風の悪魔
菜々や壮之介たちも緊張の表情となった。
「おや、城戸礼次郎じゃないか?」
玄介は礼次郎を見ると、白い童顔に例の薄笑いを浮かべた。
「やっぱり私達を追って来たんだねえ。お、どういうわけか美濃島咲も一緒じゃないか」
「お前を斬る為よ」
咲は眼光は鋭いままに冷笑すると、鬼走りの柄に右手をかけた。
「待て」
礼次郎はそれを制した。
玄介は、千蔵をちらりと見た。
「あの時地図は奪い返したはずだが、この場所がわかったと言うことは、千蔵、お前だな? 少し見ただけで覚えてしまったんだろう? 流石だな。母親譲りの記憶力だ」
――母親?
千蔵の眉が動いた。
「だがたった六人か。残念だったな。」
玄介は低く笑うと、
「迷いに迷って虚しくぐるぐる回っていたが、無駄ではなかったな。心置きなく武想郷へ行く為にここで始末しておこうか。やれ」
玄介が右手を振り上げた。
――三十人……。
礼次郎はすかさず叫んだ。
「逃げるぞ!」
今いるところの右側はなだらかな斜面になっている。
礼次郎らはその斜面に駆け出した。
「追えっ」
玄介の命令で、幻狼衆の男たちが一斉に礼次郎らを追って駆け出した。
「千蔵、頼む!」
千蔵は振り返り、撒き菱を取り出してばらまいた。中には鉄製のものも混じっている。
数人の男たちがそれを踏んで躓いた。他の者たちはそれを避けて走る。だがそこへ、更に千蔵が煙玉を放った。
たちまち大きな白煙が沸き起こり、彼らを包んだ。
斜面を駆け下りて行く礼次郎ら。
だがその眼前へ、数人の男たちが樹上より飛び降りて来た。
「しまった」
礼次郎が舌打ちした。
「ここはやるしかありませんな。礼次様は先にお逃げを」
壮之介が錬鉄の錫杖を構え、男たちに向かって行った。
咲もまた、"鬼走り一文字"の剣を抜いて駆け出した。
「俺だけが逃げられるかよ」
礼次郎もまた抜刀した。
「ゆり、菜々殿、安全なところへ」
「うん」
二人は緊張した顔で別の場所へ避ける。
相手は五人。
たちまち乱戦となった。
壮之介の錫杖が唸りを上げて振られ、咲の鬼走りが鋭い刃風を起こす。礼次郎は右腕一本で果敢に桜霞を閃かせる。
対する幻狼衆は、忍びの動きを活かして上下左右に飛び回り、隙をついては変幻自在な斬り込みを見せる。
金属音が枝葉の間に響き、青白い火花がいくつも宙に弾けた。
幻狼衆の男たちは流石に腕の立つ手練れ揃いであった。
壮之介が一人を地に叩き伏せた。だが、他はなかなか斬り伏せることができない。
――まずいな。
礼次郎の顔に焦燥が浮かぶ。
そして、背後より千蔵が駆け付けて来た。だが、その後ろからは更に幻狼衆の者達十数人が追って来ている。
千蔵は走りつつ叫んだ。
「ご主君、ここはやはり逃げなければ」
「そうだよな。皆逃げるぞ」
礼次郎は、目の前の敵に蹴りを食らわせて弾くと、刀を持ったまま、菜々とゆりのいる方向へ走った。
壮之介と咲もそれに続き、千蔵も手裏剣を投げながら回り込むようにしてそれを追う。
「逃がさんぞ」
幻狼衆の四人の男たちが追う。
礼次郎らは、木陰に隠れていた菜々とゆりに合流し、そのまま斜面を横に走った。
ふと突風が吹き抜け、頭上から葉が擦れる音が聞こえた。
――これは……。
礼次郎の顔色が変わる。
見上げると、そこにはまさに刀を振り上げながら飛び降りて来る数人の男たち。
「上だ! まずい、散れっ!」
礼次郎が横に飛んだ。
他の者達も弾かれるように四方に飛んで避けた。
しかし降りて来た幻狼衆たちは、着地するや間髪入れずに襲い掛かって来る。
「こいつら三十人どころじゃないよ、もっといる」
咲が叫んだ。
