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ウルトラ・ガーネット ――花嫁の翼――  作者: 佐倉 いつき
第1章  セント・エルモ
2/24

1.空飛ぶポストマン

『セント・エルモの火』


 船のマスト、教会の尖塔など、とがった物の尖端に起こるコロナ放電。また、それに伴い発生する青白い発光現象。雷雲の作用で大気中に生ずる強い電場によって起こる。

 セント・エルモは船乗りの守護聖人の名。


王立レドラスティーク大学 民俗学研究院 監修

『大レドリード語学事典』より抜粋


***


『生モノから巨大コンテナまで、何でも運びます。愛と信頼のミレニア運送。ご用命の際はカディーナ商業地区D-23ブースの赤いポストまで』


 ポップなイラストとともにそう殴り書きされたうさんくさい張り紙はここ、カフェ&バー『ジュエル』の掲示板でも異様な存在感を放っていた。

 商業都市カディーナで唯一の繁華街、ベティーユ区。石畳と路面電車の線路に面した一等地に張り出したオープンテラスは、『ジュエル』をはじめとするフードコートの利用客が思い思いに時間を過ごす憩いの場でもある。


 ――12月22日。

 今日は休日だ。パラソル付きのテーブルには多くの客が軽食を並べ、あるいは小説を開いて、時に腕枕にうつぶせて、心地良い春の風を浴びる。

 あるヒューマンの女は娘の頬に付いたホットドックのケチャップをハンカチで拭い、あるマキナの男は買い込んだ生体金属製の装備(ふく)を眺めては悦に入っている。

 二週間ぶりに帰ってきた故郷の街が活気に溢れていることは、ガンマにとっても嬉しいことだった。お世辞にも都会とは呼べない小さな街だが、休日の繁華街に集まる人だかりを見ればこの街に詰まったエネルギーの大きさを肌に感じることができる。何よりここはガンマの故郷で、ガンマの所属するミレニア運送のホームタウン。この街の空気ほど彼女をほっとさせてくれるものは他にない。


 ……だというのに。

 そんな中、浮かない顔で昼間から酒瓶を傾けるヒゲ面の男がひとり。

 針金のようなぼさぼさの金髪に太い眉、その下にはぎろりと鋭い瞳が覗き、無精ヒゲに覆われた口元にはマキナの証でもある鋭い八重歯が牙のように突き出ている。だがマキナの象徴である翼は左翼だけしかなく、もう一方の翼はその残骸だけを背中に残して根元から千切れていた。がたいの良い身体に刻まれた傷はそれだけにとどまらず、見た目には強面で恐ろしげな男なのだが、今はそのなりをすっかり潜め、身体に似合わず小さなコップを憂鬱そうに口元へ運んでいる。


「なぁにが『正義の味方』よ! ……ねぇ、聞いてるの、レオーネ!」


 男の名を呼んで、ガンマを挟んで向かい側に座っていた女が半ば叫ぶように唾を飛ばした。


「お、おお、聞いとるわ。お前がまた新しい男に振られたっちゅうくだりからのォ……」


 レオーネは絡まれていた。彼の数倍のペースで――それもやっぱり昼間から――酒をあおり、くだを巻く変な女に。彼女の名は、確かレイチェルと言ったか。彼女の身に付けている制服はどう見てもこの店の従業員のものだったが、今の彼女はどうやら客側のようだ。それも、かなりたちの悪いたぐいの、だ。


 恋多き女、レイチェル。


 ジュエルの看板娘でもある彼女のことを知らない者は少なくないが、この酒癖の悪さもまた醜聞に絶えない。いや、むしろ仕事放棄をして自棄酒を煽る彼女に絡まれたいがためだけにジュエルに通い詰める物好きまでいるのだが、もちろんレオーネはそちら方面の趣味を持たないごく健全な酒飲みである。彼女のように恋に破れる度に人様に迷惑をかけるような飲み方は決してしない。それが彼の流儀だ。であるのだが、今回ばかりはその流儀を破ってでも改めて飲み直したい気分に駆られていた。


「……だからね、私は言ってやったのよぉ。空にでも海にでも飛んで行けばいい、って!」


 半刻前から代わり映えのしない問答がガンマの頭上を行き来している。

 失恋話を始めた彼女は、いつも決まって初恋の男の話を始める。貢がせるだけ貢がせておいてさっさと彼女を振ってしまった悪い男の話だ。


 月に一度は酒の肴に罵られる可哀想なその男は、レイチェルが言うにはガンマやレオーネと同種の人間――要するに、到底真っ当とは言い難い仕事で飯を喰らうタイプの人間なのだとか。『行商人』に、『秘密諜報員』、『産業スパイ』に、『ボディガード』、挙げ句の果てに世界を守る『正義の味方』、とは、レイチェルがその男から聞き出した職業らしいのだが、要するに彼の本当の職業は詐欺師だったのではないかとガンマは踏んでいる。


 そして男は銃だけ持って彼女の前から消えた。どうやら真っ当でない仕事であったことだけは確かなようだ。恋多き女、とそんなあだ名が付けられたのはその男と別れてからのことらしいが、もしも本当ならその男、ひとりの女の人生をまるっきり変えてしまったことになる。

 まったく、罪な男だ。


「それでさぁ、別れ際にあいつ、なんて言ったと思う?」


 その話を聞くのはたぶんもう二度や三度ではない。知っているに決まっているが、レオーネは賢明にもそうは答えなかった。


「『妹に会いに行く』だってよ! 妹がいるなんて、一言も言わなかったくせにぃ!」

「……正義の味方にしちゃァ、個人的な理由じゃのォ……」

「そもそも正義の味方って何よ。こんな世界、守ってどうするの? 貴族がふんぞり返って組んだ足で転がして動かしてるような世界よ」

「今度は貴族様の愚痴か」


 レオーネは投げやりに答えて、いつもより不味い酒を喉に流し込む。もはや論点がずれてる、と指摘することすら億劫そうだ。


「あなたも悔しくないの!? 口を開けばマキナを悪者にして。争いや強盗が減らないのは保安隊が無能だからじゃない。そんなことまで屁理屈こねてマキナのせいにしてさぁ! まともな仕事にもつけさせやしない。汚れ仕事ばかりマキナに押しつけて、マキナがいなくなれば困るのはあいつらの方なのに!」


