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ウルトラ・ガーネット ――花嫁の翼――  作者: 佐倉 いつき
第2章  ハイランダー
7/24

2.賽は投げられた

 シェリルの居場所はすぐに見つかった。

 客車の後ろに連結された貨車、そこは昨日シェリルがラウルに銃を向けた場所で、そこには昨日と変わらぬ姿でウルフドッグⅡが佇んでいた。

 違うのはその傍らに一人の少女が寄り添っていたことだった。


「――シェリルお嬢様」


 ラウルが名を呼ぶまで、シェリルは気付かなかった。

 驚いて何かを隠すようなそぶりを見せたが、それが何かまでラウルには分からなかった。少女の秘め事を暴く趣味などないラウルは、すぐに興味を失う。

 それよりも大事なことは、シェリルがまだここにいたということだ。彼女がその気になれば、ウルフドッグに乗って逃げ出すことも可能だったのだから。

 ラウルはほっと胸をなで下ろし、そして自分の油断を戒めるようにきゅっと口元を真一文字に締めた。


「――あ、あなたは……」

「自己紹介がまだでしたね。俺はラウル・ラッセル。ミレニア運送の運び屋です」


 ラウルは丁寧にお辞儀した。シェリルは名乗らなかったが、


「敬語は要らないわ」


 つれない態度でそう言い、すぐにそっぽを向いた。話すことなど何もない、とでも言いたげな様子だ。ラウルはそんなシェリルに近づく。


「――ウルフドッグⅡ。戦時中に作られた、軍事用プロトタイプだったマシンだ」


 そのままシェリルの横に立ち、青色に輝くマシンを仰ぎ見る。

 シェリルもまた、先ほどまでそうしていたように、再びそのボディを見上げる。今や時代遅れとなった鋭角なシルエットは、それでもそれ自身が持つ機能美を失ってはいない。シェリルもまたそのマシンに何かを感じていることは間違いないようだった。


「バルクレイター粒子の色は、その当時珍しかった青色で、じゃじゃ馬みたいに乗りにくいこのマシンに乗れるようなハイランダーはあまりいなかった。だから、この『青』はサドレアの英雄の象徴だった」

「『セント・エルモ』――嵐の夜、青白い光とともに現れる、だったかしら。……なに? これからあなたの武勇伝を聞かされるわけ?」


 ラウルはゆっくりとかぶりを振った。


「こいつはその英雄の忘れ形見なんだ」

「――え?」

「『セント・エルモ』はもういない。俺はその亡霊を追っているだけの、足のない影なのさ」


 シェリルは少し驚いたような表情を、ゆっくりとラウルからまた傷ついたマシンへと向け直した。その表情は曇っていて、ラウルは少々罪悪感を覚えた。


「乗ってみるかい?」


 ぱっと一瞬、一瞬だけだがシェリルの瞳が輝く。

 シェリルはすぐにその表情を隠したが、ラウルは余計に罪悪感を募らせた。


「べ、別に乗りたいなんて、思って……ないわ…………」


 言っている内容と表情が合っていない。シェリルはもう隠すのをあきらめたようだった。


「ま、跨がるくらいなら、……してあげてもいいけど」

「無理するなよ、乗ってみたいんだろ?」

「う、うるさい! どうやって乗ればいいのよ?」


 シェリルは顔を赤く染めて短く叫んだ。


「はいはい、じゃあまず、マシンの方を向こうか」


 シェリルはくるりと向きを変え、ラウルに背を向けた。ちょろすぎて、ラウルはため息をついた。


「それで、どうすればいいの?」


 そう尋ねる背中に、ラウルは隠し持っていた手錠を差し向けた。


「……そうだな、両手を後ろに出してみな」

「両手を……? こう?」


 少々訝しみながらも、シェリルは素直に両手を後ろに突き出した。

 はい、ご苦労さん、と心の中でつぶやきながら、ラウルはその両手に手錠をかけた。

 ガチャン。


「…………ふぇ!?」


 突然のことに状況がつかめず、シェリルは一拍おいて素っ頓狂な声を上げた。そして火がついたように騒ぎ出す。


「な、何よ、これ!」

「悪いな。……あまり自由に出歩かれても困るんだ」

「ぶ、無礼な! 外しなさい、今すぐ! さもないと……!」


 噛みつく、とでも言うつもりだったのか。言うより早くラウルめがけて突進するが、ラウルがそれを躱すと、両手自由を後ろ手に奪われたシェリルはバランスを崩してつんのめるように倒れ込んだ。

