宇佐美龍之丞の憂鬱
そして礼次郎と順五郎が城戸隊の陣小屋に戻り、礼次郎主従が細事を打ち合わせていると、案内の兵に連れられて、ゆりと喜多が菓子と果物を持ってやって来た。
「聞いたよ、大手柄立てたって。流石礼次郎」
姿を見せるなり、ゆりは開口一番賑やかに言った。
「運が良かったんだよ」
礼次郎は照れたような笑顔で答えた。
「そんなことないわ。相手は新発田軍一の猛将だって。凄いわ」
ゆりは瞳を輝かせた。
その後ろで、喜多が、持って来た焼き菓子と、果物を礼次郎らに手渡した。
壮之介は焼き菓子を受け取りながら渋い顔で言った。
「しかし、今回は良かったものの、礼次様の性急さ、無茶には困ります。大将たる者は軽々しく打って出るものではござらん。ゆり様からも言ってくだされ」
聞いたゆりはくすくす笑い、
「そうねえ、礼次郎のせっかちは治らないものかもしれないけど、もう少し自分が大将だって事を自覚した方がいいかもね。でも壮之介殿、あなたも昔軍司家の当主だった時には、戦場では先頭に立って斬り込んで行ってたんじゃなかったの?」
「う、それは……」
壮之介は坊主頭を赤くして言葉を詰まらせた。
「若と同じ事言われてやがる」
「ははは!」
座が笑い声に包まれた。
それだけではない。何か一気に明るくなったようであった。
ゆりが来ると、礼次郎達のいる場が、華やか、かつ和やかなものに一変するのであった。
彼らは、しばし菓子や果物を食べながら歓談に興じた。
一方、景勝、兼続と共に作戦立案を終えた宇佐美龍之丞は、帷幕を出ると、やはり先日と同じようにどこか物憂げな顔で秋の高い空の下を歩いた。
その瞼の裏に浮かぶのは、九年前のあの日の事――
手取川の戦で、当時日の本一の大勢力であった織田信長の大軍を撃破した上杉謙信は、その大戦果にも関わらず、それ以上織田領を攻撃しようとはせず、兵を退いた。
春日山へ帰るその行軍中、当時十五歳の龍之丞は、素直な疑問を謙信にぶつけた。
「不識庵様、何故織田を攻めぬのですか? 今が絶好の機でございます」
龍之丞の問いに、上杉謙信はちらと振り返ったが、微笑するのみで、何も答えなかった。
「不識庵様」
「お前はまだ若い、焦るでない。それよりも、兵らの顔でも見ているがよい」
「顔? 何をご冗談を」
「ははは………」
――もう九年も前の事か。
龍之丞は、南西の空を見上げた。
天はどこまでもその悠久の蒼さを広げている。
――今日の戦で、新発田を攻め滅ぼせるだろう。そうなれば戦は終わり、あとは春日山に帰るだけだ。だが………
龍之丞の顔に暗い色が浮かんだ。
その時、通りがかった左手の方の陣小屋から、賑やかな談笑の声が聞こえて来た。
龍之丞にも聞き覚えのある声である。
それは、城戸礼次郎の陣小屋であった。
龍之丞はその声を聞いて微笑むと、足をそちらへ向けた。
「賑やかだねえ。ちょっと邪魔してもいいかな?」
龍之丞は中を覗き込んで言った。
「ああ、宇佐美殿、どうぞ」
礼次郎は笑顔で答えた。
龍之丞は、その笑顔がやけに穏やかな事に少しの驚きを持ったが、礼次郎の隣に座る武田百合を見ると、
――ああ、なるほど。
と密かに納得した。
「ゆり殿、今日は差し入れかたじけねえ。俺も梨をいただいたよ」
龍之丞はゆりを見て言った。
「いえ、そんな。実際に運んでくれたのは他の人達だから」
「ははは。そうだねえ。でも、陣中見舞いは、時々御方様が来てくれる事があってな。それだけでも驚きなのに、今日はゆり殿なのでもっと驚いたぜ」
「今日はその叔母様の代わりです」
「御方様が来ると、御屋形様のあの辛気臭え顔が明るくなるんだが、今日は礼次郎殿の顔が明るいなあ」
龍之丞がからかうように笑った。
「え? そうでしょうか? そんなことは……」
礼次郎は少し狼狽えた様子で言った。
そんな礼次郎を、ゆりは少し頬を赤くしてちらと横目で見た。
「はっはっはっ、照れるなよ。いいじゃねえか。礼次郎殿とゆり殿、お似合いだぜ」
龍之丞が更に囃し立てるように言った。
「は、はあ」
礼次郎はどう答えていいかわからず、ぎこちなく答える。
だが、
「まあ、死んじまった女の事は早く忘れて、ゆり殿と夫婦になりなよ」
と言った龍之丞の言葉で顔色を変えた。
「………」
ゆりもさっと顔色を変えた。
だが、それは礼次郎を案ずる顔である。心配そうに礼次郎の顔をちらりと見た。
しかし、礼次郎は冷静に努めようとしているようであった。
「そ、そうですね」
ぎこちない表情で答えた。
「ははは。あんたのようにいつも生き急いでる男は、早く嫁を貰う方がいいぜ」
「はは……。ところで、作戦は決まりましたか?」
礼次郎は、話題を逸らそうとした。
龍之丞は手を叩いて答えた。
「ああ、出陣はな、夜だ」
「夜?」
「そう、つまり夜襲だ。午後、俺達は春日山に帰るふりをする。新発田の連中は、昨晩俺達が奴らをある程度叩いたので、目途がついたと思って帰ったのだと思うだろう。そこで奴らが気を緩めた夜を見計らって電撃的に転進、一気に奴らの陣を急襲すると言う手筈だ」
龍之丞は惜しげもなく作戦を述べた。
「成程、それは妙計」
壮之介達が感心して頷いた。
