5話:Bygone Days
デルフィとの共同生活を始めて数日が経った。
その日の狩りを終えて、ついでに夕食も終えたトマスは呆けたように窓の外を見ていた。
年を取るにつれ、こうして何もせずに外を見る機会が増えてきたように感じる。未来よりも過去の方が長くなったからだろう。決して体力減退のせいではない。
視線の先、年中続く一面の曇り空には、しかし、所々ぽかりと穴があいている。質量弾が抜けた痕だ。
木星の海抜1500kmに存在する人工地殻プレート、それがトマスらにとっての大地である。
水素とメタンの満ちた大気には呼吸できるほどの酸素もなく、人間が生きるには寒すぎる零下の世界だ。
そんな脆弱な人間を守るのが各ビオトープであり、それらを覆う大気防護フィルターである。
中層区にあるトマスの家からでも、都市の天蓋を見れば微かに景色が歪んでいる境界線が見える。
一種の重力場によって内と外の大気を区切っているのだ。
現在は、どの都市型ビオトープ内にも視界を遮るような高層建築はないため、どこからでも境目がよくみえる。
天に浮かぶ四大衛星に設置されたマスドライバーから“狙撃”される危険があるからだ。
かつて、木星に資材を届ける為に設置されたそれらは、現在は“汚染”されたコンピュータによって一定高度以上を飛ぶものを撃ち落とす兵器に変貌した。
内部にMDを納めた質量弾は大型の重力子機関によって光速の10%、およそ秒速3万kmという馬鹿げた速度で飛来し、加えて高精度で着弾させる軌道計算と追尾機能も有している。
トマスも回避した筈の質量弾が掠めて機体を壊したことが何度もあった。
一方で、木星上にあったマスドライバーは機人戦争ですべて破壊されている。
80秒。それが空を支配する機械に反抗した者の寿命である。
「……空、か」
40になって肩回りにダルさのある体も大気防護フィルターの中ではまだマシに感じられる。
フィルターは僅かだが重力も軽減している事をトマスは経験として知っている。
空を飛ぶ事を願っていた者にとって、重力とは最大の障害であったのだ。
「ああクソ、モクがほしくなってきやがった」
脳裡をよぎる過去に苛立ち、トマスは吐き捨てた。
煙香はこの都市の原子変換機では生産していない嗜好品だ。貴重な大気を汚染するからか近郊の都市でも作られていない。
上層区の店に行けばキャラバンから卸された品があるかもしれないが、安全マージンを取って日々の糧をなんとか稼いでいる現状では手が出る値段ではないだろう。
働きたくない。メタンダイバーに乗りたくない。
誰にも雇われず、雇われる為の努力もしていないニートのトマスにとっては唯一の銭と空気を買う手段なのだが、あの狭いコックピットに潜り込む度に心に澱が溜まっていく気分がする。現実をつきつけられるのだ。
(何もかも今更の話だな)
己のトシを思い出して薄くなってきた茶髪をガシガシと掻き、ついでに視線を室内に移すと、行儀よく椅子に腰かけたデルフィが『本』を読んでいる姿が目に入った。
ここ数日で見慣れた光景だ。足が床に届いていない為にほっそりとした足首と慎ましい爪先が空中でゆらゆらと揺れている。
長時間着用し続けることを想定し、心身にかかるストレスを抑えたパイロットスーツは着ている感覚がないほどに体にぴったりと密着する為、必然、ボディラインが隠しようもなく露わになる。
毎度の食事を文字通り頬張っているデルフィだが、相変わらずその体は折れてしまいそうなほどに細い。
もう少し肉がついていた方が良いだろうとトマスは脳内のメモに経過を書きこんだ。
無論、MD乗りとしての衝撃耐性の問題である。
シモンに任された以上、トマスにはデルフィを一人前のMD乗りにする義務がある。
趣味はまた別だ。
ともあれ、今は読書の時間である。
使わなくなってからトマスも長らく放置していた本だが、デルフィには新鮮なものばかりだったのだろう。膝上に載せたホログラム表示機具をスクロールする速度は驚くほど速い。
