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1.飛行船事故 ステラ編

 長いカーペットの向こうで、木製の大きな扉が観音開きになる。差し込んだ一筋の光は埃臭い部屋であっという間に広がり、眩耀に眼を奪われる。一歩一歩、確かめるように赤い絨毯を踏みしめ現れた女性は、祭壇の前まで来てやっと粛然とした表情を少しだけ崩した。

 迎える男性は彼女の手を取り、そして並び立つ。


 不意に天窓から日が差し込み、純白のドレスをより一層輝かせた。

 誓いの言葉。

 神父に促されるままに二人は向かい合う。


 ――それは、『契約』に似ていた。バディとなるアンジェロイドとハイランダーのように、彼らもまた命ある限り共に生きてゆくのだ。

 祝福の拍手に包まれる誓いのキスを、懺悔室の片隅から見つめる一人の影。息すらつかずに少女は、その大きな瞳をきらきらと輝かせていた。


 サドレア、サウスフィールド。

 サンドラゴ教会。

 かつてのターミナル駅の廃屋を利用した古い教会である。今はこうして親マキナ派の貴族の結婚式に使われる以外には、礼拝に訪れる信者たちも決して多くない。

 貴族の嫡子と軍人の娘による厳かな結婚式は粛々と執り行われ、来賓の人々は続いて行われるパーティに赴くためサドレア郊外の屋敷へと向かう。

 特別にこしらえられた豪華なフォーホイール・ビークルに颯爽と飛び乗るのは花婿。人生で一番の笑顔と純白のウェディングドレスを携えて、花嫁もまたビークルに乗り込む。


「――私ね、今日で十二歳になったの、神父様」

「そうかね。今日は良い日だ」


 仕事を終えた神父は、にっこりと笑ってそう応えた。だけど少女の瞳は神父の顔ではなく去ってゆく花嫁のウェディングドレスに向けられていて、少女の言った言葉の意味が分かった神父は困ったように微笑んだ。


「………あと五年、かな」

「そ、そんなに……!?」


 賢い少女だ。すぐに神父の言葉の意味を察して驚きのまなこを向ける。


「だけど私、もうじゅうぶん大人だよ! ウィンド・ビークルにだって乗れるんだから!」


 今度は神父が驚く番だった。

 ウィンド・ビークルは一般庶民の持てる代物ではないし、そもそも乗れるのはハイランダーだけだ。それも、訓練を重ね、熟練した者だけが。それを、戦争孤児である少女が練習もなしに乗るなどということは到底考えられない話だった。


「ああ、もう行っちゃう……。もう少し見ていたかったのに」


 神父の驚きなどそっちのけで少女は唇を尖らせる。真偽を質そうと口を開きかけた神父の言葉を遮るように、背後でギィと音が鳴った。

 小さな身体に似合わぬ大きな翼。立っていたのはマキナの少年だった。

 歳は少女と同じくらいか。重い扉を開けて入ってきた汚い身なりの彼を、年老いた神父は止めなかった。両手いっぱいの食べ物を抱えた小さな腕にはおびただしい傷とアザ。顔の半分は誰かに殴られたのか、大きく腫れ上がって原形を残していない。


