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天哮丸戦記  作者: 五月雨輝
城戸休日編
127/221

戦雲


 上州城戸の郷。

 城戸家の館内にある、約二十間四方の屋外の稽古場。

 その中央に、真っ赤な夕陽の光を背に浴びて、上半身裸の茶筅髷の男が、右腕一本で袋竹刀を構えていた。

 不自由な左腕はだらりと下がっている。


 礼次郎の剣の師匠、葛西清雲斎である。


 そして十人ほどの城戸の生き残りの男達が、ぐるっと半円を成して遠くから清雲斎を取り囲んでいた。

 男達は、手にそれぞれ弓矢を持って清雲斎に向けて構えている。


 清雲斎は静かに両目を閉じている。

 しかし、その背からは、激しいのにどこか冷えているような、ピリピリとした闘気が立ち上っていた。

 彼は、真円流精心術を使って全感覚を研ぎ澄ませていた。


 弓矢を構えている男達は皆、一様に緊張した面持ちであった。手が震えている者もいた。

 その後ろで見ている茂吉、女中のおみつ達も、痛いほどの緊張感に息を呑んでいた。


「よし、いいぞ」


 清雲斎がふいに言って、両目を開いた。

 その瞳の色が尋常ではなかった。

 獰猛で、凶暴で、それでいて冷たい殺気に満ちている。本能を剥き出しにした猛獣のようであった。


 その時、空が急に黒くなり始めた。

 不穏な雷鳴が雲間に響く。

 稽古場に生暖かい突風が吹き、隅にある柳の木の葉が翻った。

 蝙蝠が頭上でけたたましく鳴く。


 清雲斎は、周囲の男達を睨み回した。

 凍てつくような冷たく激しい剣気が放たれ、それをまともに受けた男達は戦慄して固まった。


 茂吉もその凄まじさに思わず恐怖した。

 おみつなどは血の気が引いており、手は小刻みに震えている。


「やれ」


 清雲斎が言った。


 茂吉は、唾をごくりと飲み込んで答える。


「ほ、本当によろしいのですか?」

「構わねえ、早くしろ」


 清雲斎は低い声で答える。

 その語気に、どこか苛立ちが滲んでいる。


「わかりました……。では皆の者、やれ!」


 茂吉が命令した。


 だが、男達は、清雲斎の放つ圧倒的な気の恐怖で、身体が固まったまま動かなかった。


 清雲斎が苛立った声を上げた。


「早くしろ!」


 その声に押され、一人の男が竦んだ腕を動かした。

 悲鳴に近い気合いを上げながら、矢を放った。

 それに続いて、他の男達も、それぞれ奇声めいた声を上げながら矢を放って行く。


「よし」


 不敵に笑った清雲斎の身体が飛鳥の如く動いた。


 閃光の如く飛んで来る矢を紙一重でかわした。

 しかし、矢は続けて前後左右より次々に飛んで来る。

 だが清雲斎は、身体を自在に捻りながら、あるいは跳躍しながら、それらを鮮やかに躱して行き、また右手のみで持つ袋竹刀で叩き落として行った。

 そしてとうとう、男達が放った矢を全てかわしてしまった。

 矢は、一度もその身体を掠める事すらなかった。


 最後に清雲斎は懐の合口を取り出すと、


「うるせえっ!!」


 と叫び、背後の頭上に放った。

 合口は虚空に一条の閃光を描き、煩く鳴いていた蝙蝠に突き刺さった。

 蝙蝠は悲鳴を上げて真っ逆さまに地上に落ちた。


 清雲斎は、ふうっと深呼吸をして、袋竹刀を下ろした。

 だがその呼吸はほとんど乱れていない。


 茂吉、おみつを始め、矢を放った男達も皆全員、あまりの凄まじさに唖然として言葉が出なかった。


 だがそんなことは意に介さず、清雲斎は男達に、ご苦労、と短く言うと、その前を通って茂吉とおみつらの方へ歩いて行った。


「水くれ」


 清雲斎が袋竹刀を投げ捨てて言った。

 その瞳は、未だ獰猛な殺気の色に染まっている。