 両雄並び立つ、ヒューマンとマキナ。だがその両者の身分に大きな乖離があることは、残念ながら事実であった。


 遙かなる昔、文明を持たないマキナが地上に降り立ったとき、そこにはすでにヒューマンの社会があった。マキナはその社会に加わることこそすれ、その社会を動かそうとはしなかった。いや、ヒューマンがそうさせなかったと言った方が正しいか。文明とともに生まれた貴族と呼ばれる一握りの存在が、マキナの参画を許さなかったのだ。


 従ってこの世界は貴族優位の身分社会であると同時にヒューマン優位の格差社会。この反マキナ社会にマキナとして生まれてきた者はただそれだけの理由で最下層か、それより一つか二つ上の身分とされ、有無を言わさず労働階級たらしめられた。だが、


「……貴族がみな反マキナってわけじゃない」

「なによぉ、あなた。マキナのくせして貴族の肩持つのぉ?」

「お前だってヒューマンのくせにマキナの肩持っとるじゃろうが…」

「貴族が嫌いなだけよ! あの人を奪った貴族が……。あの人を――」


 不意にうるりとレイチェルの瞳が揺れる。

 しまった、と心の声が聞こえてきそうな、渋い表情。彫りの深いヒゲ面が、これ以上ないほどに落胆に沈んだ。レイチェルは、レオーネの不用意な一言のせいでどうして自分が自棄酒を飲んでいるのかを思い出したらしい。


「う、うう……。うわあああああん。どうして…、どうして逝っちゃったのよぉ」


 報せがないのは訃報と同じなのがこの世界だ。

 荒事が仕事の根無し草が銃を持って向かう先など、天国か、そうでなければ地獄くらいのものだ。天国から(あるいは地獄からだって)手紙は届かない。仮に生きていたとしても、一生再会することはないだろう。きっとまだ生きていると信じていたレイチェルも、半年ほど前からはそのセリフを口にしなくなった。


「ユーリの馬鹿あぁぁぁん!」


 人目もはばからず、レイチェルは赤子のように大声で泣き出した。

 恋多き女と揶揄されるレイチェルだが、もしかしたらその男のことだけは本気で愛していたのかもしれない、とガンマは思った。とはいえ、悲しいかなこの物騒な世の中でそう珍しくもない話だ。それにお子様のガンマには愛だの何だのは理解しかねる。その点においてはレオーネも同様であるようだ。にわかに涙の雨を降らせる彼女に同情する表情すら億劫なようで、その口はこれ以上余計なことを口走らないよう酒を飲むことだけに専念している。


「何が『世界を守る仕事』よ。……何が『妹に会いに行く』よ! このシスコン野郎!」

「……お、おい、誤解を生むじゃろ。それじゃまるでワシがシスコンみたいな――」


 周囲の目が己に向けられていることに気付き、ハッとしてレオーネは狼狽えた。が、キッと睨み付ける視線がレオーネの口を閉ざさせる。


「私以外に好きな人なんかいないって、あれだけ言ってたのに!」

「じゃ、じゃからそれはワシじゃのォて……」

「鬼畜! 畜生! 恥さらし! あんたなんかその粗末なイチモツで近親相姦してればいいのよう!」

「……レイチェル、通行人のワシを見る目が厳しくなった気がするんじゃが……」


 また一人、色男のせいで社会的に死にかけている被害者が。

 まったく、つくづく罪な男だ。


「プレゼントした首飾り、すっごく高かったのにいー! 返せえええ!」


 とレイチェルは断末魔のごとき叫び声を上げた。

 一緒にいたらシスコン変態男の知り合いだと思われてしまう。いつもはおしゃべりなガンマもこのときばかりは利口に口を閉ざし、ホットミルクのおかわりを貰うふりをして、逃げるように席を立った。「ワシを置いてくつもりか」とでも言いたそうなレオーネの視線に「自業自得だ」と目線で返し、ガンマはカウンターへ歩み寄る。

 その時初めて、カウンターの奥が騒がしいことに気が付いた。


「あれ、マスター。どうしたの、そんなに慌てて荷物をまとめて……。もしかして夜逃げ? それなら言ってくれれば私たちが友人価格で引き受けてあげたのに。『生モノから巨大コンテナまで、何でも運びます。愛と信頼のミレニア運送。ご用命の際は――』」

「ち、違う違う! 今日はもう店じまいだよ。……あいつらが現れた!」


 マスターの剣幕に押されるように、


「……あいつら?」


 ガンマは小首をかしげて栗色のくせっ毛をひらりと揺らす。マスターは普段温厚な表情を狼狽で崩して小さく叫んだ。


「空賊だ!」


 ガンマは、慌てて踵を返す。

 足をもつれさせながらオープンテラスに出ると、穏やかな昼下がりの賑わいが一変、混乱の一歩手前で喧噪に包まれていた。周りの店は早々に店じまいを始めてシャッターを下ろし、不穏な空気を察知した通行人たちは駆け足で石畳を蹴る。遠くで銃声。途端に喧噪は恐慌に変わる。周囲のざわめきに負けないよう、ガンマは声を張り上げた。


「オヤジ、オヤジ! 早く逃げよう!」

「何言っとんじゃ。やっとこの酔っぱらいが寝よったんじゃけぇ、今ぐらいゆっくり食わせてくれえや」


 肉とチーズの入り交じった唾を飛ばしながら、レオーネは面倒くさそうに言い返してきた。

 乗り切らないほどの皿が重なり合うテーブルの端で、さっきまで絡んでいたレイチェルが突っ伏して眠っていた。今の内にその女を置いて店を出るという選択肢はなかったのだろうか。