「――ステラ」


 その声を聞いて、少女は一度隠れた祭壇の影から飛び出した。


「今戻ったよ、ステラ。今日は大漁だ」

「メル! ああ、メル…! またそんなに傷だらけになって……! どうしよう、神父様。これじゃメルが、メルが……!」

「大丈夫だよ、ステラ。僕は平気さ。さぁ、帰ろう」

「だけど……、だけど、メル。背中の装備が剥がれてるし、血もこんなに出てる。これじゃ空も飛べないよ!」


 剥き出しになった配線。削ぎ取られた生体金属。右膝のベイガング器官は潰れてしまっていて、機能しているようにはとても見えない。

 黙っていられず、神父が歩み寄る。


「そう急ぎなさるな、メル。外はまだ明るい。闇夜がお前の灰色の身体を隠すまで、今はここで休むがいい」

「そうよ、メル! 今外に出たら、また大人たちに狙われちゃう」

「だめだよ、ステラ」少年は、確固たる口調でそう告げた。

「あいつらは僕らの逃げ場所がここしかないことを知っている。ここにいたらいずれ見つかってしまうよ」

「しかし、ここは教会で、今日は聖なる祝日だ。ウォルフ神の御前で銃を振り回す者などおりはすまい」


 神父は少女の肩に手を置き、そう言った。

 現に少年は食料を盗みに行っている間、必ず少女を教会に預ける。安全な場所など、ここより他にないからだ。

 だがそれでも、少年は頑として首を縦に振ろうとはしなかった。


「ありがとう、神父様。だけどここは罪人が改心する場所だ。僕にはふさわしくない。僕が罪人であることをやめてしまったら、僕らは生きていくことができなくなってしまう」

「しかし……」

「それにね、神父様」


 何かを言いたげな神父を口先を制し、少年はにこりと笑って言った。


「神様じゃ、ステラを守ることなんてできないよ」


 その言葉の本意よりも、そんな言葉を年端も行かない少年が笑顔で口にしてしまえることに落胆し、神父は言葉を失ってしまった。


「そ、そうだ! ねぇ、神父様、今日のお話をまだ聞いてないわ。今日はメルも一緒に聞きましょう?」

「ステラ――」

「昨日の話がまだ途中なの。神様が、世界を創るお話。ね、いいでしょ?」


 少年は仕方なさそうに渋々うなずく。

 少女は神父を見上げて笑った。明るく、聡明で、そして強い娘だ。どうしてこんな子供を捨てる大人がいるのか、理解に苦しむ。

 神父は彼女のために、できるだけ長い話を選んだ。話し終えるのに日が沈むまでかかるくらい、長い話を。


『神がいた。神は大地を興し、水で潤した。

 龍がいた。龍は風を起こし、空に炎をともした。

 大地は空と出会う。世界は、そこに生まれた――』


 その一節から始まる創世記は、聖書の冒頭に記されたこの『世界』の物語。


『神は自らを模してグラウンダーを作り、

 龍は自らを模してドラゴノイドを作った』


 生命としての起源を異にし、だが長い共生の歴史の中でお互いの姿を似せてきた二つの種。イソギンチャクとクマノミのように、あるいはアリとアブラムシのように、彼らは互いを助け合うことでこの一つの地上を分かち合ってきた。

 一つはヒューマン。優れた知能と演算能力、そして豊かな発想力を以てあらゆる環境に適応してきた思考の民。またの名をグラウンダー。

 そしてもう一つはマキナ。ヒューマンとは根本から異なる生体構造を持ち、絶大な出力で飛翔するその姿から、古い伝説の聖獣の名をもじってこう呼ばれていた。ドラゴノイド、と。


 両者を切り離して語ることはできない。

 ヒューマンはその好奇心故に空に焦がれてマキナを欲し、マキナは地上の文明に触れてヒューマンの知力を求めた。

 だがドラゴノイドとの契約は血の契約。契約者は重い代償を背負わされる。それでもなお空に選ばれた者は血の契約を辞さず、空を開拓し、彼らは『ハイランダー』と呼ばれ称えられた。貴族と呼ばれる者たちの始まりでもある。

 共進化の歴史の中で姿を変えたのは、ドラゴノイドも同じだ。数千年という歳月はヒューマンをよりマキナに近付け、マキナをよりヒューマンに近づけた。


 ヒューマンは『グラウンダー』から『ハイランダー』へ。

 マキナは『ドラゴノイド』から『アンジェロイド』へ。


 古くさい血の契約は、もう彼らには必要ない。

 契約の代償とも無縁だ。ドラゴノイドの血は絶え、アンジェロイドという言葉はマキナと同義になった。逆にハイランダーの素質を持つ者はその数を増やし、もはや貴族だけにとどまらない。


「――ドラゴノイド?」


 と少女の舌足らずな声が物語を遮る。


「いにしえの血と旧きドラゴンの力を持った龍の子だ。『緋龍神話』を知っているかい?」


 少女は首を振る。

 神父は記憶に仕舞った分厚い聖書の一節を一言一句違わずにそらんじた。


『紅き龍は空を焼き、地を奔る。

 青き月の灯りを喰らい、そして、天に堕ちる』


 すっと眼を細めた神父の顔を食い入るように見つめる少女の傍らで、少年はふいと目をそらした。慈悲に満ちた瞳を、神父は少年から少女へと向ける。


「契約者を喰らい、ドラゴンへと『孵化』する。それが、ドラゴノイドだ」

「そんなの、聞いたことないわ」


 少女は必死に神父を見上げて訴える。そこで初めて神父は、少女が恐れているのだということに気付いた。そっと少女の頭に手を添え、


「ああ、怖がらせてしまってごめんよ。……だけどね、()()()()()()()()()()()()()()。英雄と呼ばれた昔の貴族たちはそんな宿命を抱えて空を飛んでいたんだ。彼らのおかげで、今の繁栄がある」

