妖花の命
必死に愛馬黒雪を駆る美濃島咲の美しい顔は、今や泥と血に塗れていた。
甲冑は同様に汚れている上に、ぼろぼろである。
背中には、激闘の後を物語る二本の矢が刺さったままになっていた。
だが彼女には、それを抜いている暇はない。
追手はすぐ後ろまで迫っている。
咲は痛みに歯を食いしばりながら、懸命に黒雪を駆った。
だが、その咲の顔が絶望に染まった。
原野を駆けて行った先の行く手を、幅広の川が阻んでいた。
――しまった、こんな川があったのか!
逃れ逃れて来た地である。
咲は、この辺りの地勢にはまるで疎かった。
川は、流れも速い上に深かった。
到底渡れそうにない。
四方を見回した。
後方からは、幻狼衆の追手の騎馬隊が、地響きを鳴らして追って来る。
考えている余裕は無い。
咲は、上流と見られる左手へ向かった。
だが、その方からも、幻狼衆の一軍が姿を現し、此方へ殺到して来た。
では下流の方へ、と馬首を旋回させる。
だが、その向こうからも、同様の一軍が駆けて来た。
川に追い詰めたと見た幻狼衆が、兵を三手に分けたのだった。
川を背にし、三方を囲まれた咲は、ついに逃げ場が無くなった。
――もはやこれまでか。
咲は、美しい花が枯れていくように、天命が尽きて行くのを悟った。
黒雪の様子もおかしい。
見れば、昼夜問わず駆けて来たせいか、疲労の極限に達しているのがわかった。
咲は黒雪から降りると、愛おしそうにその身体を撫でた。
そして、腰に帯びている愛刀を抜き放った。
彼女のその刀は、"鬼走り"と言う号がある吉岡一文字の名刀である。
咲は、刀身を見つめた。
そこに、一人の男の幻影が浮かび上がる。
「新三郎、私を守ってくれるか? それとも私を呼ぶか……」
新三郎、それはかつて、咲の夫となる予定だった男の名である。
実は、咲の愛馬黒雪と、鬼走りの刀は、その新三郎の形見であった。
咲の顔に悲壮の色が満ちる。
三方の幻狼衆の軍は、すでにもうすぐそこまで迫っている。
合計の兵数は多くはない。咲追撃の為だけに出したものであるので、せいぜい六十と言ったところである。
だが、咲はたった一人である。
どうにもならない。
最後の覚悟を固めたその時、三方から殺到して来る幻狼衆軍の後方で騒ぎ声が起こった。
かと思うと、続けて刃がぶつかり合う音、馬のいななき、人の悲鳴が上がった。
――何事……?
咲は目を凝らした。
そこでは、戦闘が起きているらしかった。
――どういう事だ?
わけもわからず、かと言ってその場から動けずにいると、幻狼衆軍の叫びを聞いた。
「城戸軍だ! 城戸礼次郎の奇襲だ!」
咲は我が耳を疑った。
――何? 城戸礼次郎?
信じられない気持ちであった。
だが、それは本当である。
礼次郎は、宇佐美龍之丞に命じ、率いて来た越後兵の騎馬部隊を動かした。
三手に分かれた幻狼衆軍に合わせ、城戸軍もまた騎馬隊約七十を三手に分けた。
礼次郎は中央を、順五郎が左翼、壮之介が右翼を率い、それぞれ幻狼衆軍の背後を急襲した。
追手部隊を率いていた幻狼衆軍の将、野村甚左衛門は、城戸軍が迫って来るのを知ると、急いで軍を方向転換させようとした。
だが、天下に鳴り響いている越後騎兵の速さには追いつかなかった。
背面突撃をまともに食らい、混乱に陥った。
左翼を率いていた順五郎、幻狼衆軍の中に将らしき人物を見つけた。
「てめえが頭か!?」
それへ駆け寄って行き、大声で言った。
「何者だ?」