文字を覚えてから3日と経っていないというのに、大した学習能力だとトマスは感心半分呆れ半分で溜め息を吐いた。
トマスとて視力は今でも十分な性能を保っているが、それでも同じことは精神的に到底できそうになかった。
そんな中、とあるページでデルフィの指がぴたりと止まった。
そのままきょろきょろと何かを探すように視線を彷徨わせ、窓際でだらけているトマスをみつけると、椅子を飛び下りて小走りに駆け寄ってきた。
また何か訊きたい事ができたのか、と表情の変わらない無機質な天使の顔が近付いて来るのをトマスはぼんやりと眺めていた。
次いで、ずいと突き出された映像にこれ以上ないくらいに顔を顰めた。
そこにあったのはトマスが都市連合軍に所属していた頃の写真だった。
部隊全員が揃ったたった一枚、仲間達の顔が――今ではもう再会することの叶わない者も含まれている――そこにはある。
軍にいた頃の物は殆ど処分したが、この写真はどうしても捨てられなかった。
――思考の隅を、白亜の機体の残影がよぎった気がした。
「これはいつの?」
「……あー、マリーがいるから12,3年前のもんだな」
「多い」
「おい、今どこみて言った、デルフィ?」
ちらりと頭頂部を見て呟かれた言葉にトマスは言いようもない虚しさを感じた。
デルフィに揶揄するような響きはないが、それが却って事実を突きつけられているような気がしてならないのだ。
「この頃からMDに乗っていたの?」
「あ、ああ。そうだな。どう言えばいいんだろうな」
軍、という存在をデルフィに理解させる苦労を感じてトマスは言葉を濁した。
今は亡き都市連合軍。各都市の軍事力を結集して、襲いかかってくる自律機械を撃退する花形職業。
彼らは、年を追うごとに増えていく自律機械を相手に夥しい犠牲を出しながらも、木星上の敵生産拠点すべてを破壊した英雄だと一般には言われている。
同時に、10年前の“魔の一日”の引き金をひいた愚者としても認識され、その功罪は根深く人々の意識に刻まれている。
過去の栄光に縋って称賛する者もいないではないが、今でも軍属であったと知られれば闇討ちされる危険がある。
トマスやシモンが生まれた都市を後にしてこのナイアスに居を構えたのもその為である。
それほどまでに“魔の一日”に人類が失ったものは大きいのだ。
否、10年を経た今でも失い続けていると言っても過言ではない。
あらゆる苦役から解き放たれ、老いすらも克服した黄金の時代。
機械という伴侶を持っていた過去の人類は掛け値なしにこの星で最大の興盛を誇っていたのだ。
ともあれ、未だ情緒の発達が完全にはなされていないデルフィにそんな話をするのはどうにも憚られた。
外で言いふらされても困る。秘密は知っている者が少ない程に漏洩するおそれも少なくなるのだ。
おまけにこの写真を撮った時にはトマスはまだ厳密には軍人ではなかった。
男は戦争末期に現地投入されるまでは、軍の金で好き勝手にMDを飛ばす半民間人のテスターだったのだ。
特殊なMDに乗る為の特殊な訓練を受けたMD乗り。
宇宙を泳ぐ人類の運び手、MDに本来の姿を取り戻す為の試み。
まだ、人類に多くのリソースと“空”が残されていた時の夢物語。
それを語る勇気は、今のトマスにはなかった。
◇
適当に言いくるめてデルフィを部屋に戻し、トマスは夜の街に繰り出した。
人工照明の光量を絞られた都市は昼とは打って変わってシンと静まっている。
閑散とした中層区の街並みをうろ覚えの記憶を頼りに進んでいく。
そうして、お目当てのバーに辿り着いた。
滑らかに開く自動扉が、無言の内にトマスを迎え入れる。
落ち着いた内装の店内には数人の客がたむろしていた。
彼らは入口に佇むトマスをちらりと見て、すぐに視線を戻した。
酒場にはお互いを詮索しない雰囲気がある。今はそれがありがたかった。
