戦雲
上州城戸の郷。
城戸家の館内にある、約二十間四方の屋外の稽古場。
その中央に、真っ赤な夕陽の光を背に浴びて、上半身裸の茶筅髷の男が、右腕一本で袋竹刀を構えていた。
不自由な左腕はだらりと下がっている。
礼次郎の剣の師匠、葛西清雲斎である。
そして十人ほどの城戸の生き残りの男達が、ぐるっと半円を成して遠くから清雲斎を取り囲んでいた。
男達は、手にそれぞれ弓矢を持って清雲斎に向けて構えている。
清雲斎は静かに両目を閉じている。
しかし、その背からは、激しいのにどこか冷えているような、ピリピリとした闘気が立ち上っていた。
彼は、真円流精心術を使って全感覚を研ぎ澄ませていた。
弓矢を構えている男達は皆、一様に緊張した面持ちであった。手が震えている者もいた。
その後ろで見ている茂吉、女中のおみつ達も、痛いほどの緊張感に息を呑んでいた。
「よし、いいぞ」
清雲斎がふいに言って、両目を開いた。
その瞳の色が尋常ではなかった。
獰猛で、凶暴で、それでいて冷たい殺気に満ちている。本能を剥き出しにした猛獣のようであった。
その時、空が急に黒くなり始めた。
不穏な雷鳴が雲間に響く。
稽古場に生暖かい突風が吹き、隅にある柳の木の葉が翻った。
蝙蝠が頭上でけたたましく鳴く。
清雲斎は、周囲の男達を睨み回した。
凍てつくような冷たく激しい剣気が放たれ、それをまともに受けた男達は戦慄して固まった。
茂吉もその凄まじさに思わず恐怖した。
おみつなどは血の気が引いており、手は小刻みに震えている。
「やれ」
清雲斎が言った。
茂吉は、唾をごくりと飲み込んで答える。
「ほ、本当によろしいのですか?」
「構わねえ、早くしろ」
清雲斎は低い声で答える。
その語気に、どこか苛立ちが滲んでいる。
「わかりました……。では皆の者、やれ!」
茂吉が命令した。
だが、男達は、清雲斎の放つ圧倒的な気の恐怖で、身体が固まったまま動かなかった。
清雲斎が苛立った声を上げた。
「早くしろ!」
その声に押され、一人の男が竦んだ腕を動かした。
悲鳴に近い気合いを上げながら、矢を放った。
それに続いて、他の男達も、それぞれ奇声めいた声を上げながら矢を放って行く。
「よし」
不敵に笑った清雲斎の身体が飛鳥の如く動いた。
閃光の如く飛んで来る矢を紙一重でかわした。
しかし、矢は続けて前後左右より次々に飛んで来る。
だが清雲斎は、身体を自在に捻りながら、あるいは跳躍しながら、それらを鮮やかに躱して行き、また右手のみで持つ袋竹刀で叩き落として行った。
そしてとうとう、男達が放った矢を全てかわしてしまった。
矢は、一度もその身体を掠める事すらなかった。
最後に清雲斎は懐の合口を取り出すと、
「うるせえっ!!」
と叫び、背後の頭上に放った。
合口は虚空に一条の閃光を描き、煩く鳴いていた蝙蝠に突き刺さった。
蝙蝠は悲鳴を上げて真っ逆さまに地上に落ちた。
清雲斎は、ふうっと深呼吸をして、袋竹刀を下ろした。
だがその呼吸はほとんど乱れていない。
茂吉、おみつを始め、矢を放った男達も皆全員、あまりの凄まじさに唖然として言葉が出なかった。
だがそんなことは意に介さず、清雲斎は男達に、ご苦労、と短く言うと、その前を通って茂吉とおみつらの方へ歩いて行った。
「水くれ」
清雲斎が袋竹刀を投げ捨てて言った。
その瞳は、未だ獰猛な殺気の色に染まっている。
おみつは震える手で茶碗に水を注ぎ、差し出した。
「すまねえな」
清雲斎は受け取ると、ごくごくと飲み干した。
「そう恐がるな。何もおみっちゃんを斬ろうと言うわけじゃねえ。持ってるのも袋竹刀だ」
清雲斎は笑って見せた。
だがそれでも、全身から上る圧倒的な気が消えたわけではない。
「無理もありませぬ。今の清雲斎殿は、大の男の我々でも恐怖に竦んでしまう」
茂吉が横から言った。
清雲斎は、はっはっはっ、と笑う。
「それにしても凄まじいものを拝見いたしました。神業とはまさにこのことでしょうな」
「大したことじゃねえ、遊びみてえなもんだ。たまには心の皮を剥いておかねえと、いざと言う時に役に立たんからな」
「あれを遊びとは……」
茂吉は感嘆し、
「上州には剣聖と呼ばれた上泉伊勢守殿がおられましたが、その上泉殿と清雲斎殿とではどちらがお強いのでしょうな」
「俺だろうな」
清雲斎は、ためらいもなく即答した。
「立ち合いをしたことがおありですか?」
「いや、無い。噂に聞く伊勢守の強さは確かに剣聖と呼ぶに相応しい。だが、向こうが剣聖なら俺は剣神だ」
そう言って、清雲斎は大笑した。
「剣神、ですか……」
この言葉には、茂吉も流石に苦笑した。
隣のおみつも引きつった笑みを浮かべている。
清雲斎がいかに強いとは言え、剣の神と自称するとは、何と自信過剰で驕慢なのであろう。
二人とも、ただぎこちなく笑うしかなかった。
その時、清雲斎の動きがぴたっと止まった。
眼光を鋭くして北西の空を見上げると、
「おう……礼次が帰って来るぞ」
にやりとして言った。
「え?」
「若殿が?」
茂吉とおみつが、同時に聞き返した。
「あともう三、四日で帰って来るぜ」
清雲斎は、赤く染まっている北西の空を見つめた。
「本当ですか? 何故おわかりに?」
茂吉が聞くと、
