別れは突然に
「どうしたの? 一人で出て来て」
ゆりは、午前の陽に透き通るような白い肌に、花のような微笑を湛えて声をかけた。
「いや、別に」
「ふうん……」
ゆりは礼次郎の顔を見つめた後、
「その黒い羽織、素敵ね。とても似合ってる」
頬を少し赤く染めて言った。
「ありがとう」
礼次郎はぎこちなく笑うと、視線を逸らすように再び東島城を見上げた。
ゆりは飛び跳ねるように歩いて来ると、礼次郎の左隣に立った。
「宇佐美さん、悪気は無いと思うよ」
「ああ、わかってる」
ゆりはちらと横目で礼次郎を見て、
「家臣にしてくれって言った事じゃないよ?」
「……」
礼次郎は何も答えなかった。
だが、彼にはゆりの言っている事がわかっている。
――まあ、死んじまった女の事は早く忘れて、ゆり殿と夫婦になりなよ――
この龍之丞の言葉である。
礼次郎は、前を向いたまま無言であった。
ゆりも視線を落とすと、言葉を止めた。
だが、一時の静寂の後、視線は下にしたまま、思い切ったように口を開いた。
「あれ、おふじさんの事でしょ?」
礼次郎は、はっとした顔でゆりを振り返った。
「知ってたのか?」
「うん、ごめんなさい。あの晩、たまたま源三郎殿の部屋の前で、あなたと源三郎殿の話を聞いちゃったの」
「……」
礼次郎はゆりを見つめた後、再びゆっくりと視線を前に戻した。
ゆりは、一時の間を置いた後、静かに言葉を続けた。
「上田城でのあの晩、想っている人がいるって言ってたけど、それもおふじさんの事でしょ?」
冷たい風が吹き、足下の草が力なく靡いた。
礼次郎は俯き、黙っていたが、やがて面を上げると、
「ああ」
と、小さな声で答えた。
ゆりの表情が切なく固まった。
そしてその小さな胸の鼓動が速くなり、彼女は右手で胸を押さえた。
ゆりは、一瞬目を閉じて小さく息を吐くと、続けて言った。
「まだ……忘れられないの?」
礼次郎はゆっくりと視線を落とした。
そして、
「ああ……」
と、再び小さな声で答えた。
音が、消えたかのように感じた。
ゆり、礼次郎、共に。
世界から全ての音が消えたかのように感じた。
ゆりは礼次郎を振り向き、その横顔を見上げた。
午前の陽は、その端正な横顔に影を作っている。
そして、何故か今までよりも高く感じられるその横顔を、ゆりは潤んだ目で見つめた。
しばしの後、ゆりは礼次郎の横顔から視線を外すと、懐に手をやった。
そして、螺鈿細工のついた朱塗りの櫛、すなわちふじの櫛を取り出し、礼次郎に差し出した。
「これ」
礼次郎はそれに目をやると、はっと見開き、
「これはふじの? 何で?」
「貴方が上田を出た日、あの離れの屋敷の机の上に置いてあったの」
ゆりは、礼次郎に櫛を手渡した。
「本当はね、私が越後に来たのは叔母様に会いに来たわけじゃないの。これを礼次郎に渡そうと思って追いかけて来たのよ」
礼次郎は、しばし呆然とふじの櫛を見つめていた。
だが、やがて声を震わすと、
「何故もっと早く渡してくれなかった?」
「え?」
「これは唯一のふじの形見なんだ。なくしてから、ずっと気になって仕方なかった。渡しに来てくれたのなら、春日山で会った時に何ですぐに渡してくれなかった?」
礼次郎は、少し睨むような顔つきでゆりを見た。
ゆりは、初めて見る礼次郎のそのような顔に動揺し、
「ご、ごめんなさい。なかなか言う機会がなくて」
「機会? 沢山あっただろ?」
「ごめんなさい……」
「……」
礼次郎は、首から提げていたゆりの観音菩薩像を外すと、突き返すようにゆりに手渡した。
「これ、ありがとう」
礼次郎は言ったが、その顔は笑っていなかった。
「ふじの櫛はすぐに渡さずに、何で君のこれをオレに渡したんだ?」
礼次郎の言葉に、ゆりはすぐに気が付いた。
「え? あ? ご、ごめんなさい! 違うの、そういうつもりじゃ……」
「じゃあどういうつもりだった?」
「えっと……その……この櫛を礼次郎に渡したら、もう礼次郎に会う事がなくなっちゃうんじゃないかって思って」
礼次郎は、そう言ったゆりの顔を見つめた。
だが、すぐに視線を外し、無言で前の一点を見つめた。
「ごめんなさい。本当にそんな変なつもりはなくて……」
ゆりは謝った。
だが、礼次郎は不機嫌そうに前方を見たままであった。
「ごめんね」
ゆりは再び謝りの言葉を口にしたが、礼次郎は変わらず無言で前を見つめていた。
しばらく重苦しい時が流れ、その間もゆりは謝っていたのだが、礼次郎の不機嫌そうな顔は変わらなかった。
