城戸礼次郎
天正十四年(1586年)秋、上野国(現群馬県)城戸の郷と呼ばれる地の山中。
木々の間を縫って、一人の細身の若者が、二人の甲冑姿の武士を相手に剣花を散らしていた。
相手の武士が猛然と振り下ろした刀が、咄嗟に右に避けた細身の若者の左肩口を掠めた。
そこへ、更に右から斬りかかって来た別の武士の太刀が追う。
若者は刀を振り上げて受け止めると、そのまま猫の如く素早く数歩後ろに飛び退き、間合いを取った。
その距離、およそ二間(約3.6メートル)。
しかし相手とは違い、若者は甲冑を纏っていない。黒い平袴に濃紺の小袖と言う平服である。一太刀でも浴びればひとたまりも無かった。
「若、大丈夫か!」
後方より案ずる声が飛ぶ。
「ああ、何とか大丈夫だ!」
若者は答えると、
「順五郎、お前は?」
「こっちも何とかな!」
そう答えた後方も、刃が交わる金属音が響いていた。
そこにも、順五郎と呼ばれた背の高い体格の良い若者が、平服姿のまま甲冑の敵二人を相手に激しい斬り合いを演じていた。
細身の若者は向かい合う二人の顔を交互に見る。
相手二人は摺り足で間合いを詰めてくる。
足元の落ち葉を吹き上げた乾いた風に殺気が混じる。
――ここでぐずぐずしてると他から加勢が来るかもしれない。逃げた方がいいか……?
若者が刀を八相に構えながら思案していると、
「その小袖についている三つ葉竜胆の家紋……」
対峙する一人が口を開き、
「まさか、城戸家の嫡男の礼次郎とか言う者ではあるまいな?」
怪しみの目を向けた。
若者の身体がピクッと動いた。
当たりであった。
――ばれたか?
城戸礼次郎は額に冷や汗を滲ませた。
その様子をじっと見て相手が言った。
「まさか図星か? ならばこれがどういうことかわかっているのか? 城戸家の嫡男が我が徳川軍の陣に忍び込んだのだぞ?」
「オレは城戸家の人間などではない。この小袖は殿より褒美としていただいたものだ!」
礼次郎は咄嗟に嘘をついたが、
――ばれちまった以上は、この二人を斬るしかない!
礼次郎は覚悟を固めた。
「とぼけおって……年の頃から言って間違いあるまい」
相手二人は更に間合いを詰めて来る。
礼次郎は間合いを保とうと剣を構えたまま後ずさりしながら、
――真円流を。集中しろ……こいつらの動きを読むんだ。
意識を己の精神の内部へと向かわせた。
遠くの木々の葉の掠れる音、微かな空気の流れが耳に入る。飛ぶ虫の動きが残像の如く見え始めた。そして対峙する相手の息遣いがはっきりと聞こえる。
礼次郎の両の瞳が澄んで行くと同時に色が変わって行く。
細身の肉体に剣気が満ちた。
相手二人のうち、一人が踏み込んで来るのを感じ取った。
――来る!
相手が飛びかかって来た刹那、礼次郎の身体もまた前に飛んでいた。
二人の身体が交錯したその直後、悲鳴と共に相手の身体が血飛沫を上げて崩れ落ちた。
礼次郎の刀が相手の脇腹を斬り裂いていた。
「何っ……」
残る一人はその早業に驚いたが、すぐに、
「おのれっ!」
激昂して斬りかかって来た。
礼次郎は、まだ血に濡れたままの刀を振り上げ真正面から受け止めると、自分の間合いに誘い込むように後退しながら三合ほど打ち合い、更にぱっと後ろに飛び退いた。
その時、刀は身体の後ろに隠すようにして左下段に構えていた。左手は握らずに、ほぼ柄に添えただけの状態。
「逃げるか!」
相手が追撃の太刀を振りかぶって来た。
礼次郎の目が見開き、身体が左前に飛んだ。刹那、左下段に構えていた刀が、天へ閃光を走らせた。
悲鳴と共に血飛沫を噴き上げながら相手が倒れた。
押されているかの如く退いて相手を誘い込み、勢いづいて大振りに飛び込んで来たところに軌道を見せぬ斬り上げを放つ。『逆さ天落とし』と呼ばれる真円流剣術の秘剣であった。
礼次郎の足下に、血に塗れた二つの身体が転がった。
彼は安堵交じりの溜息を吐いてそれを見つめたが、すぐに思い出して背後を振り返った。
「順五郎!」
すぐに加勢に駆けつけようとしたが、その時、すでに一人を斬り伏せていた順五郎の太刀が残る一人も地に沈めたところであった。
