6話:Alice In Space
もしも、木星に雲がなければ。
地上の人々は、惑星の至近に描かれる二条の光を捉えられただろう。
飛び交い、行き違い、互いをぶつけるようにして疾走る、白と黒の光を。
黒天の宇宙。遠く輝く太陽もその全てを照らし切ることのできない広大な空間に連続して閃光が散る。
白亜の四号機“デルフィ”、暗色の一号機改“ジャバウォック”、二機は徐々に速度をあげながら宇宙を翔けていく。
デブリを避け、あるいは纏う反重力フィールドで弾き飛ばし、ただ互いだけを障害とみなして飛び続ける。
木星圏で最高性能を競う二機だ。速度、出力共に並みではない。割って入れる者などいない。
そうして何度かの激突の後、アリスはデルフィに向けて通信を発した。
「退きなさい、デルフィ。レグナム様に逆らうのですか?」
『そうしないとわたしは前に進めない』
返ってきた応えは期待したものではなかった。
感情を感じさせない平坦な声音。かつてはアリス自身もそうだった。この10年間で情緒を育んできた。
だが、デルフィの声はかつての自分とは少しだけ違っている。
末妹の声には芯がある。それはまだ確固としたものではない、生まれたばかりの自己だ。
それでも、頭ごなしに言いきかせることができない程度の強度はある、とアリスはみた。
「なるほど。説得は無駄のようですね。であれば、力尽くでいきます。
宇宙を手にするのはレグナム様です。決してトマス・マツァグではない」
『アリス』
「……なんですか、デルフィ?」
『ソラは誰のものでもない。だって、わたしはトマスと一緒に飛べたよ?』
「――――」
アリスは言葉を喪い、しばらくして小さく嘆息した。
――『漠然とした設定にトマス・マツァグが確かなカタチを与えてしまった』、レグナムの言葉がアリスの脳内に再生される。
『貴女は幼いけれど、賢いですね』
この娘とレグナム様は相いれない。アリスはそう確信した。
誰のものでもない自由な空。それこそがデルフィにとっての夢のカタチだ。
空を閉ざした元凶であるこちらとの対立は必至だったのだろう。
『でも、譲れないものがあるのです。――来なさい、私の可愛い妹』
声に温度はない。アリスは愛情を知らず、その言葉は計算されたものに過ぎない。
情緒の兆しのあるデルフィならば、妹と呼ばれて戦意が鈍るだろう、と。
『――わかった。いくよ、アリス』
だが、そうはならなかった。
僅かな驚きを口元の笑みに変えて、アリスは突っ込んで来る“デルフィ”を迎撃した。
負ける気はしない。
彼女が繰る“ジャバウォック”は妹たちのMDの製造データを基に衛星カリストで再設計されたアリスの半身だ。
合計10基の重力子機関を有し、全ての性能で“デルフィ”を上回る。
そして、アリス自身も戦闘経験の少ないデルフィに対し、10年分のアドバンテージがある。順当に戦えば勝てる。
「貴女の夢はここで終わりです、デルフィ」
ここで墜とす。必殺の意思を込めて、アリスは宣言した。
◇
虚空に螺旋を描くように二機は宙を飛行しながら、もつれ合うようにぶつかっていく。
デルフィの射出したグラビティパイルを、アリスは背のバインダーを展開して防ぐ。
それぞれに重力子機関を内蔵したバインダーは加速器であり、防御兵装でもあるようだ。
さらに追撃しようとするデルフィに対し、“ジャバウォック”は右腕の砲を向ける。
デルフィはすぐさま射線を外すように機体を動かすが、追撃はそれで途切れてしまった。
「――――」
攻めきれない、とデルフィは感じていた。
“デルフィ”には格闘武装しか搭載されていない。背のウイングブレードと両腕のグラビティパイルだ。
そして、そのどちらもが一撃では“ジャバウォック”に届かない。機体周囲を旋回するバインダーと、本体の強固な反重力フィールドの二重の防御を抜けないのだ。
かといって追撃しようとすれば不可視の砲撃が来る。
射線上の物体を消滅させる砲撃、“デルフィ”の防御力で防げるか自信がないし、試してみる気にもなれない。
(……強い)
機動戦を継続しつつ、心中でそう結論する。
暗色のMD“ジャバウォック”の設計思想は単純だ。
“ヴィオラ”の制圧力、“セシル”の防御力、“デルフィ”の機動力、そして、固有の右腕兵装。
それら全てを有り余る出力で達成した万能機だ。
特に、右腕に接続された巨大な砲。兎にも角にもアレが厄介だった。
“デルフィ”に匹敵する速度で撃ち出される不可視の砲撃。
