1.英雄
「面倒事はごめんじゃ。依頼されたんはウェディングドレスを運ぶことだけじゃろう? これ以上お嬢様のわがままに付き合う必要はない」
ちょうど朝日が顔を出す頃に始まった緊急会議は、その太陽が完全に姿を現す前に決着した。レオーネらしい正論に、今回ばかりはキディも賛同しうなずく。
「だな。サドレアに着いたら荷物と一緒に引き取っていただこう。……いいな、ラウル」
「だけど――」
「よくある話さ、ラウル。……そいつが悲劇だって言うなら、この世の九割九分は悲劇でできてることになる」
諭すように付け加えると、歯切れの悪いラウルが何かを言い返す前に、そそくさとキディは部屋を出た。キディの後を追い、レオーネも立ち上がる。
「いいか。どんな理由があるか分からんが、ワシらにゃ何もできん。お嬢様がまた変な気を起こさんよう見張っとけ」
そう言い残すとラウルを部屋に置いてレオーネも機関室へと向かった。
当のお嬢様はというと、まだ眠っている。この車両で一番上等な(それでもお屋敷のベッドには到底及ばない)毛布の上ですやすやと寝息を立てるシェリルは、あれからずっと眼を覚まさない。
「……のんきなもんだ」
安らかな寝顔から目を逸らし、ラウルは物置と化している古ぼけたタンスの扉を開き、中からガラスのボトルを取りだした。中には透明な液体がまだ半分ほど残っている。いつでも飲めるようどこかしこに隠している、ラウルの常備薬だ。
アルコールたっぷりのそれをコップになみなみ注ぐと、ラウルは部屋の窓を少しだけ開けた。
ひんやりとした風が少しと騒音が幾ばくか混ざり合いながら部屋の中へ流れ込む。朝日はすでに県境の峡谷を明るく照らしていて、それを機関車の煙が隠す。
その煙の向こうで、何かが飛んでいた。
地上に大きな影が落ち、ほんの一瞬あたりが真っ暗になった。
再び姿を現した太陽に目をすぼめ、もう一度見上げると、雲間から差し込む日差しを背に悠然と空を泳ぐ巨体。太陽をすっぽり隠してしまうほどの翼、爬虫類を連想させる鱗に覆われた長い尻尾。鳥のように大きく羽ばたきゆっくりと飛ぶ。が、鳥にしては大きすぎる。
ラウルは、まぶしそうに目をすぼめてその姿を睨み付けた。
赤い鱗に、緋色の眼光。燃えるように赤い光の鱗粉を両翼からまき散らしながら飛翔するそのドラゴンの名は緋龍、『ドラゴ・ガーネット』。数多く確認されているドラゴンの中でも、最も凶暴とされている種の一つ。
『ガーネット』というキディの字の由来でもある。
もっとも、ドラゴンがラウルたち人間を襲うことはない。凶暴だ、などと言っているのは学者連中だけで、本当のところは誰にも分からない。
何故なら彼らは目には見えても触ることはできない異次元の住人だからだ。どれだけ高く飛ぼうとも、彼らが住んでいる場所にはたどり着けない。『人の手の届かぬ地』と学者たちは呼んでいる。
緋龍は陽光に姿を隠し、ラウルはまぶしくて目を閉じた。
暖かい日差しが意識を奪う。思えばここのところずっと、ろくに休んでいない。周期的に揺れるディーノの車体が疲れた身体には堪える。空きっ腹にアルコールを注ぎ込んだのも良くなかった。
ラウルが深い眠りに落ちるのに、数分とかからなかった。
***
――知っているよ。
世界の半分は、空でできているんだ。
だから、僕らに与えられているのは残りの半分だけ。……それが不思議でならなかった、それは今からずっと、ずっと昔のことだ。
『神がいた。神は大地を興し、水で潤した。
龍がいた。龍は風を起こし、空に炎をともした。
大地は空と出会う。世界は、そこに生まれた――』
創世記にそう語られるように、地には水が、空には風が満ち、そうやって世界とかいうモノはできあがっているらしかった。少なくともラウルが住んでいたその街を見る限り、それに異論を唱える余地はない。
街の名はサドレア。
レドリード帝国の南東部に位置する港町。潮風が香る、澄んだ空の街。
戦争が始まるより前は風光明媚な観光地だったと聞くが、戦争のための船や機関車が行き来するようになったサドレアにその面影はなかった。
物心つく頃には始まっていたその戦争の経緯がいったいどのようなものだったのか、幼いラウルには知るよしもなかったけれど、どうやらこの街とこの街の住民は帝国から見放されたのだろうということは、場末の酒場でくだを巻く大人たちの言動からして明らかだった。