「だけど――、……貴族は嫌いだ」


 と。神父と目を合わせぬまま、少年は嘯いた。


「貴族だけじゃない。大人はみんな自分勝手で、わがままで、嘘つきだ。自分以外の人間を守ったりなんかしない。子供にはきれいごとを言うくせに、自分たちは平気な顔をして他人の大事なものを奪い合う。だから、こんな汚い世界になるんだ」


 窓の外、遠くに見えるスラム街の影を見つめ、そう吐き捨てる。少女はしゅんとこうべを垂れ、口を閉ざした。

 奪わねば得られず、逃げなければ殺される。まさしく少女の生まれた世界は、少女の知る限り力のないものに厳しく、苛烈で、理不尽だった。

 この世界で『子供』であることは力を持たないということであり、それはつまり生きる資格がないということらしかった。

 そんな子供が一人で生きていくことすら難しいこの世界で、だけど彼は違った。

 空を駆け、拳を振るい、牙を剥いて『世界』に敢然と立ち向かう。


「この世界は、……もっと嫌いだ」

「だけど――」


 けれど世界を否定されることは、二人が出会ったことさえ否定されることになるような気がして、少女は必死に喰らいつく。


「こんなみにくい世界だけど、この場所だけは、好き」


 場末の荒野にぽつんと佇む、さびれた教会。

 世界の果てに神様が気まぐれで作ったようなこの場所だけは守ろうと、少女は少年を見上げた。一瞬驚いたような顔をした少年の表情に笑みが浮かび、少女は少しだけ安堵する。


「………きっと守る」


 少年は言った。少年の瞳は真摯に海を見下ろし、少女は澄んだ瞳で空を見上げる。


「結婚しよう、ステラ。いつか僕らが逃げ出さなくても生きてゆけるようになったら」


 少年は唐突にそう言った。少女は僅かに目を見開く。だがそれ以上驚くこともなく、静かに祭壇の十字架を見上げた。天窓から差し込む光芒を受けた白いドレスが、少女の目に焼き付いた花嫁の笑顔が、泣き出したくなるほど幸せな光景が、虚空に浮かび上がる。


「今から五回目の誕生日――。僕らがまだ大人になる前に、君の好きなこの場所で、二人だけで結婚式を挙げよう」


 ――教会を出ると、やはり二人を待ち構えていたのは暴力と罵声だった。

 その日の食に困った浮浪者たちが少年たちの糧を奪おうと顔色を変えて襲いかかる。食料の詰まった紙袋を少年は片手に持ち替えると、少女の手を掴んで走り出した。追いすがる者には石つぶてを投げ、立ちふさがる者には小さな拳で立ち向かう。


 少年は少女の身体を抱きかかえると、傷ついた翼を懸命に開き、飛んだ。

 飛んで、走って、這いつくばって、たどり着いたのは丘の上の共同墓地。広いスラム街と西ケルク海を一望できる、二人だけの秘密基地。名もなき戦死者たちの墓参りに来る奇特な人間ももういない。

 そこはシーフラワーの咲き乱れる忘れ去られた場所。こんな場所まで、遠く離れたスラム街から追ってくる者もいない。鉄道が敷かれるより前からあるらしい小さな神殿の片隅で、とうとう少年は力尽き地に倒れた。


