伊達政宗
出羽国、米沢城――
奥羽の名門、伊達家の居城である。
その本丸の執務部屋で、右目の潰れた若い男が、政務書類を読みながら側近の男の報告を受けていた。
「なるほど、天哮丸か……そしてそれが作られた武想郷が我が領内にな」
右目の無い若い男は軽く頷いた。
この男が、現在の伊達家当主、伊達政宗である。
後の世に独眼竜と言う異名で知られる伊達藤次郎政宗、この時若干十九歳。
右目こそ無いが、その顔立ちは基本的に端正で、上品な貴族的容貌をしている。だが、残ったもう一つの左目に、見る者を射抜くようなぎらぎらとした強い光があり、そこに戦国の若武者らしさを宿していた。
「だが、そんなことを俺に報告してどうする。面白い話ではあるが、その天哮丸とやらは城戸家伝来の宝物だろう。どうしようもないわ」
「ところがです」
側近の男――伊達政宗より十歳ほど年長の片倉小十郎景綱は報告を続ける。
その内容は、およそ二か月前より城戸の地で起こった天哮丸に関する一連の事についてであった。
「ほう、なるほどな」
政宗は左目を光らせる。
「そして今話しました通り、天哮丸を奪った幻狼衆とか言う連中が、ぼろぼろになった天哮丸を甦らせるべく、我が領内にある雲峰山の武想郷へ向かっているとの由」
政宗は書類を机の上に置くと、大きな左目を景綱に向けて笑った。
「ふふ、わかったぞ。本来の持ち主である城戸家から天哮丸を奪えば、世間の誹りを受けるだろう。だが、城戸家から盗み出した幻狼衆から奪ってしまえば、大した非難も受けないだろうな」
「………」
小十郎景綱は答えなかった。微笑を浮かべていた。
「それにしても徳川家康も小物よな。俺が家康であれば、天哮丸の力になど頼らなくても秀吉に打ち勝ち、天下の覇権を握ってみせるわ」
政宗は虚空の一点を見つめ、不敵に笑った。
「だが俺は違う。生を受けたのは都より遠く離れたこの奥州と言う地。しかも二十年も遅く生まれてしまった。こればかりはどうにもならん。しかし、その二十年の時と奥州と言う地の不利を、天哮丸の力によって埋めることができるのならば、俺は恥じることなく天哮丸を手に取ろう」
「………」
「小十郎。忍びの者どもに、その幻狼衆とやらの動きを探らせろ」
「すでに動かしております」
「はは、そうか。ならばよい」
政宗は高笑いを上げた。
景綱は、続けて別のことを話した。
「それと殿、別のことなのですが……小姓衆の槇伊之助についてです」
「伊之助か」
政宗の眉が動いた。
槇伊之助は、政宗が特に寵愛している小姓であった。
「殿の寵愛を笠に着ての横暴な振る舞い、最近ますます目に余ります」
「む……」
「特に近頃は、あちこちの村に出て行って、年頃の若い娘を手籠めにしているようでございます」
「何っ、誠か?」
政宗の顔色が変わる。
「はい、今朝も六甲村の者達が苦情を申し立てに参りました」
「そうか……伊之助には言っているのだがな」
「通じてないのでしょう。殿、言って聞かせても駄目なようであれば、しかるべき処分が必要ですぞ」
「うむ、わかっておる。次に何か起こした時には、俺自ら処分を下す」
政宗は苦々しげな顔で嘆息した。
城戸を出発して三日後には、礼次郎らはすでに奥州に入り、蘆名領を通過して伊達領内にいた。
千蔵の地図によれば、武想郷がある雲峰山と言う山は、蘆名領にほど近いところにある。
だが、とりあえず礼次郎の姉、凜乃に会うべく、一行は伊達家の居城がある米沢に向かっていた。
彼らは商人に変装していたが、礼次郎は例の黒い毛皮の羽織を羽織っており、それが若干目立ってしまっていた。
だが仕方なかった。城戸を出発した翌日、それまで溜まっていた疲れが出たのか、礼次郎は風邪をひいてしまったのだ。
その日、早めに宿に入り、ゆりの煎じた薬を飲み、十分な睡眠を取った結果、一日でかなり回復したものの、まだ万全な体調とは言えない。肝心の武想郷に着いた時にふらふらな状態では元も子もない。多少目立ってしまっても、大事を取って毛皮の羽織を羽織り、身体が冷えるのを防ぐこととした。
米沢城まであと二里ほどの距離の、とある農村――
礼次郎は、一つ小さなくしゃみをした。
「さっきからうるさいわね。治ったんじゃないの?」
同じく商人姿の咲が顔をしかめた。
礼次郎は鼻を擦った。
「身体はもう何ともないんだけどな……くしゃみが止まらないな」
「ここら辺の気候のせいだと思う。奥州は上州よりも寒いから。病み上がりの身体はまだ変化についていけてないのよ。」
ゆりが心配そうに礼次郎を見た。
その時だった。
少し離れたところで騒ぐ声が聞こえた。