そのうち、次第にゆりは逆に自分が腹立たしい気持ちになって来た。
「何よ。変な意味は無いって言ってるじゃない」
ゆりはそっぽ向いて呟いた。
「何?」
礼次郎はその横顔を振り返る。
「礼次郎は男らしいかと思ってたけど意外に女々しいのね。貴方のお師匠様の言う通り」
「女々しい?」
「そうよ。ちょっと機会が無くて渡せなかっただけでしょ。そんなに怒らなくたっていいじゃない」
「オレにとってはそれほど大事な物なんだよ」
「それよ。好きだった人を失って辛いのはわかるけど、いつまでそうやってうじうじしてるつもり?」
「何だと?」
「そうやってずっと、いなくなってしまったおふじさんの事を想って生きて行くの?」
「簡単に言うな。何がわかる?」
礼次郎が吐き捨てるように言って前を向いた時、その横っ面をゆりの手がぱんっと叩いた。
「な……?」
驚いてゆりを振り返った礼次郎に、ゆりは真っ直ぐにその目を見据えて言った。
「私も武田家を、家族を失いました」
「……」
「父勝頼、母、そして兄弟達を織田家に殺されたわ。あの時の私は、今の礼次郎より子供だった。私は一応真田家に匿われたけど、あの時はいつ織田に差し出されるか、不安で不安で仕方ない毎日。でもそれよりも、父上、母上、兄弟達を失った事が辛くて悲しくて仕方なかった」
「……」
「でも、ずっと悲しんでても父上や母上は戻って来ない。あの時、ああしてれば、こうしてればもしかしたらと、沢山後悔もした。でもそんな事ばかり考えても何も変わらない。私の世界は変わらずに明日を連れて来る。だから、悲しみは私の身体の一部にしてしまって、綺麗に忘れてしまう事にしたの。それの方が、変わらずやって来る明日を有意義に過ごせるから」
「……」
「だから礼次郎。過去に囚われないで。おふじさんの事を忘れろなんて言わない。むしろ忘れなくていい。でも、いつまでもそれに囚われないで」
ゆりは、哀願するように礼次郎の目を見つめた。
礼次郎は、呆然とゆりの目を見つめ返していた。
何かに感じ入ったかのような表情であった。
だが、やがて、その目に虚ろな光を灯すと、
「一緒にするな」
と、呟いた。
「え?」
「一緒にしないでくれ。オレは、大事な人を殺されたんじゃない」
「どういう事?」
ゆりは戸惑いの顔で礼次郎の顔を見る。
「ふじが殺されたのはオレのせいなんだ。ふじだけじゃない。父上、家臣達、そして城戸の領民達、皆死んだのはオレの浅はかな策のせいなんだ」
「え……」
「あの時、オレが徳川の陣を見に行ったせいで、見つかって逃げる時に小袖を脱ぎ捨てて行ったせいで……、徳川家康の奸計を招いて皆を死なせてしまったんだ。オレが皆を殺してしまったんだ」
「そんな事……全部徳川家康がした事じゃない」
「いや、それを招いた原因はオレだ。オレがふじを、皆を、そして城戸を滅ぼしてしまったんだ。それでどうして忘れられる?」
「そんな……。礼次郎、自分を責めないで」
「今でも時々、あの時の事を夢に見る。そしてその度に、いてもたってもいられなくなる。自分への責めに耐えられなくて気が狂いそうになる。」
「……」
「ゆり」
礼次郎は、真っ直ぐにゆりの目を見つめて、
「いい機会だ。はっきり言っておきたいと思う。オレの罪の深さは消えるものじゃない。オレは自分のせいで自分の家、民、そして娶ろうとした女を殺してしまったんだ。そんなオレに、他の女を娶れる資格なんて無いんだ」
「……」
礼次郎の視線を受け止めるゆりの小さな胸が、忙しく鼓動した。
「だから、オレと君の許婚の事、無かった事にしてくれ」
ゆりの顔が、表情が、目の動きが固まった。
「ごめん」
礼次郎がゆりから視線を逸らした。
「……」
ゆりの目は、虚ろで儚げな光のまま、呆然と礼次郎の顔を見つめていた。
冷気を乗せた風が、二人の間を吹き抜けて行った。
「本当に? 本気でそう言ってるの……?」
「ああ……。どうせ元々オレの父と源三郎様が勝手に決めた事だし」
礼次郎は目を伏せたまま言った。
「礼次……」
ゆりは、胸のうちから込み上げるものに、そこから先の言葉が続かなかった。
そして、両目の端から一筋、光るものが流れ落ちた。
ゆりは下を向き、礼次郎にその小さい背を向けた。
そして、力無い足取りで歩いて行き、やがてその姿を消した。
ゆりの力の無い脚は、彼女を陣中の厩に運んだ。
無意識であった。
いつの間にか、そこに歩き着いていた。
「ゆり様」
ちょうど、そこには喜多がいて、馬の世話をしていた。
「遅かったですね。城戸様とお話しを?」
喜多がにこやかに微笑んだ。
