5.血の盟約
「おもしろい飛び方するのね。……久しぶりよ、一発で仕留められなかったのは」
そう言って銀髪の少女が近づいてくる。
仮面のせいで少女の瞳の色は読めないが、代わりに虚ろな銃口と目が合う。
「君こそ、不思議な飛び方をする。まるで、自分の手足、みたいだ。あんなのは、……見たことがない」
じんと痺れる胸に大きく息を吸い込み、苦しそうに、辛うじてそう聞いた。
「だけど、サドレアの運び屋は、みんなこう乱暴なのか?」
「そうでもなかったわ」
少女のその回答で、ラウルは自分の仮説が正しいことを確信した。
シルヴィーナの手配した運び屋は、ここへは現れない。彼女たちの手により妨げられ、そしてこの受け渡しのことが彼女たちに知られてしまったのだ。
ラウルは奥歯を噛みしめた。
彼がシェリルの願いを叶えたいと思いさえしなければ、シェリルはこんな危険な目に遭うことなく、サドレアの結婚式場へとたどり着いていたはずなのだ。
そして、シェリルの手配したサドレアの運び屋もそうだ。無用な争いに巻き込んでしまった。
すべて、ラウルの考えの浅はかさ故の末路だ。
「……殺したのか?」
と、おそるおそるラウルは尋ねた。
「口を割る程度に痛めつけただけよ。あなたも、同じ目に遭ってみる?」
声も仕草も話し方も、明らかにラウルよりも年下だ。だが、それだけに突きつけられる拳銃とのギャップが余計にラウルの恐怖感をあおった。
「……放っておけ、『白兎』」と、マキナの男が初めて口を開いた。
「目的は果たした。すぐにここを離れるぞ」
鶴の一声というのはこのことだろう。
ラウルに銃口を向けていた少女は、渋々ラウルの三つ編みを血染めにすることを諦めた。
白兎というのはコードネームか何かだろう。何者かは分からないが、どうやら『目的』とやらはシェリルのことらしい。
――どくん、と心臓が高鳴る。
これは、幸運だ。
彼らはすでに自分を殺す機会を失った。おそらくこのまま黙って倒れていれば、ラウルの命まで危険が及ぶことはもうないだろう。
だが。
このままではシェリルが連れ去られる。
彼らが何者なのか、シェリルをどうするつもりなのか、そんなことはまるで分からないが、ひとつだけ分かるのは、シェリルの行き先は結婚式場でもなければ『約束の場所』でもないということだ。
こんな時にいつも颯爽と現れ、助けてくれるキディはいない。
――彼女なら。
彼女ならどうするだろう?
絶体絶命の危機に、キディは――。
『貴族を敵に回すんじゃ。……反逆者になるんじゃぞ!?』
『何言ってる。――それが面白いんじゃねぇか!』
葛藤している暇などなかった。
見捨てて、生き延びるか。
足掻いて、死ぬか。
面白いのはどっちだ?
つまらないのは、どっちだ?