その方向を見てみると、四人ばかりの若い侍が一人の少女に絡んでいる。
数人の村人たちが遠巻きにして心配そうにその様子を見つめているが、何か恐れているようで、助けようとはしていない。
「いいから来いって」
四人の中で一番身なりのいい侍が、少女の腕を引っ張る。
「やめてください。私はそんなんじゃないんです。早く里に帰らないと」
少女は抵抗し、腕を振りほどこうとするが、侍の力は強いようで容易に振りほどけない。
「どこの里かは知らんが、帰っても貧しい暮らしだろう? それより伊之助様と一緒に来た方が何倍もいい目を見られるぜ」
他の三人の侍は、その身なりのいい侍、伊之助の取り巻きのようである。にやにやと笑いながら伊之助を助ける。
「あーあー……わかりやすいこと……どこにでもああ言う馬鹿はいるのね」
咲が横目で見て呆れた声を上げた。
「でも、いくら相手が侍だからって誰も助けようとしないなんて……」
ゆりは脚を止め、心配そうに見つめた。
礼次郎も脚を止め、その光景を見つめていたが、すぐにそちらの方に向かって行った。
「礼次様、お待ちを。ここは他国。軽々しく動いてはなりませんぞ」
壮之介は慌てて後を追った。だが礼次郎は止まらない。他の三人もその後を追った。
伊之助らは、尚も執拗に少女に絡んでいた。
「やめてったら!」
「来いよ」
「もう!」
少女の目つきが急に変わった。
どういう技を使ったか、するりと伊之助の腕から逃れると、飛び上がりながら蹴りを放った。
少女の脚が伊之助の右腕を跳ね飛ばした。
「あっ、こいつ……!」
取り巻き三人が色を変える。
伊之助も、目つきを一変させた。
――今のは……忍びか?
礼次郎は足を止めて目を瞠った。
「ふざけやがって! 俺を誰だと思ってる!」
伊之助が激昂した。
それを合図に、取り巻き三人が少女を囲む。
少女は徒手であったが、さっと両腕を前に突き出して戦闘の構えを取った。
体術の心得があるようである。
しかしそれは無駄であった。
「生意気にやるつもりか?」
伊之助と取り巻き三人が飛びかかると、少女は当て身などを繰り出して抵抗したものの、たちまち組み伏せられてしまった。
「放して!」
少女はばたばたともがく。
「どうしますか? まだ連れて行きますか?」
取り巻きの一人が言うと、
「いや、もういい。俺の腕を蹴りやがったんだ。ここで斬ってしまおう」
伊之助は残忍な笑みを見せた。
少女の顔が青ざめた。
「待て」
礼次郎は思わずその前に進み出ていた。
「何だ?」
伊之助らが振り返る。
彼ら四人、皆とても若かった。礼次郎と同じぐらいの歳頃に見える。
そして伊之助は、色白く涼やかな美少年であった。
「商人か……邪魔をするな。お前も斬るぞ」
伊之助が睨んだ。
「礼次様……」
壮之介が止めようとするが、礼次郎はそれを振り切り、
「その娘に何の罪がある。放してやれ」
「ああ? この俺の腕を蹴ったんだよ、それが罪だ」
伊之助は目を剥く。
「さっきから見ていた。元はと言えばお前が強引に連れて行こうとしたからだろう」
「お前……? 何だ貴様。俺を誰だと思っている?」
伊之助が立ち上がった。
不穏な空気が流れる。
「誰なんだ?」
礼次郎は冷静な顔つきを保っている。
「行商人のようだから知らんのも当然か。この槇伊之助様は伊達政宗公が小姓衆の中で一番重用しておる方だぞ」
取り巻きの一人が傲慢な口調で言った。
礼次郎らの顔色が変わった。
重用――伊之助のこの美貌からして、その中には衆道の相手と言う意味も含まれているであろう。
であれば、元より他国、尚更迂闊に手を出すわけには行かない。
「そうと知ってもまだ邪魔立てするか、すっこんでおれ」
別の取り巻きが嘲るように言った。
壮之介が背後から礼次郎にささやいた。
「相手は伊達政宗の寵童。この非道な行い、確かに目に余りますが、事を起こしては行けませんぞ。ここで揉め事を起こして伊達家に睨まれれば、武想郷行きに困難が生じる上、下手をすれば伊達家家臣に嫁がれている姉君の立場も危うくなります」
正論である。
礼次郎は何も言えなかった。伊之助から目を逸らし、拳を握りしめた。
「ふん、わかったら消えろ」
伊之助らは嘲笑うと、少女を担ぎ上げた。
「ちょっと……!」
「死ぬ前にいい思いをさせてやるよ」
伊之助が高笑いを上げ、少女を担ぎ上げたまま歩いて行った。
「誰か……助けて……!」
少女は涙声になった。
礼次郎の無言の呼吸が激しくなった。
瞳は怒りに燃えている。握りしめた拳が震えていた。だが、溢れんばかりの激情を抱えながらも、動くことができなかった。