龍之丞は続けて、
「礼次郎殿、あんたを先鋒に推薦しておいたぜ」
「私が?」
「そう。陣立ては直江の旦那が今決めている頃だが、俺があんたの器を見込んで先鋒に推しておいた。頑張ってくれよ」
「そうですか。しっかり励みます」
礼次郎は、身の引き締まる思いに力強く答えた。
「恐らく今夜の夜襲で新発田の滅亡は決定的となり、この戦は終わるだろう。その後は、礼次郎殿に兵を貸してあげられるよう、旦那と一緒に御屋形様に頼んでおいたぜ」
「え?」
「御屋形様は快諾なさったよ。兵四、五百人を貸すってさ、良かったな」
龍之丞がざんばら髪を揺らして笑った。
「本当ですか?」
礼次郎が顔を輝かせた。
順五郎、壮之介、千蔵はもちろん、ゆりと喜多も明るい顔となった。
「ああ、むしろ少なくてすまねえな。でもこれが今の上杉の限界なんだ」
「いえ、とんでもない。それだけ貸していただけるだけでもありがたい事です。感謝いたします」
礼次郎は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「やったな、若」
「今夜の戦はより励まねばなりませんな」
「礼次郎、良かったね」
礼次郎らは、喜びに顔をほころばせ、明るい声でそれぞれ言葉を交わした。
龍之丞は、しばし笑顔でその様子を見つめていたが、何か思う事があったのか、急に真面目な顔になり目を伏せた。
そして再び視線を上げると、礼次郎に言った。
「なあ、礼次郎殿。頼みがあるんだが」
「何でしょうか?」
「俺をあんたらの仲間に加えてくれねえかな?」
「え?」
「仲間って言ったらおかしいか。禄なんていらねえからよ、俺を礼次郎殿の家臣にしてくれ。そして礼次郎殿の手伝いをさせて欲しい」
礼次郎は困惑した顔で苦笑いし、
「ご冗談を」
「冗談じゃねえ、大真面目だぜ」
そう言った龍之丞の顔は、確かに笑気が無く、至って真面目な顔であった。
真剣な眼差しで、礼次郎の顔を真っ直ぐ見つめていた。
「何を言いますか。宇佐美殿は上杉家には欠かせぬご重臣ではありませんか」
「いや、つまんなくてなぁ」
「つまらない?」
「ああ。秀吉に臣従を決めてしまった御屋形様は、もう天下を取るつもりはない。御屋形様は言われた。新発田を滅ぼした後は、越後の民とその生活を守って行くと……そうなれば平和で穏やかな日々が続いて行くだろう。だが、俺は戦の無いそんな退屈な暮らしなんぞごめんだ」
龍之丞は溜息混じりに言った。
しかし、それを聞いた礼次郎の顔からは笑みが消えていた。
「だが礼次郎殿、あんたらと一緒にいたら面白そうだ。是非俺を家臣に加えてくれ」
龍之丞は笑って言った。
しかし、礼次郎は憮然とした表情で黙りこくっていた。
「……」
「どうかしたか?」
龍之丞が覗き込むように聞くと、礼次郎は苦々しい顔で口を開いた。
「あなたは、民とその暮らしを守る事がつまらないと?」
「え? あ、いや……」
「右少将様の越後と民への想いがわからないのか? 守るべき土地と民があり、それを守る。それがいかに素晴らしく、かけがえの無いものであるかがおわかりにならないのか?」
「……」
龍之丞は言葉を失い、神妙な顔となった。
礼次郎は、その守るべき物をほとんど失った身である。
「オレの戦いはそれを取り戻す戦いでもある。それは決して面白い事などではない。先が見えない長く苦しい戦いだ。そしてそこには、民を守る事がつまらないと言う人間が面白そうだと言う理由で加わる余地は無い」
「………」
「お断りする」
礼次郎は真っ直ぐに龍之丞の目を見て言った。
静かに淡々と述べられた言葉であったが、その語気の端々に、沸騰しそうな感情を抑えている節があった。
それを感じ取った龍之丞は、
「ああ、すまねえ。また俺はまずい事を言っちまったかな」
と言って苦笑いで頭を掻いた。
「宇佐美殿、今のは聞かなかった事に致します」
「ああ」
龍之丞は立ち上がった。
そして、
「悪い、邪魔したな」
複雑そうに微笑むと、出て行った。
それを見送った後、
「若、別に良かったんじゃねえか? あの兄ちゃん、ちょっと無神経だけど、悪い奴じゃねえぜ。むしろ俺達には大きな力になりそうだけど」
順五郎が言った。
「いや、あれでよいでしょう。あの御仁、確かに悪い方ではないが、軽すぎるところがある」
壮之介が頷いて言う。
礼次郎は伏し目がちに虚空の一点を見つめていたが、すっと立ち上がると、
「ちょっとその辺歩いて来る。寛いでてくれ」
と言って、陣小屋を出て行った。
その背中を、ゆりは大きな目で心配そうに見送った。
礼次郎は、少しうつむきがちに陣中を歩いた。
そこかしこより兵達の談笑の声、木剣ぶつかり合う武芸の稽古の音、演習らしき掛け声などが聞こえてくる。
礼次郎はその中を歩き、やがて要害山の東島城を見上げられる陣の外れまで来ると、脚を止めた。
東島城を見上げ、小さい溜息を一つついた。
そして、しばし東島城を見つめながら黙然と何か考え込んでいた。
その背中へ、
「礼次郎」
と、声をかけた者がある。
礼次郎は振り返った。
「ゆり……」
ゆりが、そこに微笑んで立っていた。