「……メル!」

「大丈夫。………大丈夫だよ」


 と少年は少女以外の誰にも見せない笑顔を作ってみせた。それが少女の心をどれほど傷つけていたのか、これっぽっちも知りもせず。


「ねぇ、メル――」


 まだ少しだけ荒い呼吸に小さな胸を大きく上下させ、たまった唾を飲み込むと、少女はそう口にした。苦しそうに、だけどはっきりとその言葉を。


「もしも――、もしも結婚することができて、逃げ出さなくても生きてゆけるようになったら、その時は――、私ね、……メルと一緒に空を飛びたい」


 小さな胸にあるちっぽけな勇気をありったけ振り絞って、少女はそう言った。困ったように、少年は首をかしげる。


「空を……?」


 少女は小さくうなずく。しばらく黙っていた少年は、だけどそうはしなかった。


「……知ってるだろ、ステラ。空は()()()だらけなんだ」


 少年が言っているのは『セイラー・ミセル』のことだ。

 バルクレイター器官が推進力を生むための触媒であり、マキナやウィンド・ビークルが空を飛ぶためになくてはならない未知の物質。だがその未知の物質が持つ看過できない特性については、知らぬ者も多かった。


「あれは麻薬だ。ヒューマンにとってはね。そのせいでこの前は危うく死ぬところだったじゃないか。スカイ・ハイまで体験したんだろう?」


 スカイ・ハイ――それは高濃度のセイラー・ミセルを吸入した者に訪れる強い恍惚感。

 空に酔い、思考が麻痺し、理性に閉じ込められた狂気が顔を出す。と、言われている。

 廃棄されたウィンド・ビークルに乗って初めて空を飛んで逃げたその日、少女は自身の奥底に眠る狂気にあてられて墜ちた。間一髪で少女は少年に救われたが、それ以来スクラップ置き場から盗み出したマシンは神殿の奥に隠してある。


「知ってる! だけど、私――」

「だめだよ、ステラ。ただでさえ君は空に酔いやすいんだ。これ以上空を飛んでごらん、いつか天国中毒者(ヘヴン・ジャンキー)になって、()()()()()


 すねる少女を、少年はあえて強い言葉でたしなめた。だがその言葉は決して単なる脅し文句などではなかった。セイラー・ミセルの本当に恐ろしい特性はその依存性にある。

 本来セイラー・ミセルは少量でも頭痛や嘔吐をきたす劇薬だ。対する耐性を獲得したものだけが空を飛ぶことができる。適合者――つまりハイランダーのことだ。耐性の強い者ほどセイラー・ミセルの流れを的確に掴み、より速く飛ばすことができる。その反面、そういった者ほど中毒に陥りやすい傾向があった。

 少年は気付いていたのだ。彼女の、異常なまでの適性、耐性に。そうでなければ、初めて跨ったウィンド・ビークルを見よう見まね程度で飛ばせるはずがない。たった一度の飛翔でスカイ・ハイになど、なるはずがない。


「それに、いざという時は一緒に飛んでるじゃないか。今日だって僕が抱えて……」

「……そうじゃなくて。私は――」

「何度言ってもだめなものはだめだよ。ウィンド・ビークルに乗るのは――」

「ウィンド・ビークルなんていらない!」


 少女は声を荒らげ、少年はたじろいだ。


「そうじゃない。私は、――メルと()()()飛びたいの」


 少年はハッとした。彼女の言っている言葉の意味がようやく理解できたからだ。それは、少年が最も恐れていた言葉でもあった。


「知ってるよ。私。マキナとヒューマンは、一緒に飛ぶことができる。マキナはウィンド・ビークルみたいなかたちに変身することができて、限られたヒューマンだけがそのマキナに乗ることができる。………()()()()()、ハイランダーって言うんでしょう?」

「だめだ……、ステラ」

「メルだって()()()()はず。()()()は一緒に飛べる。……今すぐにだって」


 いつだって少女はさびれた教会で一人ぼっち、少年の帰りを待ち続けていた。

 食料や金を盗んで帰ってくる少年の身体から傷が消える日はない。毎日その身体の傷を整備するおかげで身についた整備技能ですら、何の役にも立たないほどの大けがを負う日もあった。

 それでも少女は少年の身体の整備をやめなかった。一人では生きられない自分を守ってくれるただ一人の幼馴染みに返せる、数少ない恩返しの一つだったからだ。来る日も来る日も少年の身体を整備し、そしていつしか自分の中に秘められている能力に気が付いた。

 誰から教わるわけでもなく知り得た整備知識。見たこともないウィンド・ビークルを操り空を飛ぶ技術。そして何より、空を求める本能。隠しきれないほどの渇望。天賦の才。


 ――ハイランダー。

 言葉でなら何度も聞いたことがある。

 自分を指す言葉だと、誰に言われるでもなく、少女は()()()()()