「……そ、そんなこと言ってる場合じゃないんだってば!」


 空賊だよ! と、ガンマは叫んだ。だがレオーネはまったく意に介さない。


「じゃけえ、何じゃ。ワシらは元々文無しなんじゃけえ関係なかろう」

「そ、そうだけど、……っていうか飲みに来てるのにそれはおかしいでしょ! ……って違う、そんなこと言ってる場合じゃないんだって! すぐそこでドンパチやってるんだよ!」

「ドンパチ? ……空賊が? 誰と?」

「知らないよ! 知らないけど、空賊なんてみんな賞金首でしょ? 賞金首追っかけてるのなんて賞金稼ぎか保安隊以外に考えらんないじゃん! あいつら賞金首捕まえるためなら見境ないから、近くにいたら巻き添え食っちゃうよ!」

「ほう……。こんな派手に追われるっちゃあ、何ぼ賞金かけられとるんじゃろうのう?」


 と言いながらも、いまだ皿の上のパスタ以上に彼の関心を抱かせるものではないらしく、その手は無精ヒゲに覆われた口元と乱雑に並べられた食器との間を依然としてブレることなく行き来している。ガンマはその関心をこちらに向けようと、彼女の思いつく限りの形容詞でことの重大さを主張した。


「そんなの、きっとものすごい凶悪犯に決まってるよ! 頭のネジの一本や二本は緩んだおかしな奴だって! だから――」

「そうかもしれんな。――ふん、面白い。見物させてもらおう。ちょうどいい酒の肴じゃあ」

「………何でそうなるの……?」


 もしかしておかしいのは自分の方なのだろうか、と一瞬思ったガンマはあたりを見渡してすぐにふるふると首を振る。さっきまで人でごった返していた商店街にはもうほとんど人影がなく、店の従業員たちは慣れた手つきで店を閉める。悲鳴は銃声とは反対の方向へと遠ざかり、代わりに原動機の音とおぼしき爆発音が近付いてきた。一区画先で泣き叫ぶ子供の声が焦燥感をことさらに煽る。


「――まだいたのか、レオーネ!」


 と、店の奥から初老の男の荒声。そう、これが普通の反応のはずなのだ。


「ん? マスター……。どうした、夜逃げでもするような格好をして」

「揃って呑気なことを……。今日はもう店じまいだよ。まったく賞金稼ぎの連中、創龍祭(クリスマス)までもうあと3日だっていうのに、ところ構わず撃ちまくりおって! 準備が間に合わなかったらどうしてくれるんだ!」


 見れば大通りに開いている店など一つもなく、どの店の前にもCLOSEの文字。小洒落たこのオープンテラスにも客の姿は三人の他には見えない。危険を感じて皆逃げてしまったのだろう。だが、レオーネと呼ばれたこの大食い男の心配事はそんなことではなかったらしい。能天気な面を困ったように歪めて、何を言うかと思えば、


「そいつは参ったな。……マスター、店を閉める前にもう一杯出してくれよ」

「馬鹿を言うな。欲しけりゃセルフサービスで頼む。……わしゃあもう逃げる。レイチェルはお前が責任持って連れて帰るんだぞ!」


 またしても余計な面倒事を抱え込んでしまったレオーネの表情には苦渋の色が。そんなレオーネに追い打ちをかけるように、騒ぎを起こした張本人たちが南の空から姿を現す。1マイル先からでもその異様な雰囲気に気が付いた。


 ――ベティーユに変態現る。


 明日の朝刊に写真が載るとしたら、アオリはそれで決まりだろう。


『ほぉーっほっほっほぉー! その尻尾、捕まえたわよーう!!』


 空から現れたのは一人のマキナ。全身を緑色のレオタードで包み、目元には仮装パーティか宴会以外に用途の見当たらない仮面。ざっくりと開いた胸元とやたら濃い口紅、無駄に整っているプロポーションから見ても女性であることとマキナであることはこの距離でも分かるが、それ以外は何も分からない。何がしたいのかも不明だ。まったくもって分からない。分かりたくもない。大通りを歩くたくさんの通行人の頭上に『?』マークを際限なくうち立てながら、彼女は陽気に空を飛んでいた。


「ほう、ありゃあ確かに、――死ぬほど関わりたくねえ……」

「……レオーネ、なに、あれ?」

「見るな、ガンマ。……夢に出る」


 そしてきっと十中八九、悪夢になる。

 彼女の背後には十は下らない数のウィンドビークルの集団。あれは――保安隊だ。空賊を取り締まるために配備された空の警備隊。


「何を、追っているの……?」


 保安隊の追う空賊があの緑色の変態マキナであることは疑いの余地がない。だが、そのマキナもまた、何かを追っているようだった。つまり空賊がいるということは、追われる『荷』がいるということで、そしてそれがこの騒ぎの中心にいるということで。


 その台風の目が、ガンマたちのいるカフェ・バーの二区画先の路地に突如姿を現した。

 深紅のボディのウィンド・ビークルが、その二枚の翼から青白い光の粉を振りまいて九十度反転する。地上数メートルを飛ぶにはやや常軌を逸したスピードで、そのマシンはまっすぐにガンマたちの方へ向かってきた。


「ききき、きたああ! 来たよ、オヤジ! 早く逃げよう!」


 捕り物騒ぎの主たちとおぼしき罵声と怒声にガンマは声を震わせながらレオーネの影に隠れる。だが、その影が動くことはなかった。


「……そいじゃ逃げる前にそこの棚からウィスキーを一本取ってきてくれ」

「もう、持って帰って事務所で飲めばいいじゃん!」

「……。その手があったか」


 と、そろり立ち上がったレオーネの椅子が次の瞬間、粉々になった。


「………………お?」


 気の抜けたレオーネの声をかき消すように、機関銃の連射音が界隈に鳴り響く。

 ふらり、と千鳥足のレオーネが掴んだパラソルが今度は根元から木っ端微塵に吹き飛んだ。爆風で砂埃が舞い上がる。火薬の臭いだけでむせかえりそうだ。ガンマの絶叫も爆音と耳鳴りで聞こえない。