「やったか!」
「ああ、若も大丈夫だったか」
順五郎が袖で汗を拭った。
「だがまずいぞ、すぐに徳川の別の兵がここへ来るだろう、帰るぞ!」
「おう」
順五郎は応えると、二人は走り出し、雑木帯から山道に飛び出した。
そこには二人の馬が繋いである。
二人が馬に飛び乗り、鞭打って駆け出した時だった。
「いたぞっ! あそこだ!」
と言う声が聞こえたと同時、一発の銃声が轟いた。
礼次郎は咄嗟に馬のたてがみに身を伏せた。だが、その右肩上に鋭い痛みが走り、彼は顔を歪めた。
銃弾がわずかに掠めて行ったのだ。
「若、大丈夫か?」
後ろを走る順五郎が顔色を変えて叫んだ。
「大丈夫だ。少し肩に触れたが」
礼次郎は右肩を押さえ、少し振り返って答える。
礼次郎は細長い眉、はっきりとした目が印象的な端正な顔立ちで、多めの髪を雑に後ろで束ねていた。
彼は銃弾が掠った右肩を見て大した傷ではないことを確認すると、後方を見やった。
「外したかっ!」
「逃すな、追え!」
後方遠く、怒鳴る声が聞こえた。
追っ手の兵四人が馬に飛び乗り、こちらを追いかけて来るのが目に入った。
ここはあまり広いとは言えない山中の林道である。
そもそもこのような事態になっているのは、この城戸礼次郎が、城戸の地を訪れている徳川家康の野営地を見てみたいと言い出したからである。徳川家康は、城戸家に伝わる河内源氏重代の宝剣天哮丸の譲渡交渉の為に極秘に城戸に来ていた。だが、礼次郎はこっそり家康の野営地をのぞきに行ったのだが、不注意から見張りの兵士に見つかってしまったのだった。
「徳川め、鉄砲隊まで連れて来てるとはやはり今回は普通じゃないな」
礼次郎が舌打ちして言った。
「全くだ、殿に報告する必要があるぜ」
「奴ら、まさか天哮丸を武力で脅して奪う気じゃないだろうな」
礼次郎は風を切る前方を睨んで呟く。
その見つめる林道の行く先は二手に分かれていた。
右手へ行くと、急流とそれにかかる吊り橋がある。このまま真っ直ぐ行くと下り坂でしかも近道。
礼次郎は当然真っ直ぐ行く方を選んだ。
だが、二股路を越えて行くとすぐに、視界の先から徳川軍の兵達が走って来るのが見えた。
騎馬では無いが弓矢を持っているようだった。
「いたぞ!」
「あれが曲者だ!」
怒号と同時に飛んで来る矢。
しかし、矢は届くものの当たるような距離ではなかった。
だが間髪入れずに駆け出して来る徳川兵たち。
礼次郎は舌打ちすると、
「回り込まれてたか! 川の方から行くしかないか」
順五郎と共に馬を止めて急旋回させ、元来た道を駆け戻って行く。
――やはりおかしい、話し合いに来るのに何故これだけの武装兵を連れて来る?
礼次郎の涼やかだった額に汗が滲んだ。
――今度こそ天哮丸を力づくでも手に入れるつもりか?
すぐに二股路に差し掛かった。
そして二股路の左、つまり先程言っていた右手の道を曲がり、駆けた。
しばらくして、また数発の銃声が山林を震わした。
だが今度は銃弾が身を掠めない。弾道が大きぶれたか、それとも銃弾が届く距離ではないのか。
礼次郎はちらっと後ろを見た。
「こんな山の林道なのになかなか速いな」
「慣れてるのを連れて来てるみたいだ」
「だがこの山道ならまだまだオレたちの方が速い、突き放すぞ!」
礼次郎たちは速度を上げた。
この先は急流で、それにかかる吊り橋がある。
礼次郎はその橋を渡り切ったところで吊り橋を切って落とし、追って来られなくしようと考えていた。
だがしかし――
「橋が壊れてやがる!」
礼次郎は愕然とした。
それまでどこか涼やかだった顔が真剣になった。
壊れた橋の下は結構な高さがあり、そして急流が流れている。
「そう言えば数日前、どこかの橋が壊れたとかなんとか茂吉たちが言ってたような」
順五郎が言うと、
「それを早く言え!」
礼次郎の額にまた汗が滲んだ。
「若の勘も当たらないな」
順五郎が笑うと、
「笑ってる場合か」
「あーあ、若が徳川の陣地を見てみようとか言い出すからこう言うことになるんだ」
「当たり前だ、敵を知り己を知れば百戦殆うからずと孫子に言うだろう」