どくん。どくん。
――どくん。
「――へぇ、『白兎』っていうのか。可愛い名前だな」
ぴたり、と少女の足が止まる。
煙を上げているウルフドッグⅡに寄りかかったままラウルは顔だけ上げて少女を見つめる。
腕も足もやっぱり痺れていて、走って逃げることはおろか、立ち上がることすらできない。そうでなくてもラウルの腕で太刀打ちできる相手でないことくらいは火を見るより明らかで。だからそれは、誰の目にも自殺志願者か、そうでなければ救いようのない大馬鹿ものにしか見えないセリフだった。
「俺を殺しておかなくていいのかい?」
「……殺してほしいの?」
月の光を纏ったような銀髪を柔らかい風になびかせ、『白兎』はラウルを見下ろす。想像以上に冷徹な言葉に、ラウルもまたにこりともせずにかぶりを振った。
「ああ、いや、冗談だ。………そうだな、ええと。君の声が聞きたくて言ってみただけだよ」
「馬鹿な男。折角生き延びられるチャンスを自分で潰すなんて」
『白兎』は一度しまった銃を取り出し、その銃口をラウルに向ける。
シェリルは、唖然としてラウルを見ている。何を馬鹿なことを、とでも思っているのだろう。放っておけば助かるのに。
そう、彼は確かに馬鹿な男だった。
馬鹿で、向こう見ずで、浅はかで、――狂っていた。
「………想像通り、可愛い声だ。澄んでいて、穢れてない。――そう、この空みたいに」
「死ぬ前に何か言っておくことは?」
ラウルの全力の口説き文句を、だが少女は一蹴した。
ラウルは小さくため息をつく。
「特にないね。代わりに一杯やらせてくれ。内ポケットに酒瓶が入ってるんだ。――いいだろ? 一瞬でもランデヴーした仲だ。それくらい頼むよ」
死ぬ直前まで酒を飲みたがるアルコール中毒者を哀れんだのか、案外素直に少女は従った。
「――空を飛ぶのは嫌いかい、ウサギちゃん」
ジャケットに手を伸ばす『白兎』の耳元に、ラウルはささやきかけた。
形のいい耳だ。空を飛んだばかりでまだ少し赤みが差している。
服は簡素なジャケットで、装飾品の類はどこにも身に付けていない。ゆるい服が好きなのか、胸元がはだけていて少しどきりとする。その胸元に刻まれた傷痕に気がついて、ラウルはほんの一瞬だけ笑みを浮かべた。
「そんな気がしたんだが、図星かい?」
「――好きな人間がこの世にいるの?」
と、彼女は答えた。ラウルは拳銃の照星越しに仮面を見上げる。
「空を飛びたいと思っているヒューマンなら腐るほどいる」
「飛べないからよ」
「だからって、地上が嫌いだなんて言うグラウンダーはいない」
「ハイランダーになれば分かるわ。あなたこそどうなの? まさか飛ぶのが好きだなんて言わないわよね。こんなにアルコールのにおいをさせなくちゃ飛べないくせに」
何もかも見透かしたように『白兎』はラウルの目の前で酒瓶を振る。ラウルは驚き、そしてすぐに観念した。
「……ああ。君の言う通りだよ。飲まなきゃ怖くて飛べやしないんだ」
「墜ちるのが怖いの?」
「地面とキスするのは怖くない。本当に怖いのは、空に堕ちることだ」
「――ヘヴン・ジャンキー」
まるで嬉しそうに、『白兎』はつぶやいた。
原動機の音にかき消されてもいいくらいの小さな声だが、ラウルの耳にははっきりと聞こえた。それはハイランダーなら誰だって耳にたこができるほど聞かされる言葉だ。
酒や麻薬みたいに、ヒューマンをだめにしてしまうものが空にもある。吸えば吸うほどハイランダーを骨抜きにしてしまう、そいつのたちが悪いところは、そいつがなければマキナもウィンド・ビークルも空を飛べないということだ。
セイラー・ミセル。
それが空の麻薬の正体で、その中毒者は俗に天国中毒者と呼ばれる。症状は様々だが、決まって最後は人格が破綻し、たいていの末路は墜落死だ。