「………だめだ」


 それでも、少年は決してうなずこうとはしなかった。

 どうせ後でどうとでもなる約束だが、それでも少年は曖昧な言葉ではぐらかすことなどできなかった。それはつまり彼女に嘘をつくということで、彼の最も忌み嫌う行為だったからだ。

 その全部を腹の底に押し込めて、少年は短い言葉一つで少女を拒絶した。


「それは、できない」

「どうして――」


 その葛藤を、幼い少女は知るよしもなくて、駄々をこねる。


「私と()()するのが嫌なの!?」

「…………ごめん」

「~~~~っ!」


 その一言に、とうとう少女は癇癪を起こした。


「馬鹿! メルの、ばかぁ!!」

「……ステラ――」

「知ってるんだから、私。マキナとヒューマンじゃ結婚なんてできない。何が『大人は嘘つきだ』よ。嘘つきは、あなたの方じゃない…!」


 少年は口を閉ざす。少女の瞳には涙がたまっていた。


「何で、……何であやまるの……? ………もう、あっち行って! 行ってよ! メルなんか、メルなんか……、大っ嫌い!!」


 そっぽを向いてしまった少女に少年は何かを言いかけて、やめた。

 代わりに、「もう一度、街へ降りてくるよ」とそう告げて少年は静かに立ち上がった。二度か三度、少女の方を振り返ったけれど、少女は目も合わせてやらなかった。

 少年はまた食料を奪いに行ったのだろう。街に降りる理由など、他に見当たらない。彼が今にも倒れそうなほどの重傷だと思い出して、すぐに少女は後悔した。


 嘘つきは自分の方だ。いつも身を挺して守ってくれる彼のことを「嫌い」になど、なれるはずもないのに。だけど、まだ幼い彼女にはどうしても割り切れなかった。


 怒りは悲しみに似ていて。

 自然と足は共同墓地のてっぺんへと向かう。道は湾に面した断崖を最後に終わり、そこはシーフラワーが一面に咲く彼女のお気に入りの場所だった。嫌なことがあったとき、泣きたくなるほど辛い目にあったとき、いつも彼女の心を癒すのはその場所だった。

 眼下に広がるのは、暗く広い海と、その先に見える街の灯り。


 その日は、『降臨祭(クリスマス)』と呼ばれる祭の日らしかった。

 何でも、大昔に空を飛ぶドラゴンが地上に舞い降りた聖なる日なんだと、そう神父様が言っていた。どうしてドラゴンが降りてきた日を祝うのかは分からなかったけれど、海の向こうに見える外の街は祭に向けて準備に追われているようだ。みんな楽しそうに見える。今のステラには遠い世界の出来事だけれど。


 シーフラワーに埋もれて座り込んでからどれだけの時間が経っただろう。

 あたりはすっかり夜闇に包まれていて、満天の星の中、東の空には月が控えめに顔を出していた。仰向けに寝転がって空を見上げると、耳元で枯れかけたシーフラワーが根から折れた。毎年『降臨祭(クリスマス)』の時期を境に、シーフラワーと入れ替わるようにスカイフラワーが咲く。

 互いが咲いた土壌でしか咲かないくせに、決して一緒には花を開かない。

 花言葉は一対で一つ。


『交わることのない想い』


 ――違う!

 少女は何かを振り払うように飛び起きた。青い花びらが舞い上がり、少女は途方に暮れたようにまた空を見上げた。

 その時、厚い雲の上から大きな影が落ち、強い胸騒ぎが少女を襲った。


「――飛行船………?」


 その巨体は水素ガスによって空を飛ぶエアクラフト。

 ウィンド・ビークルを扱えない者でも空を飛ぶことを可能にした画期的な発明品だ。この数年で何度か見る機会があった。


「………あれ? ………………え?」


 しかし、何かがおかしい。

 気付いたときには駆け出していた。

 共同墓地の墓石の間を駆け下り、壊れた神殿の中に駆け込む。雑草をかき分け、丈夫な布きれを引きはがすと、瓦礫の中に隠した一台のウィンド・ビークルが姿を現した。スクラップ置き場から盗んで持ち出したものだ。