「うん……」
ゆりも微笑み返した。だが、その微笑はどこか不自然で、暗い色が差している。
喜多は不審に思い、
「どうかされましたか?」
「……」
ゆりは、無言で首を横に振った。
そして、自分の馬に跨った。
「どちらへ?」
「ちょっと野駆け」
「では私もお供を」
「いらない。私一人で行きたいから」
「しかし、この辺は危のうございます」
「大丈夫よ。私は……」
武田の娘よ――、そう言おうとして、止まり、言葉を変えた。
「甲州では毎日のように馬に乗ってたんだから。敵に見つかっても逃げられるわよ。それに遠くには行かないから」
ゆりはにこりと笑った。
いつものその微笑みを見て少し安堵した喜多は、
「では、くれぐれもお気をつけて」
「うん」
答えるや、ゆりはすぐに鞭打って駆け出して行った。
どれ程駆けただろうか。
風に吹かれるまま、馬に任せるまま、ゆりは越後の野を駆けた。
どこか、自分が自分でないような、ふわふわと魂が浮かんでいるような、そんな心地を抱きながら。
気がつくと、ゆりは東島城の南東方向、能勢川を越え、一面すすきと雑草が生い茂る原野に出ていた。
すすきの穂と伸び放題の雑草を掻き分け、蜻蛉の群れを邪魔しないように避けながら、ゆりは速度を落とし、ゆっくりと馬首を進めた。
やがて、少し小高くなった所に大木があるのを見つけると、そこで馬を止め、降りた。
ふうっと一つ深呼吸をし、背伸びをした。
「いい気持ち」
ゆりは、大樹の揺れる葉の隙間から、陽光零れる天を見上げて微笑んだ。
群青色の空に、白く長い雲が浮かんでいる。
爽やかな天気である。
だが、ゆりの胸のうちにはどんよりとした物が拭えない。
「私はもう誰でもなくなっちゃった」
ゆりはぽつりと呟いた。
彼女の大きな瞳が揺れるように潤んだ。
――私はすでに武田の姫じゃない。と言うより、元々武田の血筋じゃない。そして今、礼次郎の許嫁でもなくなっちゃった……
――今の私は武田百合じゃなく、城戸礼次郎の許嫁でもない。本当の親も名も知らない、永願寺に捨てられていただけの女。
――そしてどこにも行くところが無い女。所詮武田の血を引いてないから、真田家にも、叔母上のところにもいられない。
――喜多だって、元々は父上に命じられて私の側にいるだけで、武田がとうに滅んでいる今、武田の血を引かない私の側にいつまでもいる義理は無い。
ゆりは天を見上げた。
白く長い雲は、いつの間にか八方に散っていた。
――どうしようこれから。どうしたらいいの……?
目尻から一条の涙が頬を伝わり落ちた。
――でも、そんな事よりも辛い……
必死に堪えていた彼女のうちの何かが、堰を切って溢れ出た。
――私はもうこんなにも礼次郎の事を好きだったんだ。どうして今までわからなかったんだろう?
――こんなにも好きだって事に今更気付くなんて……
――そして気付いた時にはもう終わってた……
頬を伝う涙は幾筋にも分かれ、大地に落ちた。
ゆりは耐えきれずにしゃがみ込み、顔を押さえて泣いた。
彼女は号泣に肩を震わせた。
しばらくして嗚咽が止むと、ゆりは生気の抜けた顔で力無く立ち上がった。
そして、陣に帰るのか、または別のところへ行くのか、考えはまとまらぬままに馬に乗ろうと歩き始めた時、すぐ近くの茂みががさがさと動いて、その中から五、六人ほどの不審な人影がぬうっと姿を現した。
「だ、誰?」
ゆりは後ずさりしながら青ざめた顔で言った。
だが、その者達は何も答えない。
無言でじりじりとゆりに近づく。
野武士や山賊などの類ではない。しっかりと鎧兜に身を固めている武士である。
「その姿、あなたたちはまさか……?」
ゆりは察して、懐の短筒を取り出した。
だが、同時に素早くその武士達が動いた。
「あっ!」
短筒を持つゆりの手を、飛んだ武士の手が払いのけた。
短筒が宙に跳ね飛ばされ、武士達の勝ち誇った声が響いた。
「ははは! やったぞ!」
ゆりは口を塞がれ、身体を羽交い絞めにされた。
「ちょ、ちょっと何するの!」
必死にもがくが、その強力には抗えなかった。
あっと言う間に縄で縛り上げられ、口には猿轡が噛まされた。
「戦が長引くと景勝の妻が陣中見舞いに来ると言う噂は本当だった。こいつが景勝の妻の菊だろう!」
「これで殿もお喜びになるだろう!」
彼らは、新発田方の武士だった。
縛り上げたゆりを抱えると、高笑いを上げた。
ゆりは必死に声を出そうとしたが、固い猿轡の前には顎が動かない。
――私を叔母上と間違えて……? 礼次郎……!