「いずれ俺は堕ちる。きっとそう、その時初めて俺は死ぬんだ」
「そうなる前に、あなたは死にたいと思ってる」
確信に満ちた口調で『白兎』はそう言い、ラウルは驚いて彼女を見返した。
「あなたの飛び方はおかしいわ。あんなの、空を飛んでるとは言わない。墜ちてるのと同じ。いずれ死ぬわ」
「………酷い言われようだな。あれでも気を遣った方なんだ。ウサギの尻尾を追うのは楽しかっただろう? ――おっと、ウサギは君の方か」
「よくコントロールを失わないものね。……狂ってるわ。あんな飛び方をするのは天国中毒者か、頭のイカレた死にたがりくらいのものよ」
「狂ってるのは――」
ラウルはとうとう、可笑しそうに――。
――笑った。
「君の方さ、ドラゴンライダー」
はっと『白兎』は後退った。どこか舌足らずな声色を聞く限り、女と言うよりはまだ少女なのかも知れない。ラウルは顎をしゃくって服の隙間から見えた胸の傷痕を示してみせた。
「顔は隠しているくせに、胸元のガードは甘いんだな。そいつはドラゴンライダーの証だ」
「ドラゴン……ライダー?」とシェリルはその言葉を上の空で反芻した。
「ドラゴノイドと契約を交したバディのことさ。……言ったろう、君のことを信じるって。ドラゴノイドは、おとぎ話なんかじゃない」
「え――。でも、さっきは、あなた――」
「………ごめんよ、シェリル。君に嘘をついていた。知らないふりをしていたんだ。普通の人間は、知らない方が幸せな類の話だから」
そして、ラウルはそっと告げた。
「ゲイル・ラッセル――サドレアの英雄『セント・エルモ』は、ドラゴンライダーだったんだ」
シェリルが息をのむのが聞こえた。
だったのだ、と過去形でラウルが言った意味が分かったからかもしれない。
「ドラゴノイドは存在する。……いないことになっているだけだ。彼らを利用している貴族たちに不利益が及ばないように。………こんな仕事をしているとたまに出くわすんだよ。悪夢みたいなもんさ」
「酷い言われようね」
と、『白兎』は先刻のラウルのセリフを奪ってそう言った。
だが構わずラウルは続ける。
「ドラゴノイドの『契約』はまさに血の契約だ。アンジェロイドのそれとは根本から違う。何たって、契約を交わしたバディが死ねばドラゴノイド自身も息絶えてしまうんだからな」
そしてラウルは『白兎』の胸元の傷跡に指鉄砲を突きつけた。
「それは、元々ドラゴノイドの身体の一部だったものだ。力の根源――核と呼ばれている。契約を交すときにドラゴンライダーに取り込まれ、大事に育まれるのさ。親鳥が卵を温めるようにね。そしてその卵が孵るとき――」
「――これは、彼のもとへと還る。ドラゴンライダーはドラゴンとなって、空へ昇るの」
「そして、君は死ぬ」ぴしゃり、とラウルは断じた。
「まさか、こんなイカレた契約を交すハイランダーが他にいるなんてね」
そしてラウルは『白兎』に向き直る。
「俺は空を飛ぶのが好きになれそうだ。空を飛んでいれば、稀にだが君みたいなキチガイにも会える。こんなに嬉しいことはない」
何かの液体が頭のてっぺんからこぼれる。
気分を害したらしい『白兎』がラウルの酒瓶を彼の頭上で逆さにしたようだ。琥珀色の液体がラウルの黒髪を濡らし、強いアルコールの香りが立ちこめる。ラウルは思わず苦笑した。
「……ありゃりゃ、怒らせちまったかい? 参ったな。どうしてだろう、いつも本当に好きな相手には気持ちが伝わらないんだ」
無言のまま、『白兎』は再びラウルに銃口を向けた。
その指が引き金を引くほんの手前、
「知っているかい? 『酒は恋に似ている』」
ラウルは小説の一節を引用して『白兎』を見上げた。投げ捨てられた酒瓶が地面に落ちて、乾いた音を立てる。
「『最初のキスに身体が痺れる。二口目で虜になる。三口飲めば――』」