酒を飲みに行くのは何年振りだろうか。トマスは鼻をくすぐる仄かなアルコールのにおいに懐かしさを感じた。
最低限の稼ぎで食いつないでいく為には嗜好品を絶つのは当然の帰結だった。妻とは違いあまりアルコールに強い訳ではない上に、一緒に飲む相手もいなくなったトマスには難しい事ではなかった。
酒は都市でも数少ない原子変換機に頼らない生産品のひとつである。
水素と二酸化炭素からアルコールを作る技術と施設が先人達によって確立されているのだ。
適切な大気組成や各種食料は原子変換機などの未だ原理の解明できない遺失技術頼りだというのに、である。
その情熱をもっと他に傾けるべきだったのではないかとはトマスも思う時がある。
トマスは店内を見回した後に結局、カウンター端の椅子に腰かけた。
注文をしようと顔を上げると、剥き出しのメタルボディをみせる店主が無言のままグラスを寄越した。
並々と注がれた琥珀色の液体は、かつてのトマスが好んでいたものだ。
「なんだ店主、随分と物覚えが良いじゃねえか」
からかうような物言いに店主は己の脳殻を指先でトントンと叩くと自身の業務に戻っていった。
トマスはひとつ息を吐いて、グラスを掴むと勢いよく液体を喉に流し込んだ。
途端にひりつくような痛みが背骨を駆け抜け、じわりとした熱が臓腑を焦がす。
時を経ても酒の味は変わらない。それが嬉しくもあり、寂しくもあった。
かつては共に飲み交わす妻が、仲間たちが隣に居たのだ。
そうして、一息で飲み干したグラスをカウンターに叩きつけるように置くと、即座に横合いからボトルが差し込まれた。
「よう、隊長。そろそろ来るんじゃないかと思ってたぜ」
「テメエはそう言っときながら何日も待ってるから始末が悪いぜ、ジェイク」
ジェイクは何も言わず口元だけを微かに歪め、とくとくと酒を注ぎ足した。
「――――」
落ち着いた店内では微かな駆動音も拾うことができる。
狙撃手としての忍耐力と慎重さを持つジェイクが半身を吹っ飛ばされて、馬鹿みたいに突っ込んでいた自分が五体満足なのだから戦争というのは度し難い。
トマスはグラスの中で揺れる琥珀色を眺めながら心中でむなしさを感じていた。
二度とMD乗りを仕事などにするものか。
あくまで生きる為に仕方なしにやっているだけ。
他の生き方を見つければ、いつものように乗り捨てればいい。
なのに、自分は――自分たちはメタンダイバーから離れられない。
生粋のMD乗りなのだ。
それ以外の生き方を知らないのだ。
「何に乾杯する?」
ボトルを置いて代わりに自分のグラスを持ったジェイクが嘯く。
トマスは何も言わず己のグラスを軽くぶつけた。
涼やかな音が二人の間に響く。
それからしばし二人は無言で杯を乾かしていた。
共通の話題はいくらでもあるが、思い出したくないことも多い。
部隊の多くは10年前の戦争で喪われているのだ。
笑って話すには10年という時間は短すぎた。
「……いつこっちに来たんだ?」
「この前会った時だ。しばらく遠方の遺跡に潜ってたんだが、たまには河岸を変えないと腕が鈍るからな」
ふと発した問いに、ジェイクは肩を竦めて答えた。
この男は体の大半を失ってもまだ兵士のつもりなのだろうか。もう都市連合軍もないというのに何と戦うつもりなのか。
あるいは、劣化することはあっても老いることのないサイボーグの精神は10年前のあの日のままなのかもしれない。
トマスは酒を呷って呆れと僅かな羨望を飲み下した。
それもひとつの生き方なのだと認めるには男は年をとり過ぎていた。
「しっかし、アンタがガキ連れてるの見ると懐かしい気分になるな」
「マリーのことは云うんじゃねえ」
「逃げられたんだったか? まあ仕方ねえよな。オレたちはMDを降りたらただのクズだ」
「それが理由だったらよかったんだけどな……」
気を遣ったのかジェイクは話題を変えたが、それはそれで地雷だった。