 反撃をあきらめたようだが、それでも怒りに満ちた瞳がラウルを見上げ、睨み付ける。


「……お嬢様。悪いけど、これも仕事なんだ」


 ラウルはその視線から逃げるようにウルフドッグの方へと近づいた。

 そばに置いていた工具箱を開き、おもむろにマシンの調整を始める。手持ち無沙汰でシェリルの相手を務めるのは少しばかり荷が重いと思ったからだ。


「さぁて、ウルフ。お嬢様がおとなしくなったところで整備の時間だ」

「ふ、ふんっ。気色の悪い男。……機械に話しかけるなんて、どうかしてるわ」

「その手の陰口は聞き飽きたよ。……機械は嘘をつかない。君たちよりもよっぽど素直で、信頼できる」

「人を騙しておいてよくそんなことが言えるわね」

「最初に騙したのはそっちの方だ。爆弾入りのスーツケースなんて趣味が悪い」


 マシンの最終調整をしながらラウルは言った。

 もちろん、爆弾の件にこの少女が関わっていないであろうことは分かっていた。当てつけのように言ったその台詞に、だが、思いのほかシェリルは噛みつかなかった。


「――そうね。あなたの言うとおり。謝るわ、当主に代わって。ただ、私にもあの家の考えていることが分からないの」


 シェリルは地べたに座り直し、そうつぶやいた。

 さすがは深窓の令嬢と言ったところか。愁いを帯びたその表情はいかにも高貴で、やっぱり彼女は貴族なんだと、ため息を漏らさせる。


「私は……。あの家に返されるのね」


 もう抵抗する気力も失せたのか、シェリルは悲しそうに窓の外の景色を眺めながらそうつぶやいた。

 彼女はラウルが思っていた以上に聡明で、冷静な少女だった。きっと、昨晩の出来事は悩み尽くした結果の衝動的な行動だったのだろう。

 今日の彼女は、少なくとも昨日よりは話の通じるまともな人間に戻っている。だからこそ、抵抗が無駄であることを悟ったのだろう。


「――理由も聞いてくれないのね」

「聞くだけ馬鹿みたいなもんさ。それはそれは辛く哀しい話があるんだろう。だけど君は戻らなきゃならない。それは君が、――君がシェリル・シャーロットだからさ」

「違う、私は――」

「同じさ。少なくとも俺たちにとっては、君が()()()()()()()()ね」


 損な役回りだ、とラウルは思った。

 きっとこうなることを予期して二人ともさっさと出て行ってしまったのだろう。この手の話は聞くだけで気持ちを凹ませる。その上彼女の願いが叶わないことは先刻決定したばかりだ。どうあがいても叶わない夢物語を、どうして聞けようか。


「本当に逃げ出したいのなら()()()ウルフに乗ってどこか遠くまで飛んでいくべきだったんだ。俺たちなんかに頼らずにね」

「『どこへだって連れて行ってやる』って、そう言ったのはあなたの方よ」

「勘弁してくれ」とラウルはかぶりを振った。

「君だって知ってるだろう。この世は身分の高い貴族ほど強くて、歳喰ったじいさんほど偉いんだ。そういう風にできてる。俺より君は偉いが、君より君のお祖父様の方が偉いんだ」

「でも………!」

「君も貴族だ。それくらいのことは分か――」

「私はッ!」と、シェリルは声を荒らげた。

「私は貴族なんかじゃない!」


 思わずラウルは口をつぐんだ。


「サドレアで生まれて、スラムに育った。まともな服なんて着たこともなかったし、ろくなものを食べられなかった。助けてくれる大人なんていなくて、ずっと、ずっとひとりぼっちだった……!」


