもんならやってみな」
統十郎は撃燕兼光の鯉口を切った。
「この前は部下達に任せたが、今日は俺自身でやってやる。一度、朱色の統十郎とはやってみたかったんだよ」
玄介はどすの利いた声を響かせ、抜刀した。
「ありがてえな。邪魔を入れずにてめえを斬らせてくれるのかよ」
仁井田統十郎は嘲笑うように言うと、傍らの右近に向かって囁いた。
「右近、わかってるな?」
「承知」
右近は短く答えた。
その目は忙しく動き、玄介の右斜め後ろに控えている屈強な黒装束の男で止まった。
男は、右脇に抱えるようにして一振りの剣を持っていた。それこそ天哮丸――
統十郎は頷くと、
「やるぞ、てめえら抜かるなよ!」
と背後に命令した。
「かかれっ!」
風魔玄介もまた部下達に命令した。
両者、いや両軍が鬨の声を空に響かせ、ここ雲峰山中に正面から激突した。