 万が一の時以外使わない、とメルと約束したウィンド・ビークル。一瞬の逡巡はあったものの、シェリルはすぐにそれを振り払い、ぼろぼろになったサドルに跨った。

 乗るのは二度目。メルの言いつけを守らないのは初めてだ。ふるふると首を振ると、少女は覚悟を決めてウィンド・ビークルのイグニションを捻った。

 久しく眠っていたアンティークマシンだったが、シェリルの操作に機敏に応答する。轟音を上げてマシンが宙に浮いたとき、飛行船はすでに航路を外れて山の斜面へと向かっていた。


 ――墜ちる。


 シェリルの不安は的中した。

 スロットルを大きく開けると、シェリルの乗ったウィンド・ビークルはふらつきながらも飛行船を猛追する。高度を上げるほどに肺を満たすセイラー・ミセルはその濃度を増していき、延髄から大脳に氷水をぶちまけたような冷感が走り抜ける。背筋には悪寒が走り、逆に体幹が燃えるように熱い。胸の鼓動は高鳴り、拡張した血管が更に多くの麻薬物質を体中に送り込む。脳がぐらりと揺れるような快感にも似た強烈な感覚をぐっと噛み殺し、少女は更に高度を上げ、飛行船へ迫った。


 白色灯で照らされた船内に、惑う乗客たちの姿が見える。みな華美な服を身に纏った貴族たち。その中の一人が窓の外の少女を指さし何事かを叫んだ。少女と似通った年頃の女の子。少女とは着る服から住む世界まで違うお嬢様たち。だけど、少女にとってそんなことはどうでも良かった。


「――()()()()()


 方法も思いつかないままにそう決めた。

 自分の力が、誰かの役に立つのだと示したかった。――だけど。

 伸ばした少女の手は、飛行船に届く前に自分の胸を押さえて握りしめられた。どくん、と心臓が大きく跳ねる。これは――。


 ――スカイ・ハイ。


 少女の意に反してぐらりと傾いた少女のウィンド・ビークルを、遅れて爆風が吹き飛ばす。

 飛行船の爆発は壮絶だった。数百ヤード離れていた少女の身体も、風に揉まれる落ち葉のように舞い、そして墜ちた。


「……ステラ!」


 次に少女が目覚めたのは、あたりがすっかり混乱と絶望に包まれてしまってからだった。


「目を覚ませ、ステラ! ステラ!!」

「………メル……?」


 何が起こったのか、すぐには理解できなかった。身体じゅうを震わせるほどの爆音のせいで耳鳴りがおさまらず、余りの熱量と光量に未だ目眩がする。どうやって着陸したのかも覚えていないけれど、少女にはすぐに分かった。きっとまた、少年に助けられたのだ。

 どうしようもなく悔しくて、少女は少年と口をきけなかった。

 まわりは炎に包まれていて、遠巻きにたくさんの人々が集まり固唾をのんで取り囲んでいた。その中から数人、現場にいち早く到着したらしい制服の大人たちが近寄ってきた。


「……現場にいたのはこの二人だけか?」

「はい、ケルクハート隊長。他に生存者は見当たりません。………誰も――」


 部下の報告を聞いた制服の男は鬼のような形相で歯を食いしばると、その顔をそのまま二人に向けた。眼光だけで人を殺してしまいそうなほどの視線に耐えきれずに少女は涙を浮かべる。

 それでも少年は負けじと制服の男を睨み返した。


「……やったのは貴様だな」

「違う。僕らは後からここへ来ただけだ」

「勘違いをするな。私はその女に聞いているのだ!」


 びくん、と少女は肩を上下させる。


「墜落を見たのはお前だけだ。それに、空を飛んでいた。他の誰にあれを墜とせる」

「違う! ステラにそんなことできない! あれは事故だ!!」

「できるできないの話ではない。あれは最新の船だ、事故など()()()()()()()()()()()!」


 とりつく島もなく男はそう断じる。

 少年はその時、理解した。どうやらこの男は、少女を犯人に仕立てようとしている。誰でもいいのだ。誰かに罪を着せ、怒りをぶつけることができるのなら。

 男の付けているあの腕章は見たことがある。あれは、王帝府直属、聖騎士部隊の隊章。貴族たちが作った組織の、飼い犬たちだ。この世で一番ずるくて、狡猾で、卑怯な大人だ。どこまで行っても二人の前に立ちふさがるのはこの世の理不尽さと、身勝手な大人たち。生え替わったばかりの八重歯をぎり、と噛みしめ、少年は男を睨んだ。