「敵と決まったわけじゃないだろ?」
「交渉とは言えうちの天哮丸を狙ってるんだ、敵みたいなもんだ」
「まずいな」
礼次郎は焦燥に唇を噛む。
背後遠く、徳川の軍兵が迫る音は大きくなって来ている。
「そう言えば昔、この下流の川岸で死にかけてた武士を助けたことがあったっけ」
「そんなことあったか?」
「まだガキの頃、4年ぐらい前だったかな。ほら、野兎狩りに行った帰り」
「ああ、そう言えばそんなこともあったかな。って何だこんな時に!」
「あの時の侍は負け戦で逃げて、一か八か川に飛び込んだとか後から聞いたっけ……。よくこんな川に飛び込んだもんだ」
「ああ、大したもんだ」
「俺達も飛び込んでみようか?」
「バカ言うな、死にに行くようなもんだ」
「そうだよなぁ」
順五郎は溜息ついて眼下の急流を見つめる。
こうしている間にも徳川軍の追手は徐々に迫って来る。
ふと、礼次郎が何かを思いついた顔になり、
「いや、いい案だ、飛び込むか」
呟いた。
「ええっ?」
耳を疑った順五郎に、礼次郎は崖下を見つめ、
「意外と行けるんじゃないか?」
楽しげににやりと笑った。
「着物を脱ぐぞ!」
徳川の追手の兵達が壊れた橋のところまで走って来た時、すでに礼次郎と順五郎は姿を消していた。
「くそ、山道を走るのが速い、やはりこの辺の者たちか」
「橋が壊れてる、この辺にいるんじゃないか?」
「誰かは知らんが我らの陣を見た者はそのままにはしておけぬ、何としても捕らえるのじゃ」
兵達が馬を降りると、一人の者が少し離れたところに馬が二頭乗り捨てられているのに気づいた。
「おい、あの馬を見ろ」
「うん? 奴らのか?」
一人が馬の方へ駆け寄って行くと、何かに気付き、
「おい、これを見ろ!」
地面を指差すと、そこには小袖、袴など二人分の衣服が放られていた。
「まさかこの急流に飛び込んで渡ったか」
「そんなバカな」
「いや、この辺の連中ならこの地には慣れているだろう、案外大したことないのかも知れぬ」
「じゃあ俺たちも行くか?」
「バカ言え、こんな急流に飛び込んで渡るのは俺たちには無理だ、それにそこまでして追わずともよいだろう」
「じゃあ諦めるか」
「だが待て、これを言っても倉本様は信じてくれないだろう、証拠として小袖だけでも持って行くか」
「よし、そうしよう」
そして徳川兵達は礼次郎らの脱いだ小袖を持ってこの場を去って行った。
彼らの姿が完全に辺りから消えた頃――
少し離れた草木の茂みが揺れる。
中からふんどし姿の礼次郎と順五郎が出て来た。
「畜生、あいつら着物持って行きやがった」
順五郎が恨めしげに言う。
「まあ、袴があるだけマシだ」
礼次郎は、崖の手前に馬と服を捨てたことで川に飛び込んだと見せかけ、実際には少し離れた茂みに隠れていたのだった。
「若の咄嗟の策は素晴らしかったけどよ、上半身裸で帰るなんてバカみたいだぜ」
「まあそう言うな、捕まらなかっただけ良かったろ」
礼次郎は自分の機転に満足しているようだった。
「でも大丈夫かな? 小袖を持って行かれちまった、あれには紋が入ってる」
順五郎が心配すると、礼次郎は一瞬考え込んだ後、
「それが問題になったら褒美としてもらったものとか言って誤魔化せばいい。たかが着物だ」
礼次郎は笑った。
しかし、この時持って行かれた着物が、この日の夕暮れに城戸礼次郎の運命を大きく変える事となる。
「いやしかし大変だったな、さあ帰ろう」
順五郎は呆れた顔で、
「そもそも若が徳川の陣地を見ようとしなければこんなことにはならなかったんだ」
「わかったよ、悪かった、今回はオレが悪い」
礼次郎は謝りの言葉を口にしたがその顔は笑っていた。
「とっとと帰ろう。また徳川の使者が館に来ているかもしれないからな、今度はその様子をこっそり見るぞ」
先程までは切羽詰まった顔だったが、今はまた楽しげな礼次郎の顔であった。
上野国・・・現在の群馬県、上州とも言う。天正十四年の上州は、徳川家、上杉家、真田家、北条家が、上州の小大名、国人衆などを巻き込んで激しい領土争いを繰り広げていた。
小袖・・・当時の平服の一つ。