 おみつは震える手で茶碗に水を注ぎ、差し出した。


「すまねえな」


 清雲斎は受け取ると、ごくごくと飲み干した。


「そう恐がるな。何もおみっちゃんを斬ろうと言うわけじゃねえ。持ってるのも袋竹刀だ」


 清雲斎は笑って見せた。

 だがそれでも、全身から上る圧倒的な気が消えたわけではない。


「無理もありませぬ。今の清雲斎殿は、大の男の我々でも恐怖に竦んでしまう」


 茂吉が横から言った。

 清雲斎は、はっはっはっ、と笑う。


「それにしても凄まじいものを拝見いたしました。神業とはまさにこのことでしょうな」

「大したことじゃねえ、遊びみてえなもんだ。たまには心の皮を剥いておかねえと、いざと言う時に役に立たんからな」

「あれを遊びとは……」


 茂吉は感嘆し、


「上州には剣聖と呼ばれた上泉伊勢守殿がおられましたが、その上泉殿と清雲斎殿とではどちらがお強いのでしょうな」

「俺だろうな」


 清雲斎は、ためらいもなく即答した。


「立ち合いをしたことがおありですか?」

「いや、無い。噂に聞く伊勢守の強さは確かに剣聖と呼ぶに相応しい。だが、向こうが剣聖なら俺は剣神だ」


 そう言って、清雲斎は大笑した。


「剣神、ですか……」


 この言葉には、茂吉も流石に苦笑した。

 隣のおみつも引きつった笑みを浮かべている。


 清雲斎がいかに強いとは言え、剣の神と自称するとは、何と自信過剰で驕慢なのであろう。


 二人とも、ただぎこちなく笑うしかなかった。


 その時、清雲斎の動きがぴたっと止まった。

 眼光を鋭くして北西の空を見上げると、


「おう……礼次が帰って来るぞ」


 にやりとして言った。


「え?」

「若殿が?」


 茂吉とおみつが、同時に聞き返した。


「あともう三、四日で帰って来るぜ」


 清雲斎は、赤く染まっている北西の空を見つめた。


「本当ですか? 何故おわかりに?」


 茂吉が聞くと、


「何となくな……そんな気がするんだよ」


 清雲斎はふふっと笑った。

 だが、すぐにまた動きを止めた。

 今度は急に真面目な顔となった。


 眉間に皺を寄せ、無言で南東の空を見上げた。

 その清雲斎の顔色、雰囲気がさっきまでとは一変している。


「どうかされましたか?」


 茂吉が不審に思って聞いた。


 すると清雲斎は答えた。


「とうとう来やがった。ほぼ無主と変わらないこの城戸の地を狙って……」

「え? どこぞの軍勢が来ているのですか?」


 おみつが顔色を青くした。


「ああ。うまみが無いと言って徳川が捨てて行ったとは言え、土地は土地だ。いずれどこかの勢力が奪いに来るだろうとは思っていたがな。やっぱり来やがった」

「ここには戦える者はほとんどいない。今、攻められてはひとたまりもない」


 茂吉の顔も青ざめている。


「どこの者達でしょうか?」

「さあ、そこまではわからねえな。だが数は百……いや、二百ってところかな……ここにほとんど人がいないのを知ってて、少人数で来たんだろう」

「若殿はあと三、四日ぐらいと、さっき言いましたな?」

「間に合わねえ。奴らはもう近くまで来ている」

「え……」

「今いる俺達で戦うしかねえ。茂吉、物見は出せるか?」


「え? はい、生き残った中で留吉と言う男が物見もやっておりましたが」

「すぐに出してくれ。南東の方向だ。どこの軍なのか、おおよその人数と装備はどんなものか、それとあとどらぐらいで着くか、探って来てくれ」

「わかりました」


 先程、矢を放っていた十人の中に、留吉はいる。

 茂吉はすぐに留吉のところに走った。


 おみつは、今にも泣き出しそうな不安そうな顔をしていた。

 それを見て、清雲斎が笑い飛ばすように言った。