 声を荒らげ、彼女は一度にそれだけのセリフを吐き出した。

 ラウルが驚いたのは、その瞳からぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちたからだ。

 彼女が酒を飲める人間ならコップに半分のリキュールをホットミルクで割って差し出していただろう。どんなに目を血走らせ正体をなくすほど混乱している人間でもそいつを三杯目まで飲み干す前にいつもの平静を取り戻す。

 けれど彼女はどうやら酒を好まないらしく、更に言えばこの貨車では温めた牛乳を出してくれる気の利いたサービスはやっていない。


「『私を攫って』――覚えてるかい、君は昨日俺に向かってそう言った」


 牛乳を温める代わりに、ラウルはそっとそう尋ねた。最大限のサービスのつもりで。


「どこへ行きたかった? ……それとも、誰かに会いたかったのかい、赤ずきんちゃん」

「わ、私は……赤ずきんじゃない」

「そして、貴族でもない。……参ったね。それじゃ君は何者だ?」


 半ばやけくそでおどけて見せ、ラウルはシェリルに向き直った。


「さっきは悪かったよ。聞かせてくれないか、君の話を。………ああ、いやその前に一言だけ良いかな。――()()()()()()()()()()

「……優しいのね、色男(オオカミ)さん」


 決まり悪そうにそっぽを向くラウルに、シェリルは――それはきっと強がりだったのだろうけれど――小馬鹿にしたように笑って見せた。

 想像したよりずっと、シェリルはしたたかな女だったようだ。指先で涙を払うと、ゆっくりと自分の力で理性と平静を取り戻す。


「ごめんなさい」と一言。そしてゆっくりと話し始めた。

「――幼馴染みがいたの。私と同じくらいの歳の、マキナの男の子」

「それは、――君がまだ()()()()()()()()()()()?」


 こくり、とうなずき、シェリルは言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。


「私は――本当はシャーロット家の人間じゃない。私の生まれはサドレアのスラム街。私と彼はそこに生まれた。いいえ、産み捨てられたの。物心ついた頃から両親と呼べる人なんていなくて、幼い私を養っていた奇特な里親もスラム街では良くある喧嘩騒ぎに巻き込まれてあっけなく死んだ。ずっとひとりぼっちだった私を見つけてくれたのが、彼だった」


『スラム街』に『孤児』。それは暗い過去の話をするときにいつだって枕詞みたいにセットになって使われる。それが悲劇だってことを、話す前から分からせるつまらない単語だ。

 そしてもれなく彼女の唇を割って出たのも、その類の不幸話だった。


「襲って、盗んで、逃げた。食べるために奪い、身を守るために拳を振るうの。それが当たり前で、間違っているのはむしろこの世界の方で、……きっと、一人じゃ生きていくことすらできなかった」


 ラウルは作業の手を一度止め、窓の外に視線を移した。

 空にはまだ、緋龍ドラゴ・ガーネットの姿。スラム街から見上げたって同じ空が見えるだろう。だけど同じなのはそれだけだ。それ自体が掃きだめのような場所、それがスラム街という場所だ。

 襲って、盗んで、逃げる。

 それができない者から死んでいく。


「………だけど、一人じゃなかった」そうラウルはつぶやいた。


 そうでなければ、彼女の言う通り戦禍の爪痕濃いサドレアのスラム街で、幼い少女が一人で生きてゆけるはずがない。敵だらけの世の中で恐らくきっと、彼女には味方がいたのだ。

 力なく、シェリルはうなずいた。


「あなたによく似た黒い髪、サドレアの海のような碧い瞳、マキナのくせにあまり目立たない八重歯。翼は海の底のように暗い闇の色。黒猫みたいだねって、笑った」


 当時のことを思い出すように、シェリルは力なく笑みをこぼした。


「私をかばっていつも身体は傷だらけで、マキナの生体金属の傷はすぐに癒えてしまうけど、左の頬に刻まれた傷痕だけはいつまでも癒えなくて。――()()()という名前は彼がくれたの。私たちは揃って名前もなくて、だから覚え立ての言葉をお互いにプレゼントした。きっと、私がいつも夜空ばかり見ていたから」