「……おお? 何じゃ、派手にやりよって。……マキナじゃのぉたら死んどったとこじゃ」

「いいい、生きてる!? 私生きてる? ヒューマンだけど私生きてるかなあ!? ねえ、オヤジ――」

「………ん? ああ、髪型と胸以外は無事みたいじゃの」

「ああ! 私の胸が消し飛んで――って、む、胸は初めからないわ! どういう意味だ馬鹿オヤジ!!」

「……そういう意味じゃ」


 そう言って左手に持ったボトルをぐいとあおる。――が、酒は一滴も舌に触れない。


「――ありゃ?」


 おもむろに持ち上げた酒瓶の口を覗くと、粉々に砕け散った瓶底の代わりに青い空が見えた。白い雲に、凪いだ風。割れた玻璃の形に切り取られた空に、小さな影が横切った。


『………!』


 人間(ヒューマン)だ。空を駆るのはウィンド・ビークル。太陽を右の翼に背負い、大気を切り裂いて舞い降りる。石炭油原動機がけたたましく啼き、鋼鉄の翼がゆらりと揺れた。跨っているのは男だろうか。まだ若い。ゴーグル越しに目が合った瞬間、そのライダーは何事かを叫んだ。


『――こを………!』

「………?」


 レオーネは首をかしげた。望遠鏡よろしく底の抜けた酒瓶で狭い空を睨む。火花が出るほどの速度でウィンド・ビークルが墜ちていた。地平線に漸近線を描き、地を這うようにこちらへ飛んでくる。ライダーの叫び声は、今度ははっきりと聞こえた。


『そこをどけええええええぇ!』


 割れたボトルを諦めたレオーネがそれをぽいと捨てた時、ウィンド・ビークル特有のエンジン音はすぐ目の前に迫っていた。刹那、ガンマは目を閉じる。次に目を開けたとき、それが夢でありますようにと願う間もなく、轟音とともに爆風がガンマの身体を突き飛ばす。


「むきゃあああ!?」


 声にならない悲鳴を上げ、ガンマは石畳の上を転がった。固い地面にぶつけた右肩がじんと痺れ、ゴムが焦げたような匂いに頭がくらりと揺れる。舞い上がった砂塵が咳嗽反射を誘い、涙と咳でむせかえりそうになる。痛いほどに耳鳴りのする脳みそで辛うじて自分が無事なことを確認、そして薄く目を開いてそのわけを知った。


 立ち上った煙の中に立っている影は一つ。見慣れた酔っぱらいの背中だ。二人めがけて突っ込んできたウィンド・ビークルがどういうわけだかガンマに直撃しなかったのは、どうやら間にこのオヤジを挟んでいたかららしい。にわかには信じられない光景だがこのオヤジならやりかねない。その傍らで、突っ込んできたライダーが息を吹き返した。


「………ずいぶんと横着な駐車じゃのォ、()()()


 こともなげにレオーネはそのライダーにこぼす。どうやらふたりは顔を見知った仲らしい。


「っつつ……。なんだ、レオーネか」


 ラウル、と呼ばれたライダーはひびの入ったゴーグルの奥の青く澄んだ瞳を頭上のレオーネに向けた。


「ああ、助かったよ、被弾してから急に()()()が言うことを聞かなくなっちまって……」


 ラウルはレオーネが片手で受け止めた赤いマシンを拳でこんと軽くこづく。九死に一生を得たというのに、その瞳からはこれぽっちの動揺も、安堵も感じられない。生気すら感じさせない表情で、ラウルは恨めしそうに傷だらけの赤いウィンド・ビークルを撫でた。

 ガンマは呆れて大きくため息をついた。この男たちは、頭のネジが2、3本緩んでいるなんてもんじゃない。2、3本残して残らず吹き飛んでしまっている。


「どうかしてるよ、ふたりとも……。いきなり空から降ってきたり、それを片手一本で受け止めてみたり、そんでどうしてそんな何事もなかったみたいに話せるの? ――それに」


 ぎろり、とガンマはラウルを見上げて睨む。


「ラウルはこんなところに何の用なの?」

「あ、ああ……、せっかくの休暇を邪魔して悪かったよ。……仕事だったんだ」


 ひとときの休暇を邪魔されて明らかに不満そうなガンマに、ラウルはほんの少しだけたじろいで答えた。


「ええと、本当の目的地はシャーロット侯爵家の別荘地なんだが、……ついでにもう一つ依頼品を預かってて。それがここ――」

「なぁに……、騒々しい………」


 と、その時レオーネの傍らでレイチェルが目を覚ました。今の今まで目を覚まさないとは、よほど肝の据わった女なのだろう。彼女の半径一メートルより外は眠る前の跡形をこれっぽっちも残していないというのに、レイチェルは呑気に大きく伸びまでしてのけた。レオーネがかばわなければ、もちろんレイチェルも無事では済まなかっただろうに、そんなことは知りもせず。


「誰よぉ、レオーネ。この騒々しい男はぁ」


 不機嫌そうな瞳を向けられ、レオーネは答えにくそうに口を開いた。


「ええっと……、まあ、なんっちゅうか………同僚じゃ」

「同僚……っていうと、つまり、運び屋ぁ?」


 意味深な言い方に眉間にしわを寄せるレイチェル。その顔を飛翔用のゴーグル越しにまじまじと見つめたと思うと、ラウルは表情をぴくりとも変えることなく言った。


「……ビンゴ」


 面白くもなさそうにつぶやく。そして注文を反芻するウェイトレスのように唱えた。


「カフェ&バー『ジュエル』の従業員で、金髪のロングに碧眼の、酔っぱらい」

「な、なぁに、失礼ねぇ」


 まだ寝ぼけているレイチェルは、売り言葉に買い言葉で口を尖らせた。だがお構いなしにラウルは淡々と続ける。


「身長は160センチ、着やせするタイプで、外出時は基本的に厚化粧。普段は素っ気ない態度だけど、本当はシャイなだけの恥ずかしがり屋さん。スリーサイズは上から9じゅ――」

