6.スカイ・ハイ
時は数分前に遡る。
「うー、さみぃ!」
黒いウィンド・ビークルにまたがった男は、ライダースジャケットの襟を立て、ぶるるっと一度身震いをした。
「お前らは良いよな、寒くないんだろ?」
「寒くないわけじゃない。装備で固めてるから、寒さを感じにくいだけだ」
横でマキナの男がそう答える。
「便利な身体だねぇ」
「お前も着てみるか? 片腕だけで20キログラムあるが」
「勘弁してくれ。そんなのつけたら、俺の愛車のスピードが落ちちまう」
彼のマシンは、十七分隊のウィンド・ビークル乗りたちの中でも抜きんでて速く、機敏で、それが彼にとっての武器だった。
「だいたい、ここの見張りなんて必要なのか?」
彼らがいるのは教会の正門の前だった。
作戦でいうところのルートC。警備の私兵隊たちを殲滅し、正門を閉鎖。万が一増援が現れれば、これを報告、場合によって撃破することが彼らに与えられた任務だった。
周囲には彼らだけではなく、特に見晴らしの良い広域での空中戦を得意とする兵士たちが十人ほど身を潜めている。
その中でもこのハイランダーの男は、その飛翔能力から一目置かれる存在であり、この場の指揮を任されていた。
はらりはらりと今年最初の雪が降り始める。
雪は徐々に強くなり、だんだんと視界を奪い始めた。
ハイランダーの男が愚痴をこぼす口に、さらに拍車がかかる。
「中じゃ今頃楽しく貴族サマをいたぶってるだろうに。俺もそっちが良かったなぁ」
「強襲チームは必要最低限の武器しか持っていない。お前みたいな飛ぶだけが能の奴が加わったって、死体が一個増えるだけさ」
マキナの男は淡々と言った。
「お、おお……。言うねぇ……。ま、確かにそうだろうが――っと」
その時、ハイランダーの男は吹雪の中に何かを見咎めた。
「んん? 何か今、見えたか?」
「――分からない。だが……何かいるのは確かだ。こっちへ向かってきている」
一般にマキナは視覚でヒューマンにやや劣る。だがその他の五感――例えば聴覚なんかは、ヒューマンを遙かに凌ぐ能力がある。
マキナの兵士は、すでに数マイル先のエンジン音に気付いていた。
間もなくハイランダーの男もその姿を視界に捉える。
「なんだ、ありゃあ――。青い……ウィンド・ビークルか?」
「青い――?」
そこで一度マキナの男は少し顔色を変えた。
「どうした?」
「い、いや……。………まさかな」
言いよどみ、だが、その姿が吹雪の中から青く輝く光の粒子が漏れ出し始めたとき、男の顔は更に強ばった。彼はここサドレアの出身者で――当然その英雄の逸話を知っていた。
「なんにせよ、ここに近付く奴は皆殺し。それが今回の任務だ」
「ま、まて――」
ハイランダーの男は、レドラスティークの出身だった。当然、そんな都市伝説など知りはしないし、知っていたとして、功を急ぐ彼は気にも留めなかっただろう。
同僚の制止を無視し、配下の兵士たちに指示を送った。
「野郎ども、敵だ! まとめてかかれ。ここへ不用心に近付いたことを後悔させてやれ!」
合図と同時に雪と砂の埃を巻き上げ、ハイランダーとマキナの混成部隊が一台のウィンド・ビークルに襲いかかる。
青いウィンド・ビークルのライダーは気付かないのか、方向を変えることなくまっすぐと向かってきていた。このままだとあと数秒もせずに混成部隊とかち合うことになる。そうなればどんなに凄腕のハイランダーでも逃げ切ることはできないだろう。あの男は戦功のためなら地の果てまでも飛んで、追い詰め、撃ち殺す。
杞憂だったか、とマキナの男が思ったその瞬間。
青い光の粒子が閃光のように瞬いた。
と同時にウィンドビークルは矢のように急上昇する。周りで雪が小さな竜巻を無数に作り、その速度の凄まじさを物語っている。
何人かが慌ててそのあとを追う。だが、それも届かなかった。
高度が高すぎるのだ。
マキナの通常の装備では高濃度のセイラー・ミセルを制御することができず、ハイランダーの身体では正気を保つことすらままならない。
そんな中、たった一台。
青いウィンド・ビークルが更にその光を増して滑空する。さすがに長時間は高度を維持できないようだ。徐々に高度を落としながらこちらへ向かってくる。