黒い甲冑に身を固めていたその男は、鋭い眼光で睨み返した。
「城戸頼龍が家臣、大鳥順五郎忠行。その首貰った」
順五郎は大音声で名乗る。
「ほう、生意気な。わしは幻狼の野村甚左衛門。自信があるならばかかって来い。返り討ちにしてくれる」
甚左衛門は、順五郎が体格こそ立派であるが、その歳若いことを見て少し侮っていた。
だが、勝負はあっさりとついた。
真正面から激突した両者、身体を交錯させた後に数合打ち合うと、順五郎の狙い澄ませた一撃が甚左衛門の喉を突いた。
甚左衛門はその一撃で馬上から崩れ落ちた。
それがとどめとなった。
将を失った幻狼衆軍は、統制が効かなくなった。
そして城戸軍が一人残らず討ち取り、幻狼衆軍は壊滅した。
美濃島咲は、その光景を、夢でも見ているかのような心地で見つめていた。
だが、現実である。最早現生の命もこれまでかと思っていたが、寸前で、幻狼衆軍が目の前で全滅した。
そして前方の騎馬の集団の中から、白馬に跨った礼次郎が進み出て来た。
「新三郎……」
咲は呆然と呟いた。
そこに、新三郎の姿を見たのだ。
だが、
「美濃島」
と言った礼次郎の声で、咲は現実に戻った。
そこにいるのは、城戸礼次郎であった。
「礼次郎……」
咲は、礼次郎の顔を見て、力の無い声で呟いた。
「あんた、兵を連れて来たんだね。でも遅かったよ」
礼次郎が率いて来た他の歩兵部隊が追いついて来ていた。
ゆりと喜多、そして千蔵と龍之丞が礼次郎の後ろに来ていた。
「おおぅ、これはとんでもねえいい女だな。これが噂の美濃島の鬼女かよ」
龍之丞は驚嘆の声を上げた。
「咲さん……」
ゆりは少し驚いた顔で呟いた。
だが、咲は、ゆりに気付かなかった。
「どうしたんだ? 一人で。何があった?」
礼次郎が聞くと、咲は横を向いた。
「見てわからないかい? 幻狼衆にやられたのさ。私らの最後の居城がある小雲山を攻め落とされた。そしてこの通りだ。私達美濃島は……」
咲は、その先の言葉を言うのを一瞬ためらったが、悔しげに言った。
「滅んだんだ」
幻狼衆に、居城がある小雲山を攻められたあの晩。
美濃島咲は、起死回生を狙い、少数の精鋭騎兵を率いて密かに山を駆け下り、麓に陣取る風魔玄介本隊へ奇襲をかけた。
しかし、風魔玄介はそれを読んでおり、尚且つ備えをしていた。
逆に待ち伏せされ、散々に打ち破られた。
小平太を初め、ほとんどの者が討ち取られた。
生き残った者達もわずかにいたが、皆散り散りになった。
咲自身は乱戦の渦に必死に剣を振るい、そこから逃れた。
そして小雲山の城に戻ろうとしたのだが、その時、小雲山もすでに猛攻の前に落城寸前、すでに戻る事もできなくなっていた。
全ての終わりを悟った咲は、敵勢に突っ込み、力の限り戦った末に討死にしようとした。
それが、女であるが美濃島の男のつもりで生きて来た人生の最後にふさわしいと考えた。
だがその時、彼女の脳裏を横切って行った言葉があった。
――今ここで咲様が皆と一緒に討死にするより、咲様が生き延びて再び美濃島衆がかつての姿を取り戻す方が死んで行った者どもは喜ぶのではないですか!?
牛追平の戦で、総崩れになった際に加藤半之助が言った言葉である。
咲は、討死にを思いとどまった。
血が流れんばかりに拳を握りしめ、暗闇の中に落ちて行く小雲山城を横目に見ながら、咲はその場を離れた。
――半之助たちはどうしただろうか? 討ち取られてしまったか?