「ちょ、ちょっと、ちょっと! 何勝手に私の恥ずかしいプライベートを暴露してるのよ!」

「本人確認のためだ」

「それなら名前で良いでしょ!? 何でわざわざ誰も知らないことから――」

「――『レイチェル・ハートランド』」


 と、そう短く答えてラウルはゴーグルを上げた。どきりとしたようにレイチェルは目を少しだけ見開く。


 ゴーグルでかき上げられた前髪の下には小動物のように愛らしい碧の瞳。けれどやはりその瞳に感情の色は見えない。左のうなじで編み込みのポニーテールが揺れた。腰で折り返したデニムのツナギの上から羽織ったパーカーが風にはためき、白い細腕が露わになる。呆気にとられているレイチェルを指さし、ラウルは、


「よかった。今はショートヘアにしているかもしれないと聞いていなければ、見逃していたかもしれない」

「『聞いて、いなければ』……?」


 完全に酔いが覚めたような表情でレイチェルはラウルに詰め寄った。まるで幽霊でも見ているみたいに青ざめている。


「――誰に……。誰に聞いたの!?」

「依頼人ですよ。名前は、ええとユーリ・ケルクハート、だったかな」

「ユーリ……。今あなた、ユーリと言ったの……!?」


 ラウルは肩に担いだメッセンジャーバッグから一つの小箱を取り出す。


「あなたにお届け物です」


 大事に包装された箱の中から現れたのは、とても高価なモノとは思えない質素な首飾り。

 レイチェルの大きな瞳に突然、大粒の涙が浮かんだ。


「あ、あなたは……?」

「ああ、俺は――」


 ラウルの自己紹介を遮ったのは、空から降り注ぐ無数の弾丸の雨だった。


「あ、危ない!」

「きゃああああああ!」


 ラウルはとっさにレイチェルを手を引いて影に隠れた。鉛の弾丸をものともしない鋼鉄の壁、レオーネの背後に。


「大丈夫か?」

「……その酒飲みの心配の前に、ワシを弾よけにしたことに対する弁解を聞こうか」

「怪我はないな?」

「ワシは無視か」

「な、なんなのよ、あなたは……!」


 レイチェルは涙目でラウルを睨み、あろう事かその襟首を掴んだ。感謝の台詞を予想していたのだろう、思いがけないレイチェルの反駁にラウルはほんの少したじろいだ。


「え?」

「急に現れたと思ったら、あんな乱暴者を引き連れて、私を巻き込んで、お店までむちゃくちゃにして!」


 その瞳の涙はみるみるうちに大きくなり、こらえきれずにしずくとなり、こぼれ落ちて地面にぶつかり粉になる。ぼろぼろとこぼれる涙みたいに、レイチェルは叫び、思わずラウルもはっと目を見張った。


()()()()()まで、運んできて――。あれは、……あれは私が、あの人に……! 私の! 大切な、宝物、だったのに! どうしてあなたが持っているの!? どうしてここにあるの!? これは、あの人の……、ユーリの――」


 レイチェルの叫びを妨げるように、機関銃の咆哮がストリートにこだまする。オープンカフェの掲示板に無数の穴が開き、ミレニア運送のポスターが宙に舞う。弾け飛んだ張り紙の中の一枚が、レイチェルの足下に舞い落ちた。固く閉じた瞳をそっと開いたレイチェルは、その張り紙を目にしてはっと目を見開いた。

 それは、一枚の手配書だった。


「あなたは――」

「『セント・エルモ』!」


 ラウルの表情を見定めるようにレイチェルが顔を上げた時、()()の陽気な声が機関銃の代わりに響き渡った。


「ほおーっほっほっほー! 見ぃつけたぁー」

「……何なんだ、あいつは?」


 怪訝な表情を隠さず、レオーネはごくまっとうな質問をラウルに投げかけた。ラウルもばつが悪そうにそっぽを向きながら答えた。


「『怪盗ブーケ』、空賊だ。あいつは俺たちが運んでる()()()を狙ってる」

「ブーケ……? とてもじゃないが、花嫁が持つにゃあ清楚さと清廉さに欠ける気がするの」

「結婚前の女から花嫁道具やら花嫁衣装やらを根こそぎ盗んでるはた迷惑な空賊だ。奴を捕まえたら盗まれた『幸せ』を取り返せるから、『ブーケ』なんて名前がついたんだとよ」

「……あんなブーケが飛んできたら、私は一目散に逃げるよ……」と、ガンマ。

「座右の銘は『幸せは逃げ水』だそうだ」

「……可哀想に。一生追いつけないのか……」


 今度はレオーネがため息をついた。


「『セント・エルモ』……!」


 その名が記されている手配書とラウルの顔を交互に見比べ、レイチェルはその虫も殺せなさそうな優男に問いかけた。


「あなた、……賞金首の空賊?」

「なかなか悪意にあふれた似顔絵だろう?」とラウルは肩をすくめた。


 その言葉の通り、似顔絵にある男はラウルとは似ても似つかない大男だった。七つの海を支配し、絶世の美女を五人ははべらせて、刃向かうものは皆殺し。酒池肉林を欲しいままにする、そんな想像さえかきたてられる似顔絵だ。