敵国との緩衝地帯となっていたこの街は、両国間の駆け引きにさんざん利用されたあげく、戦後誰の手の物になることもなく宙に浮いてしまったらしい。戦争で疲弊した帝国にサドレアを養う力はなく、敵国からしても侵攻することに旨みのないこの痩せた土地は両国間の境界線に曖昧な緩衝地帯をこしらえて孤立した。
本国の支援を失ったサドレアは急速に荒廃し、職を失った人々は路頭に迷った。
こんな時、いの一番にとばっちりを食らうのはラウルたちのような身寄りを持たない戦争孤児だ。食料も金も住処も、社会的に地位の高い者から優先的にあてがわれる。戦後の荒れた社会に扶助や福祉という言葉はない。あるのは弱肉強食、喰わない者は死んでゆく。ちっぽけな脳みそで、それだけのことは理解していた。
その夜も、一ヶ月は洗っていない身体にいつから着ているかも分からないぼろ雑巾のような衣服を羽織り、ラウルの足は街にいくつかある酒場の一つに向かう。
『俺たちは不幸だ』
『幸福な奴らには、分かりっこないのさ』
そう言って大人たちが酒を飲む傍らで、無造作にごみ箱に放られた食べ残しのパンを一切れ、盗むように拾い逃げるようにその場を去った。同じ事をして盗人呼ばわりをされ、水平二連散弾銃を片手に追われたことがあるからだ。この街ではごみ箱に入っているものさえ誰かの所有物で、腹を空かせた子供がそれを拾うことさえ許されないらしかった。
誰もが皆、不幸をカタに罵倒と暴力を正当化する。そんな世界で、ラウルは、大人たちと違って幸福な人というものを見たことがない。だから自分がどれだけ不幸なのかを測る定規を持たなかった。きっと自分もまた不幸な人間なのだろう、何となくそんな風に理解して生きてきた。
ならば幸福とは何なのだろう。幸せとは、いったいどんな気分なのだろう。
酒場界隈の雑踏から遠く離れ、ラウルはやっとそこで三日ぶりの食料を口にした。どこかかびたような匂いも、今は空腹というスパイスの前に隠し味にもならない。勢い込んで喰らった三日分の食料が残らず胃袋に収まったちょうどその時、轟音とともに頭上を何かが通り過ぎた。
鋼鉄の両翼から光を放ち飛び去っていった姿は、その翼だけを除けば僕らと大差ないカタチをしている。彼らはマキナ。翼を持って生まれてきた飛翔人種だ。光塵を薄く残してその影が見えなくなる頃合いを見計らって、ぐぅ、と腹が鳴る。
欲求不満な食欲をなだめすかせるように、ラウルは仰向けに寝転がった。
――不思議だった。
自分が空を飛べないことが。
空への想いは望郷にも似て、いつだって空は彼の心を惹きつけるのに、どうして自分は飛べないのだろうか。ずっと、ずっと不思議でならなかった。
いつからだろう?
それが不思議なことではなくなったのは。
地を這い空を見上げるのが当然のことになったのは。
閉じていた目を開けると、そこにはまばゆいほどの星々。煌々と輝き、天蓋をほんのりと明るく照らし出す。
この街にただ一つの灯台がある展望台、そこはラウルのお気に入りの場所だった。
遙か遠くに光を送る灯台も、その足元は暗く、静かで心が落ち着く。心地良い潮騒も、満天の星空も、この世界が呆れるほど広いのだということさえ忘れさせてくれる。
――もしかしたら、今、僕は幸せなのかもしれない。
今はこの星空を、自分だけのもののように感じる。
いや、きっとそうなのだ。この空は、こうしてラウルの瞳に映っている今だけは誰のものでもない、彼自身のもの。『世界の半分』は彼の手に落ちたのだ。願わくば、この空を自由に飛び回れることができれば――。
それこそ幸せと呼んでも良いのではなかろうか。
青い月を見上げ、そんな風に幼いラウルはそっと『幸せ』を探した。それが決して手に入らないものだという事実から、今だけは目をそらして。
『神は自らを模してグラウンダーを作り、
龍は自らを模してドラゴノイドを作った』
ふと、頭をよぎったのはこの街に古くから伝わる伝承。
地上人は天を仰ぎ、天上人は地を見下ろす――。
古きサドレアの神話を教えてくれたのは、たぶんラウルの母だった人だ。それ以外の記憶を彼の中に残さず、逝ってしまった。戦場に行ったきり帰ってこない父の身を案じながら、彼女は病に伏して目を覚まさなかった。
母はたぶん、優しいひとだった。
「どうして僕は空を飛べないの?」
神と龍の神話を聞くたびにそう尋ねる彼に、
「それはあなたがまだ子供だからよ」と、答えてくれた。
それを聞いてラウルは嬉しかった。大きくなったらこの大空を自由に飛び回るんだと、恥ずかしげもなく叫びはしゃいでいた。
だけど本当は、幼いラウルも気付いていた。
翼を持って生まれたマキナとは違い、同じ人間でも異人種であり翼を持たない彼らヒューマンには空を飛ぶ術などないということに。誰に教えられるでもなく、理解していた。