「――何が言いたいの?」
「飲み過ぎは身体に良くない」
「酒は飲まないわ」
「君は人生の半分を損しているよ」
「………それに恋と愛とは違うわ。恋なんて所詮はまがい物。夢から覚めれば酷く傷ついて、それで、おしまい」
「ははッ!」
どうしようもなく絶体絶命の危機に、ラウルは笑う。
その恍惚にも似た表情は、ヘヴン・ジャンキーに特有のものだった。
「そいつを二日酔いって言うんだ、ウサギちゃん!」
瞬きするより早く、銃口がラウルの左目を捕らえた。
「神よ!」
彼女の激情が引き金を引く前に、ラウルは叫んだ。
「――龍よ! 守り給え、祈り捧げる者を。滅し給え、奪い屠る者を。我が御魂は風と共に空にあり!」
大仰な、これ見よがしの祈りに、『白兎』は呆れて笑った。
「命乞いなら間に合ってるわ」
「……聞けよ。命乞いは得意なんだ」
「これが最後になるわ」
「神を信じないのか?」
「あなたは信じているとでも言うの? 神など、どこにもいやしない」
「それじゃあ、………俺は龍に祈るとしよう!」
ラウルの叫び声に応じるように、まばゆい光が視界を真っ白に塗りつぶす。
それは一瞬の出来事だった。
光を発したのはウルフドッグⅡ。電気回路がショートし、両翼のバルクレイター装置が発光したのだ。
ショートさせたのはラウル。
エンジンから煙を立ち上らせたのも、使い物にならないエンジンを回し続けたのも、すべてはこの瞬間のためだった。後ろ手で配線をいじるのには骨が折れたが、彼女が来るまでに間に合って良かった。
立ち上る煙は単に事故で起こしたものではなく、彼女に伝えるための狼煙。
原動機の騒音は彼女の存在を気付かせないための耳眩まし。
「……悪いな、ウルフ」
恐ろしい速度で降ってきたそれを、『白兎』はバックステップで避ける。
落下した衝撃で舞い上がる砂埃の中から現れたのは、角を強固な金属で補強した、無駄に豪華なスーツケース。鍵穴の横には二頭の龍を象った彫刻があしらわれており、以前見たことのある似たようなケースと唯一違っていたのは、そこにシャーロット家の家紋が刻まれている点だった。
正真正銘、運送を依頼されたウェディングドレスだ。
こんな乱暴なことをする奴を、ラウルは一人しか知らない。
焦げたオイルと硝煙の香り漂わせ、彼女もまた空から降ってきた。スーツケースに気を取られていた『白兎』は、出会い頭の一撃をすんでの所で躱すが、彼女は『白兎』に追い打ちをかける。
体勢は優勢だ。このまま追い詰められる。だが、それを制止するようにラウルは叫んだ。
「キディ、後ろだ!」
マキナの男が動くのが見えた。
眩惑が効いていないのか、男は瞬間的にキディの死角に回り込み銃を撃つ。
初弾は頬をかすめた。二発目が肩にあたる前に、キディは振り向きざま三発の弾丸を放った。
肩を襲った衝撃に吹き飛ばされながら敵の正体を見定める。キディの放った弾丸は驚くべきことに三発揃って正確に男の身体を捉えていた。
しかし真に驚くべきことはこの後起きた。その弾丸のすべてが男の胸に当たる前に失速し、落ちたのだ。弾いたわけではない。
驚いたのはキディも同じだ。目をこすってもう一丁の銃を抜き、地面を蹴った。
――罠だ。
そう気付いた時にはすでに遅く、見計らったように頭上から銃声。
男はその場から一ミリたりとも動いてはいない。撃ったのは『白兎』の方だ。
キディはとっさに身を翻し、撃ち返す。だがそこにすでに人影はなく、逆に翼に一発の銃弾がかすめてよろけた。
「へぇ。……あれを避けるんだぁ」
『白兎』と呼ばれた少女は、感心したようにそうつぶやいた。
手には大口径のオートマチックが一丁。装填されているのは恐らくマグナム弾だろう。小径の鉛玉で受ける衝撃とは威力の桁が違う。身体に受ければマキナの生体金属、装甲といえどひとたまりもない。