「信じられるか? たかが200万だ? あの変態マキナと合わせたってウィンドビークル一台買えないってのに。……奴らは何をここまで必死になってるやら」


 遠くから徐々に近づいてくる保安隊のウィンドビークルを睨み付けてラウルはつぶやいた。


「ちょ、ちょっと待って」


 相変わらず手配書とにらめっこしていたレイチェルが、何かに気付いたように声を上げた。


「『セント・エルモ』は2人組って……。あなたには仲間がいるはずじゃ――」

「あ、ああ、そいつなら――」

「いつまでそんなところに隠れているのかしらぁ?」


 しびれを切らしたように、怪盗ブーケが声を上げた。


「そろそろ観念する心の準備はできたかしら? 幸せって、あまり気の長い方じゃないの」

「お呼びだぞ、ラウル。ワシらの()()のために行ってこい」

「……つれないこと言うなよ。ここから顔出したら最後、穴あきチーズみたいな死体が一個できあがっておしまいだ。俺に奴らの弾丸代になれって?」

「飛んできたんだ。飛んで逃げればええじゃろ」


 ラウルはそれを聞いて、自分の乗り捨てた赤いマシンを指さした。マシンはレオーネとぶつかった衝撃で、そのいたる場所から煙を上げていた。


()()()なら、まだ目を回してるよ……」

「あくまでかくれんぼを続けるつもりなのね?」と、怪盗ブーケ。


 猶予期間は終わったようだ。


「……そう、そっちがそのつもりなら、――私は私の手でそれをつかみ取るだけよ」


 怪盗ブーケがそう言った直後、ラウルたちの頭上に小さな影がよぎった。それは放物線を描き、ラウルとレイチェルの間で地面に落ちて不規則に跳ね、そして止まった。

 次の瞬間、小さな爆発音とともに白い煙が吹き出し、あたり一面を覆った。目の前の自分の手すら見えない。無意識に伸ばした指先に熱を持った金属を触れ、ラウルはそれが何かを一瞬で理解した。地面を蹴り、その金属の塊に跨がると、両手でハンドルレバーを握る。そして、()()()を叫んだ。


「起きろ、キディ!」


 呼応するように甲高いエキゾーストノートが響き渡る。次の瞬間、機体は弾かれたように舞い上がり、白い粉で空に線を引く。爆風が白煙を吹き飛ばした。


「あ、あれが――」


 レイチェルは薄らいだ白煙の中目を凝らし、その後ろ姿を追った。


「あれが、『セント・エルモ』……!」


 この街にその名を知らぬ者はいない。セント・エルモは船乗りたちの守り神の名だ。


『嵐の夜、青白い光とともに、奴らは現れる』


 赤い機体に、青く光り輝く翼。

 他のウィンド・ビークルよりもひとまわり小さいくらいのそのボディは、それなのに獲物を狩る獣のような雰囲気を纏い、実物以上に大きく見える。無数の青い光の粒子は二枚の鋼鉄の翼から。余りに洗練されたその造形にまず目を奪われ、次に嘆息する。赤いボディが放つ迫力に言葉を失い、そしてやっと我に返る。それを目にした他の誰もがそうしてきたように、レイチェルもまたその姿に魅入られた。


「あら、まだ動けたのね、()()

「生憎、頑丈なのが取り柄なんだ」


 見計らったように空で待ち構えていたブーケに、ラウルはゴーグルを下ろしながら応える。


「煙幕とはまた古風な手だな。綺麗な(ロッソ)がロゼになるかと思ったよ」


 ラウルが黒い髪を払うと、頭からかぶった白い粉が赤いマシンにうっすらと積もった。歪んだ口元を無理矢理笑みに変え、怪盗ブーケは肩をすくめた。


「……ワインは飲まないの。いくら飲んでも酔えないから」

「悔しいけど、気が合うね」


 そう言ってラウルは腰のカラビナに結いつけたスキットルを取り出し、半分だけ残っていたウィスキーを空にした。


「うふふ、とんだアル中ね。今度一緒にどうかしら、おいしいお酒を飲める店を知っているのだけど」

「遠慮しておくよ、今はお嬢様に届けるこのウェディングドレスさえあれば――」


 そこまで言いかけて、ラウルは機体が軽いことに気が付いた。


 ――おかしい、さっき機体に乗せたはずのスーツケースが、見当たらない。


「あら、私よりもこんなものが欲しいの?」と、ブーケは右手のケースを胸の前に掲げた。


 いかにも金持ちらしい豪華な作りの容れ物だ。金色の金具には小さな鍵穴がひとつ。蓋の上では二匹のドラゴンが向かい合って飛んでいる。


「な……。いつの間に!?」

「不思議でしょう? でもね、幸せってそういうものなの。捕まえたと思った瞬間、いつも手から滑り落ちていく」

「………盗まれる、の間違いじゃないのか?」


 声を押し殺し、ラウルは言った。楽しそうに、ブーケは付け加えた。


「それから、大丈夫かしら、……その子、そろそろ限界みたいよ?」


 ラウルははっと後ろを振り返った。赤い機体の飛翔ユニットから、尋常ではない量の白煙が立ち上っていた。ラウルが舌打ちするよりも早く、マシンがバランスを崩す。浮力を失ったマシンは音もなく落下を始め、ラウルは何とかそれを不時着させた。

 余裕の笑みを浮かべ、怪盗ブーケもまた地上に舞い降りた。


「『セント・エルモ』も意外と大したことないのね」

「……キディに何をした? あの煙幕の中、スーツケースを盗んだときか?」

「さあ、何のことかしら?」と、ブーケは可笑しそうに笑う。が、その時。

「――ってあら、これ……」


 その余裕の笑みが、ふと戸惑いに変わった。


「シャーロット家の家紋が……違う」


 ブーケは小さな声でそう、つぶやく。ラウルもまた訝しむように首をかしげた。


「まさか、そいつが偽物だって? ……()()ってのは嘘つきなのか?」

「あるいはね。それを今から確かめるのよ」

「まさか、鍵を開けられるのか?」

「私は怪盗ブーケよ」


 腰のポーチから取り出した小道具で、ブーケは鍵穴と格闘を始めた。が、それはものの数秒で終わった。鍵穴の圧勝である。ぽいっと小道具を捨てると、ブーケは力任せにスーツケースをこじ開けた。みしみし、ばきん。


「………大した怪盗だ」


 ちっ。ちっ。ちっ……、と。

 今度は中から聞こえる別の音がラウルを唖然とさせた。仮面で隠れて分からないが、ブーケも同じ顔をしていただろう。ケースの中身を覗きこんだまま、しばらく二人は絶句した。


