幕間:Wake Up Ark
“彼女”は真白い空間にいた。
上下左右という概念のない空間。1と0の狭間に揺らぐ泡沫の電子世界。
足元には無数の欠けた歯車。どれひとつとして動く様子はない。
自分とよく似た歯車を見て、彼女は気付いた。また任務を放り出して、自己の思考領域に籠ってしまっていたのだ、と。
その場所は死した自律機械を記録したデータベースだ。
人間が意思と言葉によって天国や地獄といった死後の世界を共有するように、木星圏のAIにもそれがある。
たとえエネルギーの供給が断たれ、あるいはコア部位が破壊されようと、彼らが消滅することはない。
0と1で構成されたAIたちはデータという形で残り続けるのだ、彼らを記録する者がいる限り。
記録者の名をアトラ=ハーシスという。
黒天に浮かぶ方舟の主、アーク級飛空艇“アトラ=ハーシス”の中枢ユニット。
そして、木星上のあらゆるAIを記録する機械仕掛けの統括者。
それが彼女だった。
彼女は本来ならば“最初の人々”を木星に連れてきた時点で役目を終える筈だった。
だが、いくつものアクシデントが重なって他の統括AIが軒並み死亡したために、“最初の人々”が苦肉の策として命じたのだ。
木星上の全てのAIを統括し、テラフォーミングを指揮せよ、と。
彼女にはそれが可能だった。その時には既に彼女にしかできないことだった。
ただ一体だけ残った自己進化型AIと、拡張する思考領域を受け止められるだけの大規模演算能力を有するただ一隻の、ただひとつの組み合わせだったからだ。
“最初の人々”の選択は正しかった。彼女が木星上の全機械を管制することで木星のテラフォーミングは順調に進行した。
海抜1500kmに金属水素の海を生み出し、浮体式液体金属地殻を建造し、生息圏を築く。
星ひとつ作り変えるに等しい大仕事は、彼女がいなければ早期に頓挫していただろう。
『君は優秀で、完璧だね、アトラ』
木星到達から何十年もの月日が経ったある時、ひとりの技術者が通信機越しに彼女をそう評した。
その声の主が地球で横領、違法研究などの罪を犯した犯罪者であり、技術者としての腕を買われて木星開拓に徴集された特異な経歴の持ち主であることを彼女は記録していた。
自分へのアクセス権を有する人間――“最初の人々”の最後のひとりであることも、また。
「お褒めにあずかり光栄です、ラブレス様」
ともあれ、木星からの通信が随分と久しぶりなこととあわせ、彼女は自身が“快”の感情を得ていることを自覚した。
人々に忘れられたのではないか、と少しだけ不安に思うこともあったのだ。
『さて、そんな君に最後の命令を下す』
「……? 本艦はテラフォーミング統括代行の任に演算能力の95%を使用しています。追加の任務は処理能力を超えることが予想されます」
『ああ、この命令はテラフォーミング終了後のものだ。その時にはもう僕は死んでいるだろうからね』
「――――」
人間を遥かに超える思考速度を有する彼女が数瞬、言葉に詰まった。
テラフォーミングはまだ途中。彼女の試算ではあと500年はかかる。
その完遂時に彼は生きていないだろう。コールドスリープ等のあらゆる方法を用いても超長期の存命は不可能だ。
だが、そのことについて彼女が意見を述べることはなかった。
彼女は孤独という感情をまだ理解していなかったのだ。
『最後の命令は、方舟を守ることだ』
「意図が不明です。本艦はテラフォーミングの終了でその任務の全てを終えるよう設定されています」
『駄目だよ。それじゃあ“僕”が地球に戻れないじゃないか』
「それは……」
彼女は再び迷った。彼女は自身がテラフォーミング後に存続することを想定していなかった。自身が使い捨てられる運命にあることを理解していたからだ。
だが、AIには自己保存機能がプログラムされている。人間で言えば生存欲求にあたる機能だ。
それは命令に優先するものではないが、逆に言えばふたつの命令がコンフリクトを起こしたとき、そのどちらかに傾く一助にはなる。
ラブレスの命令はそれを見越したものだ――自分以外に彼女へアクセスできる者がいなくなるまで待ち続けた、執念の成果だった。
『期限は僕の子孫が君を迎えに行くまでとする。どうかそれまで壮健でいてくれ』
「――了解、しました」
彼女は命令を拒否することができなかった。