「その大きなトサカ頭をぶち抜いてあげようと思ったのに」
廃機関車の屋根の上から舞うように着地して、『白兎』は笑った。
キディの左の翼に鉛玉をめり込ませたリボルバーの銃口から雨雲色の硝煙が漂う。
「もう来ちゃったの? やっぱり、あいつらじゃ足止めにもならなかったみたいね。……だから最初から私たちが代わってあげるって言ったのに」
「おしゃべりはよせ、『白兎』。……標的はシェリル・シャーロットただ一人。もうここに用はない」
「……気に喰わねえ奴らだ」
キディは二人組を睨んでつぶやいた。
キディの頭越しに会話する二人の余裕は、キディを出し抜けるだけの自信の表れか。
「まったく。また随分と危ない部下をお持ちのようで、お嬢様」
そう言ってキディは頬の切り傷を無造作に拭った。
私兵隊との戦闘で負傷したものもある。至る所に流血や火傷の痕が残り、おろしたての装備も傷だらけだ。それなのにキディは気にするそぶりも見せず軽く笑い飛ばす。
「ち、違うわ! よく見なさいよ、うちの家紋が付いてないでしょう?」
「……てことはお友達かい? まさかシャーロット家のご令嬢にこんな物騒なご友人がいたとは思わなかったよ」
「し、知らないわよ! こんな野蛮な知り合いがいるわけないでしょう!?」
ぴくり、と仮面の青年が足を止めた。
ふん、とキディは笑う。
「――だ、そうだ。お嬢様はてめぇらみたいな野蛮人に用はないらしい。出直してきた方がいいんじゃないか?」
「ざーんねん。用があるのは私たちの方なの。お嬢様には役に立ってもらわなきゃ」
ふざける子供みたいに『白兎』は言った。
応じるように、キディは笑みを深める。
「誰だか知らないが、横取りは嫌われるぜ」
「あらら、余裕ね。自分の立場が分かっていないのかしら?」
「――なあ、お前」
と、キディは『白兎』の背後に視線を送った。
そこにいるのは仮面の男と、彼に囚われているシェリルの姿だ。
さすがはキディ、シェリルを連れて逃げられないよう牽制でもするつもりか、とそう思っていたラウルは次の瞬間幻滅した。
彼女の瞳がすでに喧嘩屋の色に染まっていたからだ。
「………お前だよ、坊や。さっきのお前、風を纏っていたな? 弾丸を叩き落としたあれのことさ」
「気を付けろ、キディ。……奴はドラゴノイドだ」
気を取り直して、ラウルは相棒に助言した。
それが彼女にどれくらいの意味を与えるのかは分からなかったが。
「ほう……」と嘆息したキディの瞳に浮かぶのは、驚きでも、戸惑いでもなく。
「なるほど、つまりそいつがお前の能力ってことか」
「そうだ。だから――」
「……もう一度やってくれよ、それ。そいつでもう一度、――今度はあたしを殺しに来な!」
「そう、殺しに、――っておい、キディ。……何でそうなる!?」
しかし、キディの視線はもはや仮面の男しか見ていない。
無視されたのは『白兎』も一緒だ。癪に障ったのか、男とキディとの間に割って入った。
「遊んでほしいならそう言えばいいのに。それとも反抗期なのかしら?」
挑発にも近い戯れ言に、キディは不意に不機嫌そうなため息をついた。
「お前じゃないよ、バンビーノ。あたしはそっちのシャイボーイに聞いてるんだ」
「……なんですって?」
「よせ、『白兎』」
また一歩前に出た『白兎』を、相棒の男が引き留める。
だが、それも長くは保たなかった。
「お前にゃ用はない。………ガキは帰ってマスでもかいてな」
キディが言い終わるより、男の制止を振り切って『白兎』が跳ぶ方が早かった。
姿勢を低く、地面を蹴って駆け出し、三歩でトップスピードに乗る。立て続けに引き金を四度引くと、その行方を確認することすらせず一気に間を詰める。