押し潰して来るかのような様々な思いを堪えながら、咲は逃げた。
だが、咲が逃げた事を知った風魔玄介は、咲の捕縛を指示する。
幻狼衆が出した追手の騎馬部隊は、執拗に彼女を追いかけたのだった。
「そうか」
礼次郎は、溜息をついた。
「すまなかった。もう少しオレが早く兵を連れて来れていれば……」
「仕方ない。こう言う運命だったんだろう」
咲は握りしめた拳を震わせた。
「もう終わりだ。最後の居城を失い、家臣達、兵達、全てを失った。悔しいが、もはやここまでだ」
咲は言うと、脇差を抜いて、礼次郎を見た。
「私は腹を切る」
「何?」
礼次郎は顔色を変えた。順五郎やゆり達も同様に青ざめた顔をした。
「礼次郎、あんたに介錯を頼みたい」
「………」
礼次郎は、咲の顔をじっと見つめて、
「引き受けられるわけないだろう」
礼次郎は、馬から下りて、咲の前に歩み寄った。
「まだ全部失ってないじゃないか」
「何?」
「まだ一つだけ残ってるものがある。お前の命だ」
咲の目に、微かな光が走った。
「――主君が生きてさえいれば志を遂げる機会は必ず巡って来る、生きるのも主君の大事な役目なんだ。七天山でそう言ったのはお前だぜ? 忘れたか?」
咲は呆然と礼次郎の顔を見つめた。
だがまた俯いて、
「……でも、命があるとは言え私はたった一人に……頼るところももうない」
「じゃあ、オレのところに来ないか?」
「何?」
咲は驚愕して礼次郎の顔を見た。
「お前たち美濃島衆の無念と想い、そしてお前の命、全てまとめて俺が引き受ける。仇は俺が取ってやる」
礼次郎は真っ直ぐに咲の顔を見つめた。
咲は一時、呆然とした表情となった。
だが、すぐにふふっと笑った。
「ガキの癖に生意気ね……」
その目に、夕陽を受けて光るものがあった。
そしておもむろに、礼次郎の背中に両手を回して抱きついた。
「お、おい! 何してるんだ」
礼次郎が思わず狼狽えた。
順五郎たちも驚き、ゆりに至っては目を丸くして口を開けたままになった。
だが、咲は構わず、礼次郎の肩の上で目を閉じて言った。
「私の命、あんたに預ける。うまく使ってくれ……頼むよ」
礼次郎の狼狽が止まった。
咲の背後、夕陽の赤い光が砕け散る川面を睨み、
「任せておけ」
と力強く答えた。
しばらく、咲はそのままでいた。
礼次郎の背後でそれを見ているゆりは、落ち着かない様子でそわそわしていた。
咲が礼次郎に抱きついているのを止めたい、でも今の雰囲気では言い出しにくい。
そんな葛藤で、両手指を忙しく弄んでいた。
喜多は、そのゆりの様子を横目に見て、笑いを堪えていた。
そしてゆりは耐えきれずに口を開いた。
「ね、ねえ礼次郎……」
だが礼次郎が振り向く前に、目を開いた咲がゆりに気付いた。
「あら、お姫様」
咲は驚いた顔をして、礼次郎から離れた。
「咲さん、お久しぶりです」
ゆりはぎこちない笑顔を浮かべた。
美濃島家は、元々武田家の傘下にいた。
その関係で、二人は過去に何度か会った事がある間柄である。
だが、ゆりは咲のことを少し苦手としていた。
「何でこんなところに? ああ、そうか、礼次郎の許嫁なんだっけ」
咲は、礼次郎とゆりの顔を交互に見た。
「あんたたち、もう夫婦になったの?」
「いえ、まだ全然そんなのじゃ……」
ゆりは歯切れ悪く言った。
「そう」
咲は、ふふふっと意味深に笑った。
「思わぬことになったけど……楽しくなりそうね」
「どう言うことだ?」
礼次郎が聞くと、咲は妖艶な流し目をくれて、
「忘れた? 私は両利きよ」
と言って愛馬の黒雪に跨った。
礼次郎は、一瞬その言葉の真意を掴めなかった。
小雲山の城で一対一で戦ったあの夜、咲は両手に武器を持って自在に操って見せた。確かに両利きである。
しかし、すぐに礼次郎は、その両利きと言う言葉の裏の意味に気が付いた。
「あ!? まさかお前……」
ゆりにはその言葉の意味がわかっていた。
過去の、咲に迫られた記憶を思い出して、はあ、と溜息をついた。
そして翌朝、城戸の南東約十里の街道を、およそ二百の軍勢が城戸に向かって進軍していた。
兵士らが背負っている旗に染め抜かれているのは、三つ鱗の紋。即ち北条家の家紋。
先頭を行く大将、松田綱秀は、側近に作戦を聞かれ、悠然と余裕の笑みを浮かべて答えた。
「策など無いわ。城戸は元々取るに足らぬ小領土。大した兵数も無い。それが今は民すらいないに等しい。城戸礼次郎は生きておるらしいが、おっても兵がいないのでは何もできないであろう。本来、この二百でも多いぐらいじゃ」