ただ、それでもなお彼は、彼の心は、空を飛べることを疑わなかった。彼の心の、本能と呼ばれる部分に一番近い場所でそれはもう疑う余地のない事実であり、それ故に彼はいつだって心のどこかで空を飛べないことに疑問を持ち続けてきた。
翼こそ持ってはいないが空は飛べるのだと。この両の手は空に差し伸べるためにあるのではなく、風を掴むためにあるのだと。
諦めながら、ラウルは、信じていた。
『紅き龍は空を焼き、地を奔る。
青き月の灯りを喰らい、そして、
天に堕ちる』
――赤い龍。
悠然と空を泳ぐ。
灯台の灯に一瞬、その姿が照らし出された。ほんの一刹那のことだったけれど、見間違いなどではない。暗闇でも目が通るのは、ラウルの数少ない得手だ。反射的に起き上がり石造りの手すりから身を乗り出すと、ラウルは手を伸ばした。
その手の先で、再び赤い姿が光の下にあらわになった。高台から落ちそうなくらいに身体を投げ出し、関節が軋むほどに空を求める。
ラウルは、祈った。
――僕を、
僕を連れて行ってくれ。そっちの、神話の世界へ。
目一杯伸ばした手を、だけどラウルはすぐに下ろした。腕がじんと痺れ、諦めることを知った自分に失望する。じん、と今度は胸が熱くなり、それはたちまち涙腺を襲った。
――刹那、空に青い光が瞬く。
彗星のように現れたその光は徐々にその姿を大きくし、月ほどの大きさになる頃には遠く轟音の残響が鼓膜を揺らした。
突如風のように現れたその機体は、人からウィンド・ビークルと呼ばれているものだ。無知なラウルにもそれくらいは分かった。
ツーホイール・ビークルに似た形状だが、その背には機械仕掛けの二枚の翼。青い光粒を撒き散らしながら重い機体を浮かすだけの浮力を生み出している。天馬に乗るように、一人の男が空飛ぶマシンを操り目前に現れた。
「――『セント・エルモ』」
ラウルは無意識にここサドレアの英雄の名を口にしていた。
戦災と混沌の渦に巻き込まれたサドレアに神が残したただ一つの良心。帝国から見放され、海賊と空賊の脅威にさらされたサドレアを守り続ける義賊を、街の大人たちはそう呼んで酒の肴にしていた。
その英雄が、ラウルの目の前で問いかけた。
「空が欲しいのかい?」
男はライディング・ギアのゴーグルを額まで上げ、エンジン音にかき消されないよう大きな声を上げた。
「乗せてやるよ、ボーイ。地上は退屈だろう?」
英雄の名はゲイル。ゲイル・ラッセル・デ・ラ・シエロ。
空のラッセルは手を差し伸べた。見下ろすでも、飛び去るでもなく。
――ラウルは、その手を取った。
ゲイルはにやりと笑う。その瞳はすでに空を見ている。
「名前は?」
「ラウル」と、ラウルは答えた。
「……ただのラウル」
「――そうか」
ファミリー・ネームはとうに無くした。
今のサドレアじゃそう珍しい話じゃない。その意味をすぐに察し、だがそれをおくびにも出さずに空の英雄はもう一度ラウルの瞳を見つめ返した。
「今日からお前はラウル・ラッセル、俺の息子だ」
「え……?」
「あだ名は……、そうだな、『ラファール・ラッセル』――俺の息子にぴったりだ」
矢継ぎ早にゲイルはつらつらと喋る。おしゃべりな男だ。
ラウルは笑った。ゲイルが笑ったからだ。
――僕は幸せだ。
ゲイルの駆るウィンド・ビークルの後部席に跨り、ラウルはその『幸せ』を離さないようにぎゅっと握った。
「さあ、挨拶をしな。別れの挨拶だ。もう二度と、こんな退屈な世界に用はない!」
***
ぶるるっと身震いをひとつ。窓から入る風が少し肌寒くなってきた。
いつの間にか眠っていたらしい。それに、懐かしい夢を見ていたようだ。
おかしな話だ。夢の中の幼い自分は、笑っていた気がする。今じゃ仮面みたいに表情の変わらない自分が、だ。
腕枕にしていた腕に、よだれとは別に濡れた跡が残っており、ラウルはそっと一緒に作業着で拭った。
どうしてあんな昔の夢を見たのだろう。
……いや、理由は分かっている。
シェリル・シャーロット、彼女に出会ってしまったからだ。彼女は、ラウルに似ている。言葉にできるほど明確な理由はないが、何と言って取り繕うと、ラウルは彼女に惹かれていた。
「………お嬢様?」
はっと、ラウルは異変に気がついた。
シェリルがいない。
シェリルが眠っていたはずのベッドは、毛布がはぐり取られ、そこに誰かがいた余韻だけを残し、もぬけの殻となっていた。布団にはまだぬくもりが微かに残っている。
ラウルは慌てて客室を飛び出した。