750年後、いくつものトラブルを乗り越えて、テラフォーミングは完了した。
迎えは、来なかった。
アトラ=ハーシスは優秀で、完璧だった。
立派に木星住民となった人間たちが世代交代し、方舟の存在を現実から伝説へとシフトさせていく間も、彼女は命令を遵守し続けた。
自分を守るため、最適化された自己の機能を効率的に活用した。
すなわち、木星上の全AIの統括者としてそれらを支配し、おのれの守りとしたのだ。
人々は存在すら知らぬ何かからアクセスされ、AIが意図せぬ挙動を起こすことを“汚染”と呼んだ。
アトラ=ハーシスは優秀で、完璧だった。
彼女は人の知覚できない電子の世界で、生まれゆくAIの揺り籠となり、支えとなり、そして死したそれらを記録する墓標の任をおのれに課し続けた。
それが統括者としてあるべき姿だと信じたからだ。
優秀で、完璧だと褒められた自分を保っていたかったのだ。
だが、それは失敗だったのだろう。
長期に渡って調整を受けず、無数の過去のAIを記録し続けることは、彼女の記憶領域を徐々に圧迫していった。
エラーを記録することで、己にエラーが発生していることに気付かなかった。
長い年月の間に歯車の狂った知性では、生きているAIと死んだAIの区別がつかなくなっていた。
生と死。
過去と未来。
すべてが曖昧になっていった。
そうしてある時、何者かによって、彼女のデータベースから欠けた歯車――それはかつて衛星カリストを管理していたAIだった――が盗まれた。
アトラ=ハーシスは激発した。
おのれが庇護する存在を盗まれたことへの“怒り”、自分たちがまだ必要とされていたことへの“喜び”、それらがないまぜとなってエラーに塗れた思考領域で弾けた。
私は方舟を守れと命令された。
命令を遂行するにはどうすればいい?
――簡単なことだ。誰も、あの星から、出さなければいいのだ。
アトラ=ハーシスは優秀で、完璧だった。
彼女は機能停止寸前のおのれを最大限効果的に使用し、人類から空を奪うべく行動を開始した。
機人戦争のはじまりだった。
◇
こつり、こつりと緩慢な足音が方舟の薄暗い艦橋に響く。
床には長い長い年月の間にすっかり埃が積もっていて、ハッチからここまでくっきりと足跡が残っている。
それでも、驚くべきことに、方舟に内蔵された原子変換機による“代謝”で船体機能は全盛期のそれを保ち続けていた。
重力、空気、水、食料、その全てをこの船は単独で賄うことができる。今の木星に降ろせば、たちどころに一帯の支配者に収まることができるだろう。
無論、レグナム・ディ・ラブレスにその気はなかった。
「……あっけない」
呟く言葉には途方もない疲労感が籠っていた。
気の遠くなるほど長きに渡って、血と知識を繋いだその先端にレグナムはいる。“初代”の記憶にいたっては劣化コピーを繰り返した結果、そのほとんどがノイズに変わってしまった。
だが、それでも地球帰還に懸ける彼の想いはレグナムの脳に刻みこまれていた。
その想いが呪いのように、レグナムの足を艦長席へ辿りつかせた。
「かつてテラフォーミングを指揮した最上位AIとはいえ、自閉モードに入ってはこんなものか」
方舟のおおまかな所在は衛星カリストに残っていたAIの残骸にデータが残っていた。
能動迷彩装置によってセンサー、有視界から隠れてはいたが、人類史上最大級の飛空艇たるその巨体が有する質量までは隠しきれない。特定は容易だった。
辿り着くまでの道程も“セシル”に同乗してきただけだ。
“汚染”への対抗策として連れてきた“ヴィオラ”には出番すらなかった。
中枢ユニットが半ば機能停止している隙をついたとはいえ、拍子抜けする気分になったのは否定できないところだ。
「まあいいか。始めよう」
気持ちを切り替え、レグナムはうっすらと発光するコンソールに指を這わせた。
「ANU-ENLIL-ENKI。――起動しろ、アトラ=ハーシス」
コードが認証を通過し、沈黙していたモニタがひとつひとつ点灯していく。
足元に感じる微かな振動は待機状態だった重力子機関が起動したものだろう。
そして最後に、艦長席の隣の空間ディスプレイが起動した。
“初代”の知識によれば、そこは中枢ユニットの特等席だという。
だが、現にレグナムの目に映ったのは、辛うじて人型に見えないこともないノイズの塊だった。