「……………嘘つき呼ばわりして悪かったよ、怪盗ブーケ」


 先に口を開いたのはラウルの方だった。


「驚いたね、こいつは確かに偽物だ。誰の仕業だ、ウェディングドレスの代わりに、ええとこいつは何だ、目覚まし時計か? こんなものを運ばせるなんて」

「あははっ。面白い冗談ね。……目覚まし時計? こんな目覚まし時計じゃ、眼を覚ます前にあの世行きよ」


 つられてブーケも笑う。


 ――笑い事じゃない。スーツケースにはタイマー機能付きの置き時計がひとつと、残りのスペース一杯に爆薬が詰め込まれていた。針はどうやら蓋を開けた瞬間から動き始めたようだ。ご丁寧に、十二時の場所に赤い印が入っている。


「次は二度と目覚めないわね」

「……………………………………嘘だろ?」


 時計の針は残り十秒を指している。走馬灯のように思い出が脳裏を駆け巡った。

 初めて空を飛んで、墜落して大怪我をした日のこと。知らず軍事兵器を密輸して賞金首になった日のこと。初めて銃を突きつけられ、命乞いのセリフを褒められた日のこと。それから、ええと………。


 …………あれ?


「いい思い出は、あまりないな……」


 涙が出る。ブーケの幸せを少しくらい分けて欲しいくらいだ。


「――って、もういない?」

「………さようなら、セント・エルモ!」


 さっきまで傍らにいた怪盗レオタード女は忽然と姿を消していた。代わりに煙幕の中から、声だけが届く。


「ごめんなさい。でもね、幸せは突然現れて、人知れず去っていくものなの」

「……き、汚いぞ……!」

「悔しいなら幸せ(わたし)を捕まえてご覧なさい。あなたたちにはふさわしくないけれど」


 そして声も消え、怪盗ブーケは完全に姿を消した。

 あたりには人だかりができていた。ここで爆発すれば死人が出る。だが、策を練るいとまはもう無かった。文字通り手も足も出ない。万事休す、お手上げだ。


「く、くそッ!」


 天を仰ぎ、ラウルは小さく叫ぶ。

 その悲鳴に呼応するように、傍らで何かがかっと輝いた。

 青い光を発したのは、ラウルが乗り捨てたウィンド・ビークル。薄く発光したそのシルエットが変化していくのを、ラウルの涙目はその霞んだ視線で捉えていた。鋭角的なフォルムを残したまま四肢が伸び、細くくびれた腰が露わになる。背中にはウィンド・ビークルだったときと寸分変わらぬ一対の翼。青い光がすっかり失われたとき、煙を上げて横転していたウィンド・ビークルはすっかり人間の姿に変わっていた。


 鋼鉄の両翼はマキナの証。

 ふわり、と漆黒のロングマフラーが舞う。遅れて戦闘用の装備に身を包んだマキナの細い身体が宙に浮いた。


「キディ――」


 ラウルがそうつぶやき終わるより早く、彼女は何かに弾かれたように飛び出した。殺人スーツケースを掴み取り、空高く舞い上がる。上空に放り投げる。永遠にも感じられる一瞬の静寂の後、先に届いたのはまばゆい閃光。そして腹の底まで響く爆音とともに身を焦がすほどの熱気が肌を焼いた。

 爆風に煽られて、炎の中からひとりの影が落下する。隕石のように墜落した先でディーゼル車両が砕け散り、ぐしゃりと嫌な音が聞こえた。


「キ、キディ……!」


 駆け寄ろうとして、ラウルはよろめいた。膝をついて前のめりに倒れ、痛みに表情を歪ませる。それでも視線はキディの墜ちたディーゼル車両を見つめ、自分の受けたダメージが()()の数分の一にも満たないことを知る。

 耳鳴りの向こう、遠くからサイレンが聞こえる。空を見上げれば、すでに数台のパトロール・ビークルが赤色灯を灯らせているのが見えた。視線を地上に戻すと、そこにあるのは紛う事なき大惨事。


「…………最悪だ」


 ラウルは頭を抱えた。酷い事故だ。生身のヒューマンなら即死していてもおかしくないほどに。けれど、ラウルの頭をよぎったのは相棒の安否でもなければ、保安隊に取り囲まれていることでもなかった。曰く、


 ――また店長に怒られる。

 ――また懸賞金が跳ね上がる。


 一社員、一市民として身の振り方を真剣に考えねばならないほどの一大事である。

 だが何よりも、このシチュエーションがラウルにとってどうしようもなく『最悪』極まりないわけは、()()のご機嫌によるところが群を抜いて大きい。そいつを除けば他の懸念材料など、指で弾いた鼻くその行方ほどに些末で取るに足らない事象に過ぎないほどに。


「う、動くな! 武器を捨てて、四つん這いになれ!」


 いつの間にか空賊たちは姿を消し、最初に到着した保安官が銃口をラウルに向けた。

 なるほど、この様子だけ見れば空賊ラウルが無差別テロを起こしたように見えなくもない。犯行声明でも出してみるかと半ば諦めて保安官の背後を見やると、漂う白い粉のベールの向こうで()()がゆらりと立ち上がるのが見えた。


 あたりには保安官だけでなく、たくさんの野次馬が集まっている。爆発に驚いて店先に出てきた店の主から、通りがかりの通行人、公園で遊んでいた子供たちまで。好奇心に駆られた人々が人垣を作り、けれどそれ以上一歩も近付こうとしない。可哀想に、市街線を運転していたディーゼル車両の運転手すら声をかけることもできないでいる。


 燃えるような赤い瞳が、ぎらりと光った。


「――()()()


 保安官には目もくれずゆっくりと歩み寄ると、キディは腹に響く低音で相棒の名を呼んだ。ぺたんと尻餅をついたまま見上げるラウルを、灼けつきそうなほど熱い視線で見下ろし、