その存在に覚えがあった。
いつだったかトマスに教わった話に出てきたものによく似ている。
――原子変換機は取り込んだ物質を一旦分解して、まったく違う物を再生成するのだ。
原子分解。おそらくあの砲撃はそれだ。
あくまで直線軌道をとる砲撃は、デルフィの反応速度なら決して避けられないものではない。
だが、不可視であること、一撃が危険であることから、どうしても意識してしまう。
そして、アリスはそのことをよく理解している。砲撃を決め手ではなく、プレッシャーをかける手段として要所要所で用いている。
勝負を賭けなければならない、おそらくは命も。デルフィは決意する。
トマスに死ぬなと言われた。一緒に飛ぶ約束もした。
マリーやシモンともまともに話せるようになってきた。楽しいという気持ちがようやく理解できた。
宇宙に飛び出すために動いてたトマスはかっこよかった。もっとずっと見ていたい。
死にたくない。何も知らなかった頃にはもう戻れない。
だから、命を賭ける。
そうしなければならないことを、デルフィはずっと前から覚悟していた。
おそらくはこの機体に初めて乗ったときから、ずっと。
そして、その方法には気付いていた。
――『ただ、頭部から背部マウントにかけて装甲に遊びがある。何らかの展開機能があるようなのだが、解析する時間がなかった。わかるか?』
ごめんなさい。デルフィは嘘をつきました。
言えば、封印されるとわかっていたから、気付いていたのに黙っていました。
生きて帰れたら叱ってください。だから――
「お願い。力を貸して、“デルフィ”」
コンソールを撫でて少女はそう呟くと、宙を滑るように“ジャバウォック”から距離を離した。
『デルフィ?』
訝しむアリスに答えを返す余裕はない。小刻みに震える体を押さえるだけで精一杯だ。
「――機体を特攻形態に移行。最大加速、開始」
震える唇がコマンドを紡ぐ。
四大衛星へ特攻するための全力形態。“デルフィ”の本来の姿だ。
“デルフィ”は脚部関節をロック、出力経路を加速用に組み替え、展開した背部装甲から加速器が露出する。
これでもう止まることはできない。今度は止めてくれる人はいない。あとは全力でぶつかるだけだ。
数瞬、“デルフィ”が全身を撓めるように力を溜める。
次の瞬間、白亜のメタンダイバーはすべてを振り切って飛び出した。
◇
宇宙に複雑な軌道を描く白い閃光が刻まれる。
亜光速の領域に突入した“デルフィ”の姿はもう視覚では捉えられない。
だが――
「……愚かな。私がそれを知らないとでも?」
嘆息するようにアリスは告げる。
“デルフィ”を設計したのはレグナムだ。そして、衛星への特攻経験者であるアリスもまたその機能を知悉している。
四大衛星の対空防御を掻い潜って特攻するための機体の柔軟性や後退機動を捨てた加速形態。
そうして得られる出力と加速力は莫大だ。“ジャバウォック”へあと一手を詰めるには、たしかに有用に見えるだろう。
しかし、有用であるからこそ対策が立てられている。
「スプリットバード、全基展開。広域砲撃形態へ移行」
コマンドに従い、背の9基のバインダー“スプリットバード”が右腕の原子分解砲を囲むように展開する。
間をおかずバインダーは回転を始め、紫電を撒き散らして砲内に莫大な出力を溜めこんでいく。
「――発射」
瞬間、“ジャバウォック”の右腕から不可視の力場が撃ち出された。
半径数百kmにもおよぶ極大の砲撃。それがコンマ秒で前方領域を制圧する。
物質の構成自体に働きかける原子分解に防御は無意味。よって、回避するしかないが、特攻形態は速度と引き換えに機動の柔軟性を失っている。
特攻形態に入った“デルフィ”では回避できない。そうなるようにこの砲撃は設計されているのだ。
3秒先をみるアリスの予測能力は“デルフィ”が砲撃に突っ込んでいく姿を知覚する。
回避も防御も不可能。間違いなく“デルフィ”は原子の塵に還る――筈だった。
『――重力子、全解放ッ!!』
砲撃に接触する刹那。
デルフィが叫ぶ。“デルフィ”が両腕のグラビティパイルを前方の空間に打ち込む。
莫大な出力に後押しされた重力の杭はその機能に従って空間を捻じ曲げる。
「なにを、して――!?」
その瞬間、アリスは己が目を疑った。
原子分解の砲撃の中を“デルフィ”が突き進んでいるのだ。
ゆっくりとだが確実に、不可視の力場を一直線に切り裂いているのだ。
有り得ない。そう思考して自分の間違いに気づく。