「……ちがう! あれは……、あれをやったのは――僕だ。僕が墜とした」

「嘘をつけ!」

「嘘つきは……。――あんたたちの方だ……!」


 たまらず少年は吠え、男は僅かにたじろいだ。

 対峙し、睨み合い、そして男が先に折れた。


「…………いいだろう。話はこちらでゆっくり聞かせて貰う。ついてこい!」

「ち、違う、待って! メルは何も悪いことはしてない! 悪いのは、わたしの方なの!」


 少女は叫んだ。ありったけの声で、ありったけの想いで。私から彼を奪わないで、と。

 それは命乞いにも等しかった。


「待って、メル…! お願い、行かないで!」


 まだけんかしたときのことを謝ってない。

 言い切れないほどの感謝の言葉をまだ渡してない。

 ――だから!


「大丈夫だよ、ステラ」


 つと足を止め、少年は振り返る。だけど、少年にはもう笑いかけること以外に少女を守る手立ては残されていなかった。今までで一番の作り笑顔で少年は誓う。


「――きっと、迎えに行くから」


 そして残ったのは、果たされるあてのない約束だけ。

 まるで悪い夢でも見ているようだ。夢なら、早く覚めて。嘘だと言って。うわごとのように繰り返す。

 こんな世界を神様が創るはずがない。こんな不条理を、神様が許すはずがない。だからこれはきっと夢で、

 ――そう、きっと、セイラー・ミセルが彼女に見せる幻なのだ


「……………ねぇ、……おしえて、かみさま。………どうしたらこの夢は覚めるの?」

『あそこです、侯爵。彼女が唯一の生存者です!』


 不躾な声が少女の背中を叩く。振り返ると、そこには恰幅の良い初老の男性を取り囲むたくさんの人がこちらへ向かっていた。


「おお、神よ、感謝します。こんな大惨事の中、我が孫娘を生かしていただいたことを」


 大仰に天に向かってそう言うと、恰幅の良い老人は自分の服が汚れることを気にもせず少女を抱きしめた。当惑する少女と一通りのハグを交わすと、張り付いたような笑顔で老人は言った。


「――え?」

「よくぞ生きておった。お前の両親は不幸なことになったが、お前だけでも還ってきて、本当に良かった」

「だ、だれ、おじいさん……? わたし――」

「いいんだ。何も言わなくていい。怖かったろう、さぁ屋敷へ戻ろう。――()()()()


 少女は慌てて老人の手を振り払う。老人は驚いた風な顔を作り、困ったように笑顔を少しだけ歪めて見せた。


「ち、違う……! 私、『シェリル』なんて名前じゃないわ。私は――」

「シャーロット侯爵。恐らく彼女は精神的なショックで記憶が混乱しているのでしょう。今は休まれるのが一番かと」

「違うわ……! そんなんじゃない、私、わたし――」


 ――助けて、メル。

 そう言いかけて、少女は口をつぐんだ。助けてくれる少年はもういない。

 いつだって、片時も離れず傍にいた彼は、もう飛んできてはくれない。少女は、一人では何もできない。悔しくって、寂しくって。苦しくて少女は泣いた。大粒の涙をこぼして泣いた。


 その日、ステラという名の少女は死んだ。


***


 天井の高い小さな部屋で、シェリルは目を覚ました。

 サンドラゴ教会の控え室は、幼い頃に彼女が花嫁の衣装を覗き見していた頃から変わらず瀟洒で小綺麗で華やかで。だけどあの頃ほど輝いては見えない。

 憧れだった純白のウェディングドレスを身に纏い、押しも押されぬ大貴族の子息との結婚式を目前に控え、だがそれでも、シェリルの気持ちはちっとも晴れなかった。


 新郎の名はクラウス・シュミット。

 伯爵家でありながら王家の血を引く紛れもない王族でもある。王位継承権さえ持たないが、それ故に彼のフットワークは軽く、彼自身の快活な性格も相まって家の内外からの信頼も厚い。