 うなずき、シェリルは――かつて(ステラ)という名だった少女は――言った。


「彼の名前はメル。一人の時はいつも(メル)を眺めていたから。だけど――」

「――死んだ?」


 できるだけ優しく、ラウルは尋ねた。シェリルは首を振ったが、それでも表情は晴れないままだった。


「ううん。……でも、離ればなれになった。それから、私はシャーロット家の一人娘に仕立て上げられた。五年も前の話よ、大きな事故があったのを知ってる? サドレアで起きた大型飛行船の墜落事故」

「……その事故を知らないレドリード帝国人はいない」


 飲みかけたグラスの手を止め、ラウルは少し驚いてシェリルの方を振り返った。


「確か――そう、あれは帝国の威信をかけた飛行船の飛行パーティだった。ハイランダーでなくとも空を飛べる時代が来たと、新聞社も大騒ぎだった。まさか事故で墜落してもっと大きな騒ぎになるとは誰も思わなかったけど……」

「その飛行船にはたくさんの来賓客が乗っていたわ。貴族、軍人、政府の首脳まで。だけど、そのすべてが死んだ」

「い、いや待て。その事故には生き残りがいたはずだ。ええと、確か――」


 アルコールに冒された脳みそがろくすっぽ仕事をしてくれないせいで記憶の糸を引っ張り出すのに随分と時間がかかった。そうでなくとも、五年も前の話だ。もつれた糸をほぐすように記憶の断片をつなぎ合わせる。

 そしてようやく思い出した。


「そうだ、思い出した。あの時の事故で奇跡的に一人だけ生還者がいた。彼女の名は、確か――シェリル・シャーロット。――そう、君だ。…………いや、ええと、()()()()()()()?」

「――詳しいのね」


 シェリルは、イエスともノーとも答えなかった。イエスでもノーでもない、というのが彼女の答えだったようだ。


「あの時、生還者なんて誰もいなかった。誰より近くで私が見ていたんだもの。鮮明に覚えてる、真っ赤に燃える飛行船も、助けを求める乗客の叫び声も。悪夢みたいに何度も、何度も思い出すの。でもね、みんな死んだ。あの事故で生き残れるヒューマンなんていない。もちろんシェリル・シャーロットも死んだわ。両親もろともね」

「それじゃ、君はいったい――」

「言ったでしょう? ちょうどそこに居合わせただけの、ただの戦争孤児よ。――そう、あなたと同じ、ハイランダーだってこと以外に何も持ち合わせちゃいない、ただの女の子」


 そう言ったシェリルの表情には自嘲の笑みが浮かぶ。


「まあ、本当にただの女の子だったらこんな事にはならなかったのかも知れないけどね」

「――そうか、君が、ハイランダーだったから」

「私が空を飛んでいるところを誰かが見たのね。それで、お祖父様は私を孫娘の代わりにすることに決めた」


 貴族とは、歴史的にはハイランダーの血筋にのみ与えられた身分だった。長い年月を経て、現在でもハイランダーであることがステータスであるという考え方がその名残として残っている。親マキナ派であるシャーロット家もまた例外ではない。