それは奇跡ではなく、ただ“デルフィ”の持つ機能の応用だった。
光が重力レンズで歪むように、デルフィは自機の背後の空間を捻じ曲げて前方へと叩き込むことで砲撃の到達を遅らせているのだ。
「無駄なあがきを!!」
砲撃を継続しながらアリスは思う。時間稼ぎにしかならない、と。
現に、突き出した“デルフィ”の両腕は先端から徐々に原子の塵に還っている。本体まで砲撃に呑み込まれるのは時間の問題だ。
だが、彼女の脳裡に刻まれた操縦プログラムは冷静に予測結果をはじき出す。
そうして稼いだほんの少しの時間でこちらに到達できる可能性はゼロではない、と。
「全出力を砲撃に回しなさい、“ジャバウォック”!!」
指示に、砲撃が“デルフィ”を呑み込まんと勢いを増していく。
砲撃の余波で周囲のデブリが瞬く間に消滅していく。限界を超えた出力にバインダーが耐えきれずに爆散する。
だが、効果はあった。
白亜のMDの両腕はほぼ消失している。重力杭を保てるのもあと僅か。
『がんばって、“デルフィ”!!』
少女が叫ぶ。その声に後押しされたかのように“デルフィ”は背の翼を羽ばたかせる。
莫大な出力を叩き込まれた両翼が眩い光を放ち、推力を増す。
そうして得た加速が、1000分の1秒だけアリスを上回った。
次の瞬間、眩く飛び立った“デルフィ”の翼は“ジャバウォック”の砲を切り裂いた。
◇
ふと、10年前のことを思い出していた。
培養槽からでたとき、はじめに感じたのは「空を飛びたい」という強烈な衝動だった。
そのための機体は用意されていた。
そのための操縦方法は脳裡に刻まれていた。
だからあとは、それらを機械的に用いるだけでいいのだと判断した。
そうではないことに気付いたのはすぐあとだった。
傷つきながらも必死に空を飛び、そして墜ちていったフレイムパターンのメタンダイバー。
その姿に憧れた。
一心に飛ぶ姿に理想を見た。
空を飛ぶというのがどういうことなのか、本能が理解した。
(……そっか。アリスはこの気持ちをレグナムにみたんだ)
それは想像でしかなかったが、なぜか合っていると確信できた。
どうやら自分と彼女は似た者姉妹だったらしい。
そのことが、どうしてか嬉しかった。
『――!! ――フィ!!』
ふと、耳元で怒鳴る通信にデルフィは意識を取り戻した。
溺れかけていたところを引き上げられるように意識が浮上する。
数分、気を喪っていたらしい。目の前には汗とも涙ともつかない雫がふよふよと浮遊している。
ぼやけた視界でモニターを見れば、衝角の折れたレコードブレイカー重装型の姿が映っていた。
『聞こえたら返事をしてくれ、デルフィ!!』
「……トマス」
どうにか返事を返すと、通信機から安堵の吐息が漏れ聞こえた。随分と心配をかけたらしい。
どうやら“ジャバウォック”を突破したまま宇宙を放浪しかけたところをトマスに確保されたらしい。
危ないところだった。勝ったのに行方不明になるなど目も当てられない。
「……勝ったよ、トマス」
『そうか。よくやった。怪我はしてないか?』
「うん。ちゃんと死ななかった」
『ああ、よかった……』
でも、特攻形態のことを正直に言ったらトマスは怒るだろう、とデルフィは思った。
戦闘の顛末について帰ったらどう言おうか、今から悩む。
「アリスは?」
『近くには見当たらないな』
「そう。機体に致命傷は与えたと思う」
『……随分、無茶したみたいだな』
「かもしれない」
ダメージチェック、“デルフィ”は両腕を喪失、翼や前面装甲に重度の損傷。
重力子機関も7基のうち6基までが停止している。辛うじて全損は免れたが、戦闘機動はもう無理だ。
こちらについては正直に報告する。
「わたしはしばらく動けない。トマスは先に行って」
『……気をつけろよ。もし動けるようになったらマリーを回収してやってくれ』
「わかった」
会話はそれで十分。レコードブレイカーは徐々に離れていく。
『飛べたのか、デルフィ?』
ふと、囁くように問われた言葉にデルフィは淡く笑みを浮かべた。
「うん……わたしは、飛べたよ」
『なら、あとは任せろ。決着をつけてくる』
「いってらっしゃい、トマス」
そして、レコードブレイカーは速度をあげて宇宙の彼方に向かって飛んでいった。
行って、トマス。祈るように、憧れるように、もう一度デルフィは呟いた。
この距離なら少女にもわかった。
トマスの向かおうとする先に不可視の大質量物体がある。
――方舟“アトラ=ハーシス”はすぐそこだった。