 何より衆目を集めるのは、一流の絵画師が筆で書いたような端麗な容姿だ。どういうわけだか一地方貴族の一人娘に求婚した彼の、裏表のない笑顔に、シェリルもまた確かに惹かれていた。

 子供のように笑い、一緒に空を見上げてくれる彼はシェリルの心の支えにもなったし、彼の愛情もストレートに伝わってきた。一緒にいると、心が温まった。きっとこれが『好き』だということなんだ、とシェリルは気付いた。社会的な地位も、眩しいほどの美貌も有していながら、誠実で、真面目で。

 そして何より彼は、()()()()()だった。


「お目覚めですか、お嬢様?」


 どうやら衣装直しの途中で眠ってしまっていたらしい。

 着付師も、護衛兵もいない部屋でただ一人シェリルの目覚めを待っていたのは、サルディーナだった。使用人、兼、ボディ・ガードとして帯同しているサルディーナの仕事は、シェリルの挙式を邪魔するもの全てを排除すること。そしてその任務は間もなく完遂されようとしている。

 だというのにその面持ちはどこか冴えないままだ。


「……うん。うたた寝しちゃった。昨日から、ずっと慌ただしかったから」

「昨日の今日ですから、疲れもたまっていたのでしょう」


 空賊(エルモ)()()()()シェリルが保安隊に保護されたのが昨夜のことだ。それからシュミット、シャーロット両家は予定通り式を挙げることを決定した。シェリルの逃避行は、それと知られることもないまま失敗に終わったのだ。


「……夢を見てた。懐かしい夢。まだ私が、空を飛んでいた頃の、夢を――」


 何でも知っていると思っていた、昔の自分。

 だけど、何も知らないのは彼女の方で、いつだって彼女だけだった。

 五年前の飛行船事故についてもそうだ。その日何が起こったのか、知らなかったのもやはりシェリルだけだった。犠牲者リストに上った名前は百を超え、その中にはシャーロット家の親子もまた名を連ねていた。飛行船からの生存者はゼロ。シャーロット家の夫妻とその一人娘が屋敷に戻ることはなかった。


 だが、跡取りがいなくなることはシャーロット家にとって大問題であった。

 後に情報は改ざんされる。

 飛行船墜落事故の生き残りは一人。シャーロット家の一人娘、シェリル・シャーロット。

 似通った歳に、似通った顔つき、実際に現場に居合わせたことと、何よりハイランダーであることが決定的だった。暴力と飢えから解放される代わりに、その日からシェリルはシャーロット家の一人娘を演じて生きることを強いられることになる。

 名を捨て、幼馴染みを奪われ、辛い躾を受ける日々が続いた。『シェリル』という孫の名を着せるため、シャーロット家の当主は彼女を徹底的に『シェリル』に仕立て上げた。豪奢な服も、温かい食べ物も、優雅な生活も、彼女の心の支えにはなり得ない。

 それでも耐えることができたのは、五年も前に交わした不確かな約束のおかげだった。


「――ドラゴノイド、か」


 彼もまた、ドラゴノイドだった。

 ドラゴノイドのことも、その運命も、知らされたのはずっとあとのことだった。結局のところ、彼はずっとシェリルを守り続けてきたのだ。たとえどんなにシェリルから罵倒されようと。

 その彼も、飛行船事故を引き起こした首謀者の罪を着せられ、捕まった。サルディーナが言ったように、反逆者の罪は重い。仮に逃げ延びていたとして、身寄りのない彼が今も生きている確証はない。それでもシェリルは待っていた。彼が約束を果たし、迎えに来る日を。貴族としての辛い生活から逃げ出すことも、刃向かうこともなく、ただその約束だけを頼りに、生きてきた。

 会いたかった。そして謝りたかった。最後にかけてしまった、あの酷い言葉のことを……。


 ――だけど。


「サラ――。私ね、今日で十七歳になったんだ」

「……ええ、存じておりますわ」

「本当に結婚、するのね」

「………ええ」


 だけど、それも、今日でおしまい。

 頭の中に巣喰う灰色のドラゴノイドの亡霊を振り払い、シェリルは立ち上がった。ヴァージンロードの向こうに、あの人が待っている。


「――行こう、サラ」


 言い聞かせるようにシェリルは告げた。

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