『二度と空は飛ばない』


 そう言った彼女の言葉の意味を、ラウルはようやく理解した。


「一日だけで良かった。五年も前の約束だけど、……きっと迎えに来るって、彼は、メルはそう言ってくれた」

「……君たちは、バディだったのか?」


 マキナと契約を交わせるのはハイランダーだけだ。彼女の話を聞く限り、二人がバディでないというのはむしろ不自然なことのように思えた。

 けれど、彼女は首を振って否定した。愁いの表情を一層深く刻み込んで。


「どうして?」


 何かを言おうとしたのだろう、だが一度その唇は閉じかけ、


「………言ったってきっと信じないわ」


 もう一度開いたときにはもう、その()()は彼女の胸の中にしまわれていた。

 ラウルは肩をすくめた。知りたがらなければ怒るくせに、知ろうとすれば隠す。何とも扱いにくい()()()だ。


「でもね、その代わり。私たちは約束したの。『結婚しよう』って。『今から五回目の私の誕生日、二人の秘密基地で、二人だけで結婚式を挙げよう』って」

「――結婚だって!?」


 思わずラウルは酒を吹き出した。シェリルには申し訳ないが、それはコウノトリが子供を運んでくるのと同じくらいとんちんかんな話だ。シェリルもそれを承知で肩をすくめた。


「笑っちゃうでしょ? 私たちはヒューマンとマキナなのに。でもね、それでも私は信じていたの。――ううん、今でも信じてる。彼は言ったわ。『必ず迎えに行く』って」


 苛烈で厳しい生活を乗り越えるためには十分すぎる心の支えだったのだろう。その約束のためなら、きっとどんな苦痛にも飢えにも耐えられた。それが決して叶わぬ願いであるとは、きっと夢にも思わなかったに違いない。

 それくらいに二人は幼く、無知だったのだ。


「つまり、その約束の日って言うのが――」


 ようやくすべてを理解したらしいラウルの言葉に、シェリルもまたうなずいて答えた。


降臨祭(クリスマス)の日が私たちの誕生日。そう二人で決めたの。そして明後日が、五回目の誕生日」

「……皮肉な話だ。君はその日に別の男と、本当に結婚する」


 シェリルは何気なく手を組み直した。婚約指輪を隠したのだと、ラウルにはすぐ分かった。


「この列車に忍び込んだのも、その幼馴染みとの約束を守るため?」


 ラウルの問いに、少し迷うような仕草の後、シェリルはこくんとうなずく。


「約束の場所は、サドレアの――、海の見える共同墓地。シーフラワーの咲くあの場所に、あそこに行くだけで良かった。怪盗ブーケは私が雇ったの。結婚式を先延ばしにするために。………だけど、だめだった」

「降臨祭は特別な日だ。特に親マキナ派にとっては。……その日に結婚式が行われるからこそ、意味があるんだ」


 ――そう、お互いの想いや願いなど関係なしに。


 見えない何かを守るために声を押し殺し、他人の権力のために身を捧げる。その血を継ぎ、力を手にする代償に。それが、貴族。

 けれど、彼女は――。


「でも、あの人(キディ)の言う通り。こんなの、どこにでも転がってる、どうってことない悲劇の数あるひとつ」


 ――彼女は、苛酷なスラムに生まれ育ちながら、貴族の足かせだけを強いられた。


「なんだよ。――趣味が悪いぜ、寝ているふりなんて……」


 ラウルは舌打ちした。

 キディやレオーネとの会話は彼女の眠る枕元まで届いていたということらしい。つまりはそこで出された結論についても承知しており、ラウルの目を盗んで格納庫にやってきたのはウルフドッグを使って逃げる算段を立てていたということだろうか。

 正直なところ、ラウルにはシェリルの考えていることがさっぱり分からなかった。

 シェリルはただずっと空を見上げる。そこにはまだドラゴンが悠然と泳いでいて、シェリルはそれを眩しそうに睨んでいた。羨望か、憎悪か、それともただ本当に眩しかっただけなのか。それを知るためには、ラウルはあまりに彼女のことを知らなすぎた。


『神がいた。神は大地を興し、水で潤した。

 龍がいた。龍は風を起こし、空に炎をともした。

 大地は空と出会う。世界は、そこに生まれた――』


 不意に、シェリルはオペラ歌手がそうするように胸に手を当て、詠うようにそらんじた。


「知ってる? 創世記の一節。この世界が創られた日のお話」


 ラウルが答えられずにいると、彼女は続く一節を口ずさむ。


『神は自らを模してグラウンダーを作り、

 龍は自らを模してドラゴノイドを作った』


「――()()()()()()のことなら、俺も知ってる」


 ヒューマンがハイランダーとグラウンダーに分けられるように、マキナもまた大きく分けて二つの種類の人間がいる。二つとは即ち、ドラゴノイドとアンジェロイド。


「古い言葉だ。より(ドラゴン)に近しい存在だった頃のマキナ。風を起こし、水を巻き、炎を吐き、地を揺るがす。その咆哮一つで百獣をひれ伏させる。今はもういなくなってしまった、それが、ドラゴノイド」