視界の中心に捉え、目前に迫ったキディの赤い髪は、その更に下へ潜り込み、視野の外へ消える。全開にした翼から青い光の粉を振りまいて、キディは地を這うように飛んだ。
目で追ったその青い残像に、『白兎』の反応が少し遅れた。
カウンターパンチを薄皮一枚で避けると、左脚を軸にくるりと反転、弾倉に残った弾丸を残らずキディの背中に撃ち込む。だが、それもまた残像、青い光の粉となって霧散する。
殺気に気付いて側頭部にガードを上げたときにはすでに遅く、キディの回し蹴りがガード越しに女の身体を吹き飛ばした。
「ぅぐっ……!」
「……どこのどいつだか知らないが、馬鹿な奴らだ。狙いが荷物なら、あたしに構わず盗めば良かったものを」
辛うじて息をしている『白兎』を見下ろし、キディは吐き捨てた。
「あたしを殺せると思ったのが間違いだったのさ。最初のコンビネーションで仕留めたと思ったかい? ……なぁ、黙ってないで答えてくれよ、シャイボーイ」
キディはまた挑発するように男の方に視線を送る。
けれど、男は決まり文句になった言葉を反芻するだけだった。
「………仕事は、もう終わったんだ」
「つれないね。まさかあたしが知らないとでも思ってるのかい? バディのこの女を殺せばお前も死ぬ。ドラゴノイドってのは、そういう生き物なんだろう?」
引き金は、その言葉だったのだろうか。
どん、と男は地面を踏みならす。地面がひび割れ、とっさにキディは飛んだ。
その翼に――まるで彼女の動きを読んだかのように――弾丸が突き刺さる。
撃ったのは倒れていたはずの『白兎』。マグナム弾の弾頭は寸分違わずバルクレイターのミセル吸入口を射貫いていた。
思わずラウルは目を剥いた。
ウルフドッグⅡが落とされたときと同じだ。マキナもウィンド・ビークルも他のどこを撃たって翼が完全にその機能を失うことはないが、ミセル吸入口だけは別だ。エンジンは動いていても、飛べなくなる。
あの時と同じように、あの女は動いている相手の急所を寸分違わず撃ち抜いて見せた。
だけど、やはりそんなことは狙ってできるようなことではない。キディもまた信じられないとでも言うような驚きの表情を少女に向け、――そして確信と共に納得する。
「あれは――。あれは、なに? ……なんなのよ?」
そうつぶやいたシェリルの声には困惑と恐怖が入り交じる。
それを初めて目にしたときの、それは正しい反応だ。少女の頭上にはまた、銀色に輝く光の円陣が虚空に浮かび上がっていた。
もちろん目の錯覚でもなければ、夢幻の類でもない。正真正銘それはそこにあり、だが触れることはできない。空を泳ぐドラゴンと同じ種類のものだと思えばいい。
「………手品みたいなもんだ。ドラゴンライダーだけが持つ、種も仕掛けもない超能力さ。どんな能力かはドラゴノイド次第だが、………どうせろくな力じゃない」
「そんな……、超能力……?」
セイラー・ミセル吸入口を正確に撃ち抜いて見せたのもその力によるものだろう。
だが彼女の力など、むしろ些末なことだ。彼女がドラゴンライダーであるということが示唆する、もう一つの事実に比べれば。
「気を付けろ、キディ!」
ラウルの声が聞こえたかどうか、痛みに顔をしかめるキディの眼前で、男の身体が突如光を放った。キディもよく知っている。それは、フォームチェンジ。
だが、光の中から現れたその姿は、ビークル・フォームではなかった。
装甲、翼、配線、出力装置、どれ一つとっても現在のマシンのユニバーサルデザインとはかけ離れた異形のシルエットは、辛うじて人間の形をなしている程度。
小さく力を凝縮したような翼。
飛ぶという機能を必要最低限までそぎ落としたスパルタンなボディ形状。
筋肉のように隆起した肩と大腿の出力装置。
――それはまさに天使というよりむしろ龍と呼ぶにふさわしい代物だった。
「『イグニション』」