しかし、ジェイクはにやりと笑って話を続ける態度を示した。遠慮のなさは寝食を共にした過去に由来する懐かしい絆の故だろう。
「なんだ未練あんのかよ? オレはてっきり新品に乗り換えたのかと思ってたぜ」
「からかうな。そんなんじゃねえよ。あとロリコンでもねえ」
「ハハ、そうかい」
口の端で笑ってジェイクはぐいとグラスを空ける。
サイボーグのジェイクは酔うことがない。トマスの内臓力では無理についていこうとすれば1時間と経たずにダウンするだろう。
木星の酒はフレーバーが限られるという事情もあって、兎に角度数が高い。
あるいは、ジェイクも酔おうと思えば酔えるのかもしれないが、誰よりも慎重さを持つこの男がそれを己に許す筈がないだろう。
今も、店の入口を常に視線の端で捉え、開いたタクティカルジャケットの裏からいつでも拳銃を取り出せる位置に片手を置いている。
軍と云う庇護のない世界で兵士であるには、常に危険が付きまとう。
長く同じ都市に留まることもできないだろう。そうであることを忘れようと努めるトマスでさえ、骨身に叩き込まれた軍人の癖と云うのは抜けがたい。戦争末期におっとり刀で教育を受けた自分でさえそうなのだから、より長く軍人生活を送ったジェイクは比較にならないほど深刻だろう。
「……まあ、安心したよ」
それでも、サイボーグの口元に浮かぶのは穏やかな笑みだった。
其処に含まれる安堵のいくらかは自分が隣に居る為だと思えば、酔いも手伝ってトマスも笑みを浮かべられる位には自分に自信が持てた。
「アンタに捨てられたらマリーはどうなるかわからねえからな」
「おいおい、捨てられたのは俺だよ」
「そいつは見解の相違ってもんだ」
飄々と告げるジェイクの様子は10年前から変わらない。
「――で、俺を何日も待ってた理由は?」
だからこそ、トマスはグラスを置き、笑みを消して尋ねた。
ジェイクの笑みが深くなった。自律機械を追い立てる時のような獰猛な笑みだ。
「完全にボケた訳じゃないみたいだな」
「茶化すな。俺はまだ40だ」
「まだ若いつもりなら、久しぶりに“遺跡探索”に行く気はないか?」
「……」
遺跡探索というのはその名の通り、様々な理由で廃棄されたビオトープ――これをMD乗りの間では遺跡型ビオトープなどと呼んでいる――に乗り込んで放置されている物資を回収することだ。
要は廃墟探索と廃品回収だ。
10年前の戦争と四大衛星から好き勝手に撃ち込まれた質量弾のお陰で、人工地殻は廃棄されたビオトープで溢れている。放っておけば自律機械に乗っ取られて生産拠点にされることから都市に近い場所では積極的に探索が行われているが、遠い所は放置されているのが現状だ。
現在では、長時間活動できるよう改造したMDに乗る探索専門の者もいるほどに、MD乗りの行う活動としてはポピュラーなものになっている。
トマスの数少ない知り合いの中ではシモンが探索専門のMD乗りであり、男もノウハウについては一通りの教育を受けている。足手まといになることはないだろう。
「ここの近くの遺跡型ってえと――『中央遺跡』か」
「そうだ。アンタとしても短時間で稼げるのは願ったりかなったりだろ?
今回は入口付近の探索だけで奥まで行く訳でもない。死体担ぎするよりはずっと儲かるぜ」
「そりゃたしかにそうだが……」
「心配ならあのガキも連れて来ればいい」
「……いいのか?」
意外だとばかりにトマスは黒瞳を瞬かせた。
応えるようにジェイクはグラスを掲げた。目下を隠すミラーシェードが店の灯りを受けて鈍く光る。
「人手が増えるのは歓迎さ。腕は立つんだろう?」
「あ、ああ。それなりにな。機体はすぐ壊すが」
「遺跡なら“コフィン”も多いし、乗り換えも楽だろ。じゃ、決まりだな」
「……そうだな。たまにはピクニックもいいな」
そうして、最後とばかりに合わせたグラスだけは10年前と変わらぬ音を立てていた。