「いるわ、ドラゴノイドの血を引くマキナは。今でも」

「――そういや君は親マキナ派の人間だったな」


 遙か昔。まだアンジェロイドのいなかった時代。

 ドラゴノイドとの契約は『血の契約』と呼ばれ、恐れられていた。ドラゴノイドの契約者(バディ)にはドラゴンの力が与えられ、その代償に命を差し出さねばならないからだ。機が熟したとき、ドラゴノイドは契約者(バディ)を喰らい、ドラゴンへと『孵化』する。

 レドリード帝国に住む者なら子供でも知っている、『おとぎ話』だ。そう信じているのは敬虔な信徒たる親マキナ派の人間くらいのもので。

 彼女の詠う創世記とやらも、そんなおとぎ話の一節に過ぎない。


『紅き龍は空を焼き、地を奔る。

 青き月の灯りを喰らい、そして――』


 そこで一度、シェリルは言葉を詰まらせた。

 大きく深呼吸をし、そして次に彼女の口から出た言葉に、今度はラウルが口を詰まらせる番だった。


「彼は――、ドラゴノイドだったの」


 沈黙はラウルのせいだ。けれどラウルの口は何かを言おうと開けられたまま、何を言うでもなく開きっぱなしになっていた。


「……………ほら、やっぱり信じてない」


 シェリルは笑った。寂しそうに、哀しそうに。


「……おとぎ話だ」

「この世界が、――おとぎ話でないと誰に言えるの?」


 そう嘯くシェリルの瞳は、まるで夢の中にでもいるみたいに虚空を見定めた。


「あそこに、自由はあるのかしら……」


 空に差し伸べた右手の指の隙間から見える緋龍に、問いかけるようにシェリルはつぶやく。

 なるほど、地上に囚われている人間たちと同じく彼らもまた空に囚われた囚人なのかもしれない。それはまさしくシェリル・シャーロットという少女がそうであるように。


「私は――」

「分かった。……もういい、十分だ」


 シェリルの喋るのを妨げるように、ラウルは言った。


『よすんだ、ラウル』


 そう、もう一人の自分が言う。


『お前は、彼女にかつての自分を見ているだけだ』


 いけないことか?

 空に手を伸ばす彼女に、空から手を差し伸べることが。


『悪い癖だ。レイチェルのことを忘れたのか? お前は空を飛ぶしか能のない、ただの運び屋で、お尋ね者で、空賊だ。お前に誰かを救うことなんてできないし、お前は人を不幸にすることしかできない、偽善者だ』


 ……その通りだ。

 幼い頃に空を求めた。その手を取ってくれたのはサドレアの英雄だった。それからずっと一緒にいすぎて、自分のことまで英雄の一員になれたような錯覚に陥っていた。

 英雄はもういない。

 残ったのは、『セント・エルモ』という亡霊の名前だけ。

 どれだけ空を飛ぼうと、それは全て真似事に過ぎない。

 ラウルは英雄ではなかった。


『セント・エルモの火は墜ちた。もう、五年も前にね』

「それでも――」


 ふるふると首を振り、誰にでもなく、ため息をつく。


「…………信じるよ」

「え――?」


 きょとん、とシェリルの大きな瞳がひときわ大きく見開かれた。


「君を信じる。だから、――そうだな、まずはここから逃げ出そう」

「どうして……?」

「思い出したよ。俺はもう、()()()()()()()()()()()()


 降参でもするようにラウルは両手を挙げた。酒と涙に弱いのは、今に始まった話ではない。


「気が変わったのさ。心配は要らない、どこへだって完璧に運んでやる。待ち人にだって会わせてやるさ。――それとも、酔っぱらいは()()()()()()?」


 見開かれた黒い瞳の光が、わずかにうるりと揺らいだ。それをぐっとこらえ、食いしばった口もとを開きシェリルは――。


 ――何かを言おうとした。けれどそれは叶わなかった。

 彼女の言葉を遮ったのは一発の銃声。

 先頭を走る機関車で、戦いののろしはすでに上がっていた。

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