背後からも、二十人近くの幻狼衆の者たちが駆けて来ている。
「ここは一旦とにかく逃げるんだ」
礼次郎は、襲って来る敵の刃を潜り抜け、すぐ後ろにいたゆりの手を取って駆け出した。
壮之介ら他の者達も後に続こうとしたが、その前を幻狼衆の男たちが刃を並べて塞いだ。
「仕方ない、我らはこっちだ」
壮之介、咲、千蔵、菜々の四人は、敵がいない別方向へ走った。
図らずも、礼次郎らは二手に分かれてしまうこととなった。
それを遥か後方から見ていた風魔玄介。
供回りの者たちと悠然と歩きながら指示を下した。
「全員で追わなくてもいい。武想郷へ急がねばならん。それぞれ十人ほどで追うんだ。残りは私と共に先を急ぐぞ」
――壮之介達とバラバラになっちまったか。でも今は奴らを撒かないと。
雑木の間を駆け抜け、斜面から山道へ。また道から道へと。幻狼衆の追手から逃げるべく、礼次郎とゆりはひたすらに山中を走る。
「ゆり、大丈夫か?」
前を走らせているゆりを気遣う。
だがゆりは笑った。
「これぐらい……甲州では毎日のことだったわ」
ゆりは女性ながら健脚であり、また俊足であった。
「頼もしいな。もうちょっと頑張ってくれ」
礼次郎はそう言ったが、ちらっと後ろを振り返ると厳しい顔つきとなった。
背後からは幻狼衆の男たちが追って来ているが、その距離がどんどん詰まって来ていた。
彼らは元々は忍びである。常人よりも数段脚が速い。
風の如き速さで、声も上げずに迫って来るその様は、正に"風の悪魔"、風魔であった。
――このままではすぐに追いつかれる。何か策は……。
礼次郎は駆けながら必死に思考を巡らせた。
だが、それは無駄に終わった。
道が大幅に広くなったところに出た時、眼前に小さな爆発が起きて白煙が沸き起こった。
礼次郎とゆりは咄嗟に立ち止まる。
だが――
「上だ!」
気配を察知した礼次郎、叫ぶと同時、ゆりを抱えて数段後方へ飛び退いた。
二人が飛び退いた跡へ、三人の男たちが刀を振りながら飛び降りて来た。
空を斬った男たちは、着地すると礼次郎らに向いて構えを取った。
柿渋色の上下――もちろん幻狼衆の男たちであった。
「ここは奴らの庭じゃねえんだぞ。どうなってるんだ」
礼次郎は苛立たしげに吐き捨てると、再び素早く数歩飛び退き、またゆりを自分の後ろに下がらせた。
桜霞長光を抜いた。
――三人か……雑兵の類なら何とかなるが、幻狼衆相手では流石に……。
礼次郎は、じりじりと間合いを詰めて来る三人を見回しながら、自身も摺り足で下がる。
その時――後方より迫る来る足音。
「礼次郎、後ろ……!」
ゆりが振り返って不安そうな声を上げた。
そこには、追って来た幻狼衆の男たち十人が、すでにもう十五間ほどの距離にまで迫って来ていた。
――ここまでか……。
礼次郎の心に絶望が忍び寄る。
前後を挟まれた形となった。敵は合計すると十五人。
「せめて左肩がもっとまともに動くならな……でも駄目でもやるしかない」
礼次郎は悲壮な覚悟を固めた。
剣を下段に構えた。
「私も」
ゆりもまた覚悟を決め、愛用の短筒を取り出した。
だがその時であった。
「城戸礼次郎を斬るのは俺だ。邪魔するんじゃねえ」
聞き覚えのある野太い大きな声が響いた。
礼次郎は、はっとしてその声のする方を見た。
すると、右手脇の雑木帯の中から、一人の長身の男が現れた。
「あ……お前……」
礼次郎は思わず驚愕の声を上げた。ゆりも驚いて口を押さえる。
上下朱色の小袖と袴、派手な羽織。結わずに垂らしている総髪――
その男は、仁井田統十郎であった。
「やはりここで会ったかと思ったら、絶体絶命の危機ってやつか」
統十郎はにやりと笑った。