「心配するな。この俺がいる。さっきも言っただろう、俺は剣神だ」




 一方、礼次郎ら一行は、すでに上州に入っていた。

 真田領内を行軍し、そろそろ抜け終える。

 四百と言う武装兵を率いて他領を行軍するのは、通常であれば領土侵犯であり、まずただではすまない。

 その土地を治めている勢力の攻撃を受ける。

 だが、上杉景勝が事前に、真田昌幸に対して、礼次郎らを通してやってくれと使いを出していた。

 昌幸は徳川家康との関係を考えて、それに対してあえて返事をしなかったが、礼次郎らが領内を行くのを黙認していた。

 それ故、礼次郎らは何も問題無く、真田領内を通過しようとしていた。


 茫漠たる原野に差しかかった。

 遠く西の空に山脈が見え、とどまっている夕陽が赤く尾根を染めていた。


 先頭を行く礼次郎が、背後の宇佐美龍之丞に話しかけた。


「龍之丞、一つ思案していることがあるんだが」


 礼次郎は、順五郎や壮之介達に対するのと同じような態度、言葉づかいで龍之丞にも接していた。

 龍之丞が、自身は上杉家から遣わされたとは言え、役目の間は礼次郎の家臣として働くつもりでいる、その為礼次郎にも自分を家臣として扱って欲しいと望み、呼び方から言葉づかいまで全てを改めさせたのである。


「はい、何でございましょうか?」


 龍之丞は家臣らしく答えた。

 無精ひげは変わらずだが、今日はいつものざんばら髪を後ろで一つに束ねている。


「今連れて来ている兵の維持についてだ。当面の兵糧、軍需物資などはいただいて来たが、それもすぐに尽きるだろう? しかし今の城戸は徳川に破壊されて荒れ果てている上に、ほとんど民はいない。だから作物もろくに取れない。それでどうやってこれだけの兵を維持して行けばいいのか?」


 礼次郎が聞くと、龍之丞は微笑して答えた。


「簡単なことです。屯田をすればよろしい」

「屯田?」

「戦の無い時は、この兵士達を民に帰し、田畑を耕させたり、土木作業をさせたりするのです」

「ああ、そうか……」


 礼次郎は感心して頷いた。


「私は軍事が専門、そっちの方は詳しくはありませんが、直江の旦那について一応一通り学んだ事があります。私がうまく差配いたしましょう」

「そうか、頼む」


 礼次郎が安心したように言った。


 その時、原野の彼方に、一騎の騎馬が疾駆しているのが見えた。

 そしてその後を、数十騎の騎馬軍団が追っていた。

 しかしそれは、明らかに仲間ではない。その一騎を討とうと、後続の騎馬軍団が執拗に追いかけているのであった。


「何だありゃ?」


 順五郎が手をかざしてじっと見つめた。


 一行も皆、そちらの方に視線をやった。

 礼次郎もじっと見つめていたのだが、やがてはっとして顔色を変えた。


「あれはまさか……おい、千蔵!」

「はっ」

「見えるか? 追われているあれはもしかして……」


 一番目が良い千蔵はすでに確認していたらしい。即座に答えた。


「美濃島咲殿ですな」


 それを聞いて、ゆりが驚いた。


「え? 美濃島……咲さん?」


 順五郎や壮之介らも、驚いて目を凝らした。


 黒い馬に乗って必死に駆けているたった一騎の武者。

 それは美濃島家の女頭領、美濃島咲であった。


「やっぱり咲か。そして追っているのは……」

「幻狼衆に違いござらん」

「やはりそうか……何でこうなっているのかはわからねえが、とにかく美濃島咲を助けるぞ」


 礼次郎は言うと、龍之丞を振り返って言った。


「騎兵は七十だったな。すぐに動かせるか?」

「お任せを」


 龍之丞は颯爽と答えると、馬首を返して後方へ走った。

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