「……なんだ」

「こいつはいったい何の冗談だ? ええと、つまり――、ウェディングドレスを運んでるつもりで、あたしたちは爆薬を担がされてたってことか?」

「ああ――いや、俺もよく分からんが、つまり、その………………騙された?」


 ぶちん、と何かが切れたような音がラウルにも聞こえた。


「動くな、と言うのが聞こえないのか!」


 頭からかぶったフードごしに保安官の銃がキディに突きつけられた。ぴたり、と歩みを止め、キディは押し黙った。


「武器を捨てて、両手を頭の上で組め!」


 やめた方がいい。

 そう伝えたくて、だけど保安隊は聞く耳持たなくて、ラウルは何もかも諦めた。


「どうした!? 早くしないと、抵抗したと見なして――」

「ぎゃあぎゃあとうるさいね。こっちは最悪な気分だってのに」

「なっ……! 貴様――」


 キディは外套のフードの上から頭をポリポリと掻いて、肩をすくめる。


()()だ。()()()にもういっちょ()()を掛け足して、ピーマンと納豆と一緒にミキサーにかけて、おまけに冷えてないトマトジュースをぶっかけたくらいに。……そりゃあもう最悪だね」

「お前がトマトジュースを嫌いなのは知ってる。そんなミックスジュースは俺だってごめんだ。その、なんだ、要するにお前が不機嫌だってことはようく分かったよ」


 苛立つキディが何か間違いを犯す前になだめすかそうと、ラウルは矢継ぎ早に言葉を並べた。


「それで。何が気に喰わなかった? スーツケースが偽物だったことか? 怪盗ブーケに逃げられたことか? そういやお前、あいつにどこか身体を弄られなかったか? 急にパワーダウンするから心配したんだ。頑丈なのが取り柄のお前のことだから、大丈夫だろうとは思うけど、ええと、何か、その、問題でも………あった、か?」

「問題か。………フン」


 徐々にトーンダウンするラウルに、キディは短い言葉で断じた。


「大ありだ」


 おそるおそる、ラウルは――。


「………何があった?」

「下着を――」

「――――は?」

「パンツを、盗まれた」


 履いてた奴を、という意味らしい。

 あちゃー、というようにラウルは天を仰ぐ。

 怪盗という名は、やはり伊達ではなかったらしい。

 一方のキディは怒りを思い出したのか、わなわなと全身を震わせている。


「しかも――そのあとブラまで盗みやがって………」

「どんな神業だよ、それ……」

「そ、その上、そんな貧相な胸に、ブラなんて要らないだろうって――」


 ………言われたのか。

 というかお前ブラなんてしてたのか、なんて言いそうになって、ラウルはすんでの所で口をつぐんだ。

 危うく血祭りに上げられるところだ。


 ふ、ふふふ、と壊れた玩具のようにキディは笑い出した。

 笑みは自嘲。

 そしてため息をつき、ゆっくりとフードを脱ぐ。

 と思うと右手を一閃、目にも留まらぬアッパーカットが相対していた保安官の顎に直撃した。もんどり打つ男の背後で、保安官の面々は揃って驚愕の表情を浮かべる。


 細腕から何の警告もなく繰り出された強烈な一撃。

 相手を警察組織と知っての好戦的な態度。

 だがしかし、そのどれも驚くに値しない。顔の半分を隠していた黒いロングマフラーが宙を舞い、あらわになったその顔を目にしてしまっては。


『――女!?』


 保安官のひとりが思わずこぼしてしまった言葉が、全てを物語っていた。

 カチューシャ型の頭部装備であらわになった額の下には、驚くほど大きな二つの瞳。ふっくらとした頬のラインも、ほんのりと赤い唇も、間違いなくか弱き乙女のそれだ。

 けれど、緋色の瞳に宿る鋭い眼光と八重歯の覗く口から出た彼女の言葉だけは、年頃の女の子とは到底思えないものだった。


「――ん、なんだ? 女だから手加減でもしてくれるのか? ……それともあたしの美貌に惚れちまったか?」


 キディは足元で気を失っている保安官を踵で踏みつけ、上空でホバリングするマキナたちを睨んで口元だけで笑った。彼らは上空で距離を取り、相手を見定めている。


「……そういう冗談は相手を選んで言ってくれ。俺たちは国家権力と遊びに来たわけじゃ――」

「つれないなあ。そんなところで飛んでないで降りておいで。あたしと遊んでおくれよ」

「…………聞けよ……」


 締め上げた保安官の一人を片手で釣り上げ、キディは連中を挑発した。取り囲む保安官たちはその圧倒的な迫力に言葉を失う。 


「ほうら、かかって来いよ。ホップ・ステップ・フ××ク・ユー、だ。足並み揃えてあたしの胸に飛び込んで来な!」


 そう言うと、先に動いたのはキディの方だった。どこから持ってきたのか、ビークル用のフューエルタンクを蹴飛ばし、


「――ただし、あたしの隣にゃ、死体しか寝られないがな!」


 言うや否や翼を全開にしてキディは地面を強く蹴った。右の拳を強く握りしめ、石畳に穴を穿つ。地響きとともに石畳に亀裂が走り、ラウルの頭ほどもある石つぶてが無数に飛び散った。破裂した水道管から水柱が吹き上がる。刹那、ラウルの瞳には、二丁の銃を腰から引き抜くキディの姿が映っていた。

 間断なく放たれた銃弾は一発たりとも外れることなくフューエルタンクに風穴を開け、


 ――引火した。


 爆発。

 と同時に吹き出した水道水が熱で気化し、高温の水蒸気が保安隊を取り囲んだ。遠く離れたラウルのもとまで熱風が吹き荒れ、目もろくに開けられない。煙と熱に耐え、うっすらと開けた瞳に映ったのは、ラウルのよく知る修羅の姿。


 轟音を上げて燃える炎の向こうから、燃えるように赤いショートヘアと、それよりも赤い緋色の瞳。手にした銃の名は右手に『カストル』、左手に『ポルックス』。ラウルの知る限り最も凶暴で、最も美しく、そして最も強い女。


 キディ・ガーネット。

 世界は、ほんの一秒で彼女にひれ伏した。

某国語辞典より引用。

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