残った数台が急いで踵を返しその背中を追うが、彼らが追いつくよりも青いウィンド・ビークルがこちらに辿り着く方が早いだろう。
ほんの一瞬だった。
一瞬であれだけの数の襲撃者を出し抜いた。
「まさか――、墜ちたはずだ………。もう、五年も前に」
マキナの男はまるで幽霊でも見ているような表情で、思わずその名を口からこぼした。
「セント・エルモ――」
『嵐の夜、青白い光と共に、奴らは現れる』
***
脱獄に成功したキディとラウルは、そのままティフェルヴァルトから教えられた教会へと向かっていた。
いつの間にか降り出した雪が吹雪に変わり、あたりは嵐の様相を呈している。
冷たい雪の欠片をゴーグルに受け、それを払うとラウルは赤いマシンに声をかけた。
「調子はどうだ、キディ」
《……悪くないね。ただ、次からは、その……、もう少し優しくしてくれ》
「ふうん……。まさか、あの壊し屋ガーネットの口からそんな言葉が出るとは、レオーネあたりが聞いたら卒倒するだろうな」
《う、うるさい! お前は整備に時間をかけすぎなんだ! おかげでかなり出遅れちまった。このままじゃ遅刻だ》
「分かってるよ、キディ。――それじゃ少し、飛ばすぞ!」
ラウルの手の動きに合わせてキディの翼は開度を増し、更にスピードを上げた。
サドレアの中心街を突っ切り、古い城下町を飛び抜ける。密集した石造りの建物を躱し、枝のうっそうと生える木々をかき分け、それは突如眼前に現れた。
「………あれが例の教会か」
「さあ、主賓のお出ましだぜ!」
「……その前に、早速お出迎えがあるみたいだ」
周囲を固めていた兵士たちがラウルの姿を見とがめ、何やら慌ただしく矛先を向ける。
《フン、つまらないおもてなしじゃあたしたちは満足しないぜ!》
ドン、とバルクレイターを反転させるとラウルは急降下を始めた。
地面すれすれで水平姿勢に立て直すと、速度を緩めず一直線に教会に向かって飛ぶ。私兵隊は慌ててウィンド・ビークルを反転させると、搭載している機関銃をラウルに向けた。
《さあ、ランデヴーと洒落込もうか!》
相手は軽機関銃を搭載した軍用ウィンド・ビークルだった。
ハイパワーのエンジンをフル回転させ、驚異的な加速でラウルを追い詰める。だが、その尻尾を捕まえるには至らなかった。
後ろに束ねた三つ編みを大きく揺らし、ラウルは急上昇する。
先ほどまでうるさいくらいに銃声を轟かせていた軽機関銃もしばらく沈黙したままだ。この距離ではタイミングに合わせて避けられるということに気付いたのだろう。追手の二台は連携して必殺の間合いに入ろうとするが、小回りでいえばこちらの方が上だった。
いい気分だ。
セイラー・ミセルの流れが手に取るように分かる。意のままなのはマシンだけじゃない、この空域はすでにラウルの支配下にあった。
今なら、どこへだって――。
《………ラウル……》
「………!」
突如、我に返ったように笑みが消えた。
そして、また自分が笑っていたことに気が付いた。
《……ラ、ウル!》
何度も発せられていたキディの悲鳴は、このときになってようやくラウルの耳にも届いた。
息を飲み、泡を食ってブレーキレバーを握りしめる。垂直下降していたマシンはすでに耐容速度を遙かに超えていて、アタッチメントが空中分解を始めていた。
翼が軋み、いくつかのネジが弾け飛ぶ。恐ろしい速度で地面が迫る。悪い冗談だ、ブレーキどころか、舵もきかない。
気を抜いていた。
気をとられていた。
――いや、そのどれも違う。
空に囚われ、正気を失っていた。
空に酔っていたのだ。
ずっと恐れていたことが起こった。
……いや、心のどこかで望んでいたのかも知れない。天国中毒者の欲望が。
ブレーキを諦め、ラウルはフットペダルを底まで踏み込む。
それから、自分が何をどうしたのか、ラウル自身にも分からなかった。
機首が少しだけ上を向く。バルクレイターがジェット気流を逆噴射し、更に頭が持ち上がった。地面に漸近線を描く軌道が地面とフレンチ・キス。弾かれるように跳ね上がったマシンはきりもみし、今度こそコントロールを失った。
空と地面が交互に視界に映る。
その視界の端に十字架が見えた。教会に突っ込む。
ラウルは、神に祈った。
***
『……オオカミはあなたの方でしょ、『セント・エルモ』』
――シェリル?