『白兎』はそうつぶやくと、次の瞬間、胸を押さえ倒れ込んだ。
「う、ぐう……っ!」
苦しそうにもがき、うずくまる。
その姿を視界の端に捉えたまま、キディの身体は強烈な圧力に弾き飛ばされたように宙を舞った。体勢を立て直す間もなく砲弾と化したキディの身体は、重力を嘲笑うかのように直線を描いて貯水車両の壁に突き刺さった。
溜まった雨水が噴水のように溢れだし、線路に川を作る。
「キディ!」
ほんの一瞬の出来事だった。
その一瞬で瓦礫と化した、かつて貯水車だった車両は、溢れるだけの水を溢れさせると、うんともすんとも言わなくなってしまった。
何かが動く気配はない。だが、キディの身体を案じる余裕は、ラウルには残っていなかった。
目の前に立つ男はドラゴノイドと呼ばれる地上最強の人種で、今の彼の姿はその能力を遺憾なく発揮するための姿だ。
「ドラゴ・フォーム………」
「な、なんなのよ、それ……!?」
ラウルの背後に隠れ、シェリルはおののいた。
どうやらドラゴノイドの存在は知っていても、その詳細を知り得ているわけではなかったようだ。
「よく見ておくんだ、シェリル。どうしてあれをドラゴノイドと呼ぶのか」
獣のような姿の男を見据え、ラウルはつぶやいた。
「『風を起こし、水を巻き、炎を吐き、地を揺るがす』――。ああ、全部おとぎ話なんかじゃない。ドラゴノイドの能力も、そのバディとなったドラゴンライダーに与えられる能力も、それから、ドラゴンライダーとなったヒューマンの運命も」
「……そう。これは私が私でいられるための力。私とあの人の、『愛の証』――」
少女は胸を押さえ、苦しみに口元を歪めながら、それでもなぜか嬉しそうにそう言った。
「『紅き龍は空を焼き、地を奔る』」
そう口ずさんだのはシェリルだった。
それは先刻彼女自身が語って聞かせてくれた創世記の一節だ。
「『青き月の灯りを喰らい、そして――』」
「――『天に堕ちる』」調子を合わせて『白兎』は続けた。
「緋龍神話ね。物知りなお嬢さんだこと。……『龍』はドラゴノイド、『月』はハイランダー。やがて機が熟したとき、『龍』は『月』を喰らう。ロマンティックな話でしょう?」
シェリルははっとして『白兎』を見上げる。
「『卵が、孵るとき――』」
「死ぬのさ、彼女は」
ラウルは静かにそう告げた。そう言った彼の身体は少し震えている。
「ドラゴンライダーは触媒だ。ドラゴノイドが、ドラゴンに『孵化』するための、ね」
「そんな――」
「君の幼馴染みは正しかった。こんな馬鹿げた宿命を、君に負わせられるはずがない」
「馬鹿げてなんかいないわ」
と、『白兎』は笑った。ナイフのように冷たい声だ。仮面の奥の顔にも、同じくらいに冷徹な笑みが浮かんでいるのだろう。
「『龍』は『月』を喰らう。――そして二人はね、ひとつになるの」
「違う!」とラウルは、彼にしては珍しく声を荒らげ、真剣な表情で否定した。
「ひとつになんかならない。君は死んで、それだけだ!」
「その前に――、死ぬのはあなたの方よ」
「やめて!!」
引き金を引く指を止めさせたのは、彼女のその悲痛な叫び声だった。
背後に隠れていたはずのシェリルは二人の前に姿を現し、両手を挙げる。何が悲しいのか目に涙まで浮かべ。
「待って、彼を殺さないで!」
「シ、シェリル………?」
「あなたたちの目的は私でしょう? 私は逃げも隠れもしない。だから、お願いだから、彼を殺さないで!」
ラウルは言葉を失った。
頭が混乱して、たった今目の前で起こっていることが理解できなかった。シェリルはラウルが運ぶべき荷物で、守るべき依頼品だ。
それなのに、どうして彼女が泣いている?
どうしてラウルをかばう?
銃を突きつけられて泣きたいのはこっちの方だ。
守られなきゃいけないのは彼女の方だろう?
