伝説の剣術
その時、仁井田統十郎は後方で兵の指揮をしていた。
しかし正門が開けられたことを知るや、
「おい、ここはお前らに任せる。俺は中に行く、いいな!」
統十郎が切れ長の目を光らせニヤリと笑った。
――正門が開いたらぐずぐずしてられん。天哮丸は俺が頂く。家康なんぞには渡さん。
仁井田統十郎は、心中密かに家康より先に天哮丸を奪おうと目論んでいた。
――この時の為に徳川家に入り込んだのだ。
そして仁井田統十郎が急ぎ馬を進めようとしたその時、後方で何やら騒ぎが起こっている音が耳に入った。
「何だ?」
統十郎が振り返ると、少し離れた場所で小競り合いが起きており、どうやら徳川軍の兵士達が次々と倒されているようであった。
気になった統十郎は馬首を旋回させた。
よく見てみると相手はたった二人のようであった。
「何だこれは?」
武士として興味を引かれた統十郎は、注意深く目を凝らした。
大柄な男の方はともかく、少し細身の男の方に目が行った。それはもちろん城戸礼次郎。
不思議な光景であった。
その男――礼次郎は特に力があるとも速さがあるとも思えなかったが、こちらの兵が次々と吸い寄せられるかのように斬り伏せられて行った。
じっとその動きを観察してみた。
礼次郎はほんの二、三合斬り合う間、あるいはその前に、相手の動きを読み切ってしまい、その次の瞬間には相手の動きの隙をついて斬り伏せているように見えた。
統十郎はしばらくその様を眺めていたが、突然何かを思い出したかのように気が付いた。
「あれはもしや……真円流か!」
礼次郎の戦いぶりに、統十郎の剣士としての血が疼いた。
統十郎はすぐに馬を下りると、刀を抜いて礼次郎の前に躍り出た。
「お前ら邪魔するな、見てろ」
兵士達に命じて下がらせると、今度は礼次郎に向かって、
「オレは仁井田統十郎政盛。貴様は?」
統十郎が身体を斜めに、剣を八相に構えて言った。
朱色の甲冑を纏っているが兜はかぶっておらず、総髪を無造作に両肩に垂らした異様な風体の剣客然とした男の出現に、礼次郎は思わず身構えた。
それは、統十郎の全身から発せられる周囲を威圧するかのような剣気のせいでもあったろう。
「仁井田統十郎……政盛?」
礼次郎は眉を動かしながら、
「城戸礼次郎頼龍」
簡潔に名乗った。
統十郎は驚いた。
「城戸? お前が? ……城戸家の嫡男か!」
「だったら何だ」
礼次郎が睨んだ。
「ははははは! これはいい!」
統十郎は大声で笑った。
「河内源氏城戸家の嫡男、その命俺がもらった」
「何?」
「だがその前に一つ聞かせろ。貴様の使う剣、それは真円流剣術だな?」
礼次郎は眉を動かした。
「何で真円流を知っている?」
「やはりそうだったか。俺がかつて剣の稽古に明け暮れていた時、聞いたことがある。円流から生まれた異端の剣術流派、真円流をな。さっきから貴様の動きを見ていたが、噂に聞いた真円流の動きとしか思えん」
闘気と血の匂いの混じる熱い風が吹き、統十郎の垂らした頭髪が靡いた。
「……」
「異常なまでに鋭い直感と、どんなに速く動く物でも正確に見切る能力。この二つを兼ね備えた者だけが真円流を使えると言う。真円流は、この二つの能力により、人の持つ感覚を二段も三段も上の領域にまで研ぎ澄ますことを可能とし、それにより相手の動きを数手先まで読んで戦う。しかしその二つの能力を兼ね備える者が滅多にいない為、天下にその使い手はほとんどいない異端の剣術……。俺はかつてその真円流剣術を見ようとしたが、叶わなかった。だがまさかその使い手がこんなところにいて、しかも城戸家の嫡男だとはな。こんなに面白いことはない」
「面白い? オレはまだ真円流を究めたわけじゃない」
「だろうな、その若さだ。しかし真円流を使えるのならば関係ない、その腕見せてもらおう」
と、言うや統十郎は土煙を起こして鋭く踏み込み、やや上段から振り下ろした。
しかし刀は空を斬った。
礼次郎はすでに後方に飛び退いていた。
礼次郎は右脇構え。
統十郎は再び踏み込むと、下段から振り上げた。
その大柄な身体からは信じられない素早さで、礼次郎は間一髪のところを刀で受け止めたが、その力の強さは並外れており、危うく刀を弾き飛ばされるところであった。
――強い!
礼次郎は相対した時、相手の発する気で大体の強さがわかる。
先程統十郎と向き合った時、すでにその強さは感じ取っていた。
しかしこうして斬り合ってみると、その強さは礼次郎の想像以上であった。
――そしてこの剣気!