どうして今、シェリルの声が聞こえるのだろう。
『違う、私をその名で呼ばないで! 私の名前はステラ。シェリルなんて名前じゃない!』
ステラ――。ああ、そうか、それが彼女の本当の名前だった。
『『どこへだって連れて行ってやる』って、そう言ったのはあなたの方よ』
ああ、そう言った。
確かに言った。
他の運び屋なら、きっと馬鹿な奴だと笑うだろうけど、俺は、……首を突っ込むことにしたんだ。
『私たちは約束したの。『結婚しよう』って。『今から五回目の誕生日、二人の秘密基地で、二人だけで結婚式を挙げよう』って』
知っている。君がそう言った。
だから約束したんだ。必ず送り届けてやる、って。
なのに、どうして君はそんな悲しそうな顔をしているんだ?
『――うそつき』
***
粉々に砕けたステンドグラスが色とりどりの光の雨となって降り注ぐ。
無数のガラス片の中、赤いマシンが宙に舞った。十字架の右腕がマシンの片翼を削り、木製のベンチがベイガング装置を破壊。運の悪い兵士二人を巻き込んで、それでも勢いを失わないマシンは、石造りの祭壇にぶつかってようやく止まった。
気を失っていたのは、ほんの数秒のことだったらしい。
すぐに眼を覚ましたのは、誰かが呼んでいたからだ。耳鳴りがして良く聞こえないが、視力の方が先に回復してきて、それがシェリルだったということに気付いた。
どうやら祭壇が盾になってくれていたらしい。あと一メートルずれていたら、大惨事だ。巻き込んだのが彼女でなくて良かった。
相変わらず大きな声で何かを叫んでいる。
悪いけどよく聞こえないんだと言おうとしたけれど、喉の方も上手く動かなくて、意味をなさない音の塊だけを血痰と一緒に吐き出す。
肩に手を差し伸べるシェリルはまた泣いていて、ラウルは彼女に泣き虫の称号を与えることにした。
「どうして……!?」と、その唇は言っているようだった。
やがて彼女の声が形になる。
「どうして来たの? そんなに傷だらけになって、何しに来たのよ!?」
「――それは、ね」
咳払いを二つ。ラウルは声を取り戻した。
「君を捕まえて、奪い去るためさ、……赤ずきんちゃん」
シェリルの唇がわなないた。
大きく見開いた瞳からはこらえきれずに大粒の涙がこぼれ落ちる。そのわけがラウルには分からなかった。
「怖がらなくていい。オオカミは……君を食べたりは、しないさ」
「ばか……、じゃないの? なに………言って…………!」
どうやら耳の方も回復しつつあるようだ。
もうしばらくこうしていれば少しは楽になるだろう。だがそんな暇はない。
シェリルの手を押しのけ、ラウルはマシンから這い出るように降り立った。がくがくと震える足は辛うじてラウルの細い身体を支える。潤滑油のきれた歯車のようにギギギっと首を回してあたりを見渡す。数人の兵士が銃を構え、そのいくつかは寸分の狂いもなくラウルの額を狙っている。
「血まみれの赤ずきんは、あなたの方でしょう?」
と。
一歩前に踏み出したのは見覚えのある顔だった。いや、仮面のせいで本当の顔は見えないのだが。
「またあなた? 懲りない男」
「会うのはまだ二回目だ。飽きるほど俺のことを知っちゃいまい?」
「知る必要はないわ」と、『白兎』は断じる。
「――そのまま。動いたら殺すわよ。武器を捨てて両手を挙げなさい」
「そんな、この人は武器なんて持ってないし、それに……、早く手当てをしなくちゃ――」
「あなたとは話していないわ」
ルクスは、ラウルをかばったシェリルに銃口を向けた。
「よせ」
ラウルはふらりと頼りない一歩を踏み出し、ルクスに向き直った。
笑みが、ルクスの口元に浮かぶ。
「さあ、隠している武器も全部捨てて両手を挙げなさい。さもなくば、死ぬのはあなたと、あなたの守ろうとしているそのお嬢様なのよ?」
「――『いやだ』」
うわごとみたいに、ラウルは言った。
いやだ、めんどう、帰りたい、はラウルの口癖でもあるが、それにしたって空気が読めないにもほどがある。
「へえ――」と、ルクスの口の端がわずかに凍った。
「聞こえなかったの? それとも言っている意味が分からなかったのかしら? 私は『武器を捨てて両手を挙げろ』と言ったのだけど」
「『聞こえなかった』。『武器も捨てないし、両手も挙げない』」
「――死にたいの?」
「『死にたくない』。――『いや、死なないよ、俺は』。『死なないんだ』」