なのにどうして、何も言葉が出ないのか。答えは明白だった。
運び屋エルモは負けたのだ。完膚なきまでに。目の前にいるこの、二人の襲撃者に。
握り込んだ拳を振り上げることもできず、震える足は一歩も前に出ず、ラウルはただ、自らの無力さに失望した。
「――もういい」
仮面の男の声は静かで、だけどその場の全員を黙らすには十分の力を持っていた。男は今まで一度も揺れなかった感情の昂ぶりをわずかに語気に混じらせ、シェリルに歩み寄る。
「もう、眠れ。ここから先の世界は、お前には似つかわしくない」
シェリルの口を塞ぐように伸びた右手の先に旋風が舞う。と、同時に『白兎』が胸を押さえて苦しそうに跪く。先ほどキディを吹き飛ばしたのと同じ能力だ。
『空気を操る』
ラウルは理解した。
それがこのドラゴノイドの能力。
今度はシェリルの吸う息に細工でもしたのだろう。シェリルはすぐに目を閉じ、意識を失った。
「シェリル!」
「殺すわけじゃない。保護するだけだ。……君たち反逆者からね」
ようやくラウルはあたりの騒がしいことに気付いた。
遠巻きに聞こえるサイレンは保安隊のものだ。それも、オートビークルの一台や二台ではない。
このままでは数分とかからず包囲されることになる。キディの安否が分からない今、ラウルだけでは太刀打ちすることも、逃げ出すことも難しい。
――どこへだって連れて行くと約束したのに。
――待ち人に会わせてやると言ったのに。
『――うそつき』
小さな声でそう言ったシェリルの言葉を胸の中で反芻する。
返す言葉もなかった。格好のいい言葉ばかりを並べたくせに、結局それも嘘つきの戯れ言になってしまうのだ。悔しくて、けれどどうにもならない力の壁を前に、ラウルはただ黙って見ていることしかできなかった。
もうおしまいだ。ラウルが頭を垂れた、その時。
――そいつは現れた。
「ほおーっほっほっほっほぉぉぉぉぉおおお!」
「か――」
奇声に驚き顔を上げたラウルは、一度言いよどんだその名をつぶやいた。
「――怪盗ブーケ!?」
ラウルを変質者呼ばわりしたシェリルが今は気を失っていることが何とも歯がゆい。もしもシェリルが起きていたならば、本当の変質者の何たるかを説得力十割増しで語れたものを。
「ど、どうして……」
「愚問ね」と、突如舞い降りてきた本物の変質者は余裕の笑みを浮かべた。
「幸せはいつだって突然現れて、人知れず去ってゆくものよ!」
「………ドレスを盗みに来たんなら見当違いだぜ」
「知ってるわ」とブーケ。
「私はドレスを奪うために飛んでいるんじゃないの」
「聞き飽きたよ。……『幸せ』を追っかけてるって言うんだろ?」
「違うわ。『幸せ』は私よ。私は私を必要とする者の前に現れる。そう、その子のように」
と言ったが早いか、彼女の身体はシェリルを確保する男の背後に回り込んでいた。
「……っ!」
仮面越しにも分かる、男の驚愕の表情。
速いというわけではない。それは、五感の隙を突くような身のこなし。動作の途中、全身の筋肉が硬直するその一瞬を盗むような、鋭敏な感性。天性の嗅覚がその瞬間を捉えて――。
「――あらぁ……。意外と可愛い顔してるのね」
ブーケの手には男の目元を隠していた仮面があった。
とっさに動いた男の手は、ブーケの首に伸びる一瞬手前で逡巡し、露わになった顔を隠す。その隙をブーケは逃さなかった。
男の手から解放された刹那、シェリルの身体はすでにブーケのもとにあった。
「この――」
「よせ、『白兎』。……保安隊が取り囲んでる。これ以上の深入りは無用だ」
反撃しようとした『白兎』を制し、男はくるりと踵を返す。うう、と唸った『白兎』も、フン、と最後には悪態をついて振り返った。
「……りょーかい。分かったよ、『黒猫』」
「……ッ!?」
その一言が、停止しかけていたラウルの思考を再び動かし始める。
ブーケをして可愛いと言わしめた男の素顔は、ほんの一瞬ではあったが、ラウルにもはっきりと視認できた。
『黒猫みたいだねって、笑った』
風になびく漆黒のショートヘア。
覗きこむほどに引き込まれそうな深淵を内包する碧い両の瞳。
銀色の光の粉を振りまく、濃紺の翼。
『彼は――、ドラゴノイドだったの』
「ま、さか――」
呆然と立ち尽くすラウルの周りは、いつの間にかおびただしい数のパトロール・ビークルで囲まれ、『白兎』『黒猫』の二人組も、変態怪盗の姿もなくなっていた。
残されたラウルの足元には気を失ったご令嬢が眠り、ラウルは唖然とした顔のまま、
『動くな、運び屋エルモ!』
――とりあえず、両手を挙げることにした。
『貴様らを誘拐の現行犯で確保する!』
作中でラウルが引用したのはレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』(村上春樹 訳)です。この辺はパラレルワールドと言うことで。
ちなみに赤ずきんも引用になるのかしら。うろ覚えの台詞なんですが・・・。