相対する者の手足を縛りつけるかのような荒々しい剣の圧力であった。
礼次郎は一旦後ろに飛び退いて距離を取り、統十郎の手元、足元を素早く見回した。
そして統十郎の呼吸を計る。
統十郎は再び踏み込んだ。
そして飛鳥の早業で中段を横に払った。
だがその瞬間、礼次郎はすでに統十郎の右横にいた。
――いつの間に……。
瞬時に統十郎も刀を振って牽制し、飛び退いて離れた。
統十郎は再び踏み込み、脚を狙って斬りつける。
礼次郎は上からそれを振り払い、そのまま数合上下に打ち合った。そして機を見て互いに飛び退くと、間合いを保って睨み合った。
――何と言う強さ。
礼次郎は感じていた。
統十郎は自分より確実に強い。
しかし、統十郎もまた感じていた。
――こいつは俺が思っていた以上に手強い。簡単にねじ伏せられそうに見えるが、ねじ伏せようとすると次の瞬間には守りに回らせられる。
統十郎が言った。
「素晴らしいな、これが真円流か。これでまだ究めていないと言うのだからもっと究めたらどうなるのか……。一人の剣士として見てみたいもんだ、ぞくぞくするぜ」
「無駄口の多い奴だな」
礼次郎がじりじりと間合いを詰める。
統十郎が言葉を続けた。
「しかしこれではまだまだ極円流に目覚めるのは遠いな」
「きょくえんりゅう?」
礼次郎の動きが止まる。
統十郎がにやりと笑った。
「知らなかったか。真円流のその更に上を行くと言われる円流究極の流派。それが極円流」
礼次郎には初耳であった。幼少の頃に教えを受けた師匠にも聞いたことが無かった。
「極円流は、円流諸流派のみならず、あらゆる剣術流派を凌駕する最強の剣術と伝わる。だがその実在の程は不明。この日ノ本の歴史上、かつて数人これを使った者がいるとされるが、その真偽の程もまた不明。本当にあるのだとしたら、剣士として一度その技を見てみたいと思っていた」
「本当にそんなものがあるのか?」
「知らん。だが真円流を使う貴様ならいつかは使えるようになるかもしれん。だが残念だ……貴様はここで命を落とすのだからな!」
そう言うと、統十郎は再び風を巻いて袈裟斬りを放った。
礼次郎はわずかに反応が遅れ、その剣を真っ向から受け止めた。
そして両者は再び剣花を散らして数合打ち合ったが、礼次郎が徐々に押されているかのように退き始めた。
だが、それは礼次郎の技への誘いであった。
即ち、真円流"逆さ天落とし"。
礼次郎は、押されながら数合打ち合った後、隙を見てぱっと後方へ飛び退いた。
――体勢を崩したか!
機と見て、統十郎が追い打ちの袈裟切りの構えで踏み込んだ。
――ここだ!
礼次郎は刀を身体の後ろに隠すような左脇構えに構えていた。
だが、
――うっ、この構えはまさか……!
礼次郎のその体勢に統十郎が目を剥いた。
脳裏に、過去のある記憶が瞬間的に閃いた。
――逆さ天落とし!
礼次郎の双眸が強く光り、左下段より閃光が天へ走った。
しかし、その光は虚しく虚空を切り裂いたのみであった。
「……!」
斬ったかと思いきや、その統十郎は数歩向こうに無傷で立っていた。
瞬時に踏み込みを止め、高速の斬り上げをかわして飛び退いていたのであった。
「あそこでよけた……?」
礼次郎は驚愕に目を見張った。
技をかわした統十郎は、息を乱していたが、その顔には笑みが浮かんでいた。
「真円流の技、"逆さ天落とし"。お前も使えるのか」
楽しげに言った。
「ますますぞくぞくするぜ」
統十郎が笑って剣を八相に構えた。だがその笑みは、どこか恐ろしさを感じさせる物であった。
――やられる……!
直感が限界を越えて研ぎ澄まされている礼次郎にはそれがわかった。
統十郎の剣技は明らかに自分よりも数段上。それは真円流をもってしても埋めることのできない差。
加えて奥の手である逆さ天落としも破られてしまった。
――どうすれば……
戦闘で熱くなっているはずの礼次郎の身体に冷や汗が流れる。
そして統十郎。
――最早俺の勝ちだろう。だがこいつを仕留めるのには時間がかかりそうだ。
――直刀を持って来なかったのは失敗だった。撃燕兼光の突きがあれば簡単に仕留められるものを。
統十郎は礼次郎の顔を見た。
まだどこか少年のような面差しを残しているが、その双眸には秘めた剣気が感じられる。
――こいつはまだまだ強くなるだろうな……。もっと強くなったこいつと剣を交えてみたいもんだ。
その時、統十郎の後方、つまり城戸の館の方での戦闘と混乱の音がより激しくなっているのに気付いた。
――いかん、こんなことをしている場合ではなかった。天哮丸を探さねば。
「ちょうどいい、今日はここまでだ」
統十郎が叫んだ。
「ちょうどいい?」
「俺にはやらねばならんことがある!お前が生き延びられればまた剣を交えるとしよう。俺にはわかる。お前は本物の剣士だ。もっと強くなって来い」
「何を言ってやがる」
「よし、お前ら、後は任せた!」
そう周りの部下達に言うと、統十郎は刀を持ったまま走り出した。
「待てっ」
と、礼次郎が言う間もなく、統十郎の姿が消える。
しかし、すぐに統十郎に後を任された徳川軍の兵士たちが襲って来た。
しかも先程より数が増えている。
「くそっ」
礼次郎は応戦するが、
「若! これじゃきりがない! どんどん増えて来やがる!」
少し離れたところで戦っていた順五郎が言った。
「しかし館に行かなければ!」
「残念だけどこの様子じゃ館はもうダメだろう」
その時、どこからか聞こえた。
「城戸礼次郎を探せ! 城戸の嫡男だ!」
礼次郎の耳に入った。
「若! まずいぞ、ここは一旦逃げよう!」
「しかし父上は……天哮丸は……!」
「捕まってしまったらどうしようもなくなる!」
「……仕方ない」
礼次郎は早業で三人の兵を斬り伏せると、砂をつかんで投げた。
数人の兵士が目を覆う。
「逃げるぞ!」
土を蹴って駆け出した。
順五郎がその後を追う。
「逃げたぞ、追え!」
徳川軍の兵士たちが追って走り出した。
しかし、徳川軍の兵士達は甲冑を身につけており、礼次郎と順五郎は軽装。
徳川軍の兵士達はなかなか礼次郎らに追いつくことができなかった。