上の空で反芻する。
じん、と頭のどこかが熱く痺れ、自分でもそれを制御できない。もはやまともな思考は残っていなかった。
「だめ、あなた――」
いち早く、シェリルがラウルの異変に気が付いた。
悲痛な表情でラウルを止めるシェリルをよそに、ラウルはおもむろに片腕を上げる。親指を立て、人差し指を伸ばして指鉄砲を作ると、怪訝な表情を隠す仮面に向けた。
一瞬言葉を失ったらしい『白兎』は、すぐに含み笑いを始めた。そしてそれはすぐに高笑いに変わる。
「あははっ! それは……何?」
「ば、ばか!」
恥ずかしげもなく人差し指を向けて勝ち誇った顔をしているラウルは、確かにシェリルの言う通り正真正銘、手の付けられない大馬鹿野郎だった。
「気取ってるつもり!? ………あなたはただのヒューマンで、ハイランダーのくせに空を飛ぶのも怖がる臆病者で、あんな人殺しの相手なんて――」
そこまで言って、シェリルはラウルの口元に笑みが浮かんでいることに気がついて、思わず口をつぐんだ。
「いいじゃない。私は好きよ、そういうの」笑って、『白兎』はラウルを見つめた。
「カッコイイわよ、カウボーイ。それがあなたの『武器』? それで私を殺せるとでも?」
「ふ――。ふふ、ふふふ。あはは――」
ラウルはとうとう壊れた玩具みたいに声を上げて笑い出した。
「――お前こそ、そんな玩具で俺たちを殺せるとでも思ってるのか?」
『白兎』の高笑いがぴたりと止む。
重厚な拳銃の照星がほんのわずか揺れ、仮面だけが不気味に笑っていた。
しん、と教会内が静寂に包まれる。
「試してみなよ、ドラゴンライダー。下らない誘拐騒ぎの暇つぶしくらいにはなるだろ?」
「………ふ、ふふふ」
『白兎』は、こみ上げる笑みに肩を震わせる。
一見少し気むずかしそうな、でも普通の少女。最初はそう思っていた。
だけど、ラウルは見抜いていた。彼女は、脳みそのどこかが欠けている。整いすぎた顔貌も、無邪気な愛も、何もかもが危うい。脆く、儚く、今にも崩れ去ってしまいそうな。
その微笑みは、とてもよく似ている。
そう、二人はそんなにも――。
「あなたは私と同じね。あなたが死を恐れないのは、死よりも怖いものがあるから。……そうでしょう?」
「同じ? ………ああ、そうかもね。あんたは卑怯で、邪で、臆病者だ。それに狂ってる。……俺みたいに」
ラウルもまた笑う。
虚ろな瞳で。
緩んだ頬で。
取り憑かれたように痙笑するラウルを見て、彼女もまた声を上げて笑った。嬉しそうに、可笑しそうに。
「あはは……。あははははははっ!」
「ふっ、はははっ。はははははははっ!」
いい気分だ。
知っている。これは、――スカイ・ハイ。
いかれてしまった脳みその、辛うじて理性らしきものが残っている場所で、ラウルは気付いていた。これは空に堕ちた者たちの、狂気の共鳴。眠っていたはずの狂気が、眼を覚ましたのだ。
そしてその理性の残りカスも、彼女の狂気にあてられて消えた。
「――好きよ、あなた。ぞくぞくするわ」
「そりゃあ、光栄だね」
「……さようなら、ハイランダー。あなたは私が、地に還してあげる」
薄く笑い、
『白兎』は、引き金を引く。
『――イグニション』
刹那、乗り捨てられていた赤いマシンが、まばゆい光を放った。
ラウルの額めがけて放たれた弾丸を逸らしたのは、残像を残して吹き抜けた赤い突風だった。
緋色の瞳が『白兎』を見据えた。
燃えるように赤いその瞳ほどに熱く、熱く炎が燃え上がる。
幻覚などではない。弾丸を弾いたその右手は燃えさかる炎を纏って揺れていた。
黒いロングマフラーをなびかせ、それはすでに人の姿をしていなかった。
「オ、ォオオオオオオ!」
獣のような姿に、教会内が凍り付く。
ただ一人、『白兎』が止めていた息をゆっくりと吐き出すようにつぶやいた。
「まさか、ドラゴ・フォーム!?」
「………胆が冷えたぜ、ラウル。こんなのは二度とごめんだ。……あたしを殺す気か?」
弾丸のかすめたラウルのこめかみからは血が滴る。
軌道が数ミリでもずれていれば致命的な傷になっていただろう。それなのにラウルは笑って、人差し指の銃口をぶれることなく『白兎』に向けたまま。
「気を付けた方がいい」左手でこめかみを覆い、ラウルは。
「聞こえなかったのか? 俺の銃は、――ちょっとばかり熱いぞ?」