「何となくな……そんな気がするんだよ」
清雲斎はふふっと笑った。
だが、すぐにまた動きを止めた。
今度は急に真面目な顔となった。
眉間に皺を寄せ、無言で南東の空を見上げた。
その清雲斎の顔色、雰囲気がさっきまでとは一変している。
「どうかされましたか?」
茂吉が不審に思って聞いた。
すると清雲斎は答えた。
「とうとう来やがった。ほぼ無主と変わらないこの城戸の地を狙って……」
「え? どこぞの軍勢が来ているのですか?」
おみつが顔色を青くした。
「ああ。うまみが無いと言って徳川が捨てて行ったとは言え、土地は土地だ。いずれどこかの勢力が奪いに来るだろうとは思っていたがな。やっぱり来やがった」
「ここには戦える者はほとんどいない。今、攻められてはひとたまりもない」
茂吉の顔も青ざめている。
「どこの者達でしょうか?」
「さあ、そこまではわからねえな。だが数は百……いや、二百ってところかな……ここにほとんど人がいないのを知ってて、少人数で来たんだろう」
「若殿はあと三、四日ぐらいと、さっき言いましたな?」
「間に合わねえ。奴らはもう近くまで来ている」
「え……」
「今いる俺達で戦うしかねえ。茂吉、物見は出せるか?」
「え? はい、生き残った中で留吉と言う男が物見もやっておりましたが」
「すぐに出してくれ。南東の方向だ。どこの軍なのか、おおよその人数と装備はどんなものか、それとあとどらぐらいで着くか、探って来てくれ」
「わかりました」
先程、矢を放っていた十人の中に、留吉はいる。
茂吉はすぐに留吉のところに走った。
おみつは、今にも泣き出しそうな不安そうな顔をしていた。
それを見て、清雲斎が笑い飛ばすように言った。
「心配するな。この俺がいる。さっきも言っただろう、俺は剣神だ」
一方、礼次郎ら一行は、すでに上州に入っていた。
真田領内を行軍し、そろそろ抜け終える。
四百と言う武装兵を率いて他領を行軍するのは、通常であれば領土侵犯であり、まずただではすまない。
その土地を治めている勢力の攻撃を受ける。
だが、上杉景勝が事前に、真田昌幸に対して、礼次郎らを通してやってくれと使いを出していた。
昌幸は徳川家康との関係を考えて、それに対してあえて返事をしなかったが、礼次郎らが領内を行くのを黙認していた。
それ故、礼次郎らは何も問題無く、真田領内を通過しようとしていた。
茫漠たる原野に差しかかった。
遠く西の空に山脈が見え、とどまっている夕陽が赤く尾根を染めていた。
先頭を行く礼次郎が、背後の宇佐美龍之丞に話しかけた。
「龍之丞、一つ思案していることがあるんだが」
礼次郎は、順五郎や壮之介達に対するのと同じような態度、言葉づかいで龍之丞にも接していた。
龍之丞が、自身は上杉家から遣わされたとは言え、役目の間は礼次郎の家臣として働くつもりでいる、その為礼次郎にも自分を家臣として扱って欲しいと望み、呼び方から言葉づかいまで全てを改めさせたのである。
「はい、何でございましょうか?」
龍之丞は家臣らしく答えた。
無精ひげは変わらずだが、今日はいつものざんばら髪を後ろで一つに束ねている。
「今連れて来ている兵の維持についてだ。当面の兵糧、軍需物資などはいただいて来たが、それもすぐに尽きるだろう? しかし今の城戸は徳川に破壊されて荒れ果てている上に、ほとんど民はいない。だから作物もろくに取れない。それでどうやってこれだけの兵を維持して行けばいいのか?」
礼次郎が聞くと、龍之丞は微笑して答えた。
「簡単なことです。屯田をすればよろしい」
「屯田?」
「戦の無い時は、この兵士達を民に帰し、田畑を耕させたり、土木作業をさせたりするのです」
「ああ、そうか……」
礼次郎は感心して頷いた。
「私は軍事が専門、そっちの方は詳しくはありませんが、直江の旦那について一応一通り学んだ事があります。私がうまく差配いたしましょう」
「そうか、頼む」
礼次郎が安心したように言った。
その時、原野の彼方に、一騎の騎馬が疾駆しているのが見えた。
そしてその後を、数十騎の騎馬軍団が追っていた。
しかしそれは、明らかに仲間ではない。その一騎を討とうと、後続の騎馬軍団が執拗に追いかけているのであった。
「何だありゃ?」
順五郎が手をかざしてじっと見つめた。
一行も皆、そちらの方に視線をやった。
礼次郎もじっと見つめていたのだが、やがてはっとして顔色を変えた。
「あれはまさか……おい、千蔵!」
「はっ」
「見えるか? 追われているあれはもしかして……」
一番目が良い千蔵はすでに確認していたらしい。即座に答えた。
「美濃島咲殿ですな」
それを聞いて、ゆりが驚いた。
「え? 美濃島……咲さん?」
順五郎や壮之介らも、驚いて目を凝らした。
黒い馬に乗って必死に駆けているたった一騎の武者。
それは美濃島家の女頭領、美濃島咲であった。
「やっぱり咲か。そして追っているのは……」
「幻狼衆に違いござらん」
「やはりそうか……何でこうなっているのかはわからねえが、とにかく美濃島咲を助けるぞ」
礼次郎は言うと、龍之丞を振り返って言った。
「騎兵は七十だったな。すぐに動かせるか?」
「お任せを」
龍之丞は颯爽と答えると、馬首を返して後方へ走った。