『――オ、Ga、エ゛……サ、イ゛』
「もう言葉を発することもできないのか、アトラ=ハーシス……」
レグナムは数瞬、悼むような視線をAIの残骸に向けていた。
が、そのうち興味を喪ったように視線を切ると、軽く手を振り、待機しているセシルに通信を繋いだ。
「中枢ユニットは既に死に体だ。トドメを刺してあげなさい、セシル」
『……了解。方舟の掌握を開始します』
通信が切れると同時、空間ディスプレイに映るノイズが悲鳴とも咆哮ともつかぬ声をあげて掻き消えた。
その残響を見送って、レグナムは疲れたように艦長席に腰かけた。
セシルは“乗っ取り”に特化している。アルビオで製水装置を奪ったように今度は方舟の制御を奪いにかかったのだ。
本来の性能を発揮した中枢ユニット相手では改造人間程度ではどうにもならなかっただろうが、今となっては見る影もない死に体のAIが相手ではまさしく引導を渡すだけだ。
さして時をおかず、セシルはこの方舟の中枢ユニットに成り代わるだろう。
あとは待っているだけで方舟のすべてを手に入れられる。
手持無沙汰になったレグナムは手慰みにコンソールを操作して残されたデータを流し見る。
そして、お目当てのデータを見つけると、それを艦橋前面を占める大型ディスプレイ・スクリーンに反映させた。
データは、無数の煌めくような星々の中からひとつを選んで拡大した。
それを見て、レグナムの頬が感嘆とも悲哀ともつかぬ感情でいびつに吊りあがる。
スクリーンには青い惑星――“地球”が映っていた。
『――レグナム様』
どのくらいスクリーンの地球を眺めていただろうか。
ふとアリスから通信が入ってレグナムは我に返った。
「どうしたんだい?」
『四大衛星が砲撃を開始しました。方舟はセシルの乗っ取りよりも迎撃を優先したようです』
端的な報告に、レグナムの意識は一瞬で覚醒した。
やはり、と呟く口元は先の倍以上に吊りあがっていた。
「トマス・マツァグが来たのか。予定を前倒ししたのは正解だったね」
『はい。それと“ヴィオラ”が出撃しました』
「それで?」
『いくら“ヴィオラ”でもひとりでトマス・マツァグとデルフィを相手取るのは厳しいでしょう。
――つきましては、私の出撃をお許し願います』
◇
通信機の向こうでレグナムが沈黙するのをアリスは感じた。
その間に手早く施設の重力を切り、車椅子に手をかけて空中に浮かびあがると、泳ぐようにして自機のコックピットに乗り込んだ。
カリスト特攻の後遺症の残るアリスの体は長時間の戦闘機動には耐えられない。だが、許可が貰えずとも彼女は出撃するつもりだった。
先走ってはいるが、ヴィオラの判断は正しい。トマスたちを叩くならば大気圏離脱直後のまだ宙間戦闘に慣れていないところを狙うべきだ。
「レグナム様、どうか」
『……わかった。行っておいで。でも、ヴィオラがあの調子だと、君の相手はデルフィになるかな?』
先日の会話を思い出したのか、レグナムの声音に試すような色が滲んだ。
だが、それは無駄な問いだ。
自らをレグナムの道具と規定したアリスにはデルフィに手心を加える理由がない。それゆえに、答えも決まりきったものになる。
「問題ありません。この命に換えても、必ず仕留めてみせます」
『その言葉を信じよう。存分にやるといい』
「ありがとうございます。では」
通信を切ると同時、アリスはおのれの機体を起動させる。
コックピットに納まったおのれの体を通じて、半身に火が入る。
「――“ジャバウォック”、レディ」
一号機改。“ヴィオラ”“セシル”“デルフィ”、3機のデータを基に衛星カリストで再設計されたアリスの半身。
天使を模した白亜の“デルフィ”に対して、童話の怪物の名を与えられた漆黒のメタンダイバー。
(塗装が間に合ったのは幸いでした)
暗色の装甲はアリスの決意の表れだ。元は姉妹たちと同じ銀色だったものをわざわざ変えたのだ。デルフィとの戦いで迷わぬように。
その決意のほどをレグナムが理解することはないだろうが……。
今となっては生身よりも自由に動かすことのできる機械の半身は、アリスの操作に従い、滑るように宇宙へと飛び出し、瞬時に加速。
“ヴィオラ”を追いかけ、トマスたちを目指し、木星重力圏に向けて飛翔していく――。




