3話:Take Off Again
早朝の地下ドックは痛みすら感じるような静けさに満ちている。
その中で、着慣れたパイロットスーツの接続を確かめ、トマスは愛機の前に立っていた。
マリーは既に準備を終えて後部のツァハ級に乗り込んでいる。今はデルフィ待ちだ。
とはいえ、そう待つことはないだろう。出発はすぐそこまで迫っている。
がっちりと腕を組んで緊張を誤魔化しながら、トマスは脳裡に昨夜の会話を再生していた。
◇
「――何度かガラクタを打ち上げてみたが、10年前の記録と比べると撃墜されるまでのタイムラグが大きくなっている」
シモンは現在地である“中央遺跡”周辺の地図を床に広げ、数か所を指し示した。
そこにはいくつかの条件と時間が書かれている。射出角や時間帯を変えて何度かガラクタを打ち上げてみたのだろう。
「日によって変化もあるが――午前6時。計算上、そこが最も迎撃までの時間を長くとれる」
「どのくらいだ?」
「80秒」
「……いけないこともない、か」
シモンの弾きだした計算結果に、トマスはやや渋い反応を返した。
木星の大気圏はトマスらのいる人工地殻から3500km上空まで続く。それを80秒以内に抜ける計算になる。
無論、大気圏離脱には相応の速度を確保しなければならない。重力を振りきるのに加え、複雑な気流を孕む常時雲を突き抜けるためにも必要となる。
レコードブレイカー重装型も“デルフィ”も設計上、それに足る速度を叩きだすことはできる――妨害がなければ、だが。
「まったく、お空の機嫌次第ってのは最後まで変わらねえな」
「あとはレグナムたちがどう出てくるかね」
方舟争奪戦に加わるには、まずは宇宙に辿りつかねばならない。
しかし、レグナムが雲を突破しようとするトマスらに妨害の手を伸ばしてくるのは必至だろう。
「――たぶん“ヴィオラ”がくる」
大人たちの話を聞いていたデルフィが淡々と私見を述べる。
その点はトマスも同感だった。
飛空艇を模した“セシル”と比べて、“ヴィオラ”はかなり戦闘に寄った機体構成をしている。
当然、こういった場で出してくると考えるべきだろう。
「そうだな。とにかく宇宙に出るのが最優先。次に脅威の排除、最後に方舟の捜索だ」
「方舟の所在にアテはあるの?」
もっともなマリーの問いに、トマスはにやりと悪ガキのような笑みを浮かべた。
「見ればわかるさ。どうせレグナムが派手にやってるだろうからな」
◇
「――待った?」
しばし思考に没頭していたトマスに抑揚の少ない声がかけられる。
見下ろせば、透き通るような水色の髪が視界に入る。
トマスは苦笑し、手を伸ばしてやや乱暴にデルフィの髪を撫でた。
「いいや、俺も今来たとこだ」
真っ直ぐに見返してくる金瞳に揺れはない。
それはかつての何も知らない少女のそれではない。しっかりと己を定めた者の目だ。
大きくなった、とトマスは思った。
外見的には半年やそこらでそこまで変化がある訳ではない。
だが、少女の内面に生じた変化はまさしく成長というべきものだ。
半年前のデルフィならば、他人を気遣うなんてことはできなかっただろう。
もうナイアスの家でただトマスを見上げていた人形のような少女はいない。
ここにいるのは確固としたひとりの人間なのだ。
そのことが少しだけ寂しく、なによりも誇らしい。あるいは、ひとり立ちする子を見送る親というのはこんな気持ちなのかもしれない。
「行けるな、デルフィ」
「うん。夢を叶えにいこう、トマス」
頷き合い、ふたりは互いの機体に乗り込んだ。
「神経接続開始、システム起動、全機能クールからホットへ」
『全機能正常、出撃準備へ移行』
狭苦しいコックピットの中でトマスはひとつひとつ計器を起こしていく。
(本当にこんな日が来るなんてな)
トマスの胸中には言葉にしがたい感慨があった。
足を止めて、回り道して、それでも自分は夢に手をかけるところまで来た。
――全てはデルフィに会ったあの日から始まった。
凍った時計は動きだし、今、空へと飛ぼうとしている。
モニターの向こうでは、白亜のMDが舞うように小さく跳び、剣のような形をしたこの機体の“鍔”に手をかけ、機体を接続している。
『接続確認……七連重力機関、正常起動、重力子展開率40%』
「三連重力子機関、正常起動。予備重力子機関……接続確認、重力子展開率50%」
『エア正常、全機能正常起動を確認』
「マリー」
『こっちはいつでもいいわ』
「よし……」
意図せず、不意に言葉が途切れた。
飛べば、墜ちる。
決して曲げることのできない事実が脳裡をよぎったのだ。
いかに重力を捻じ曲げようとも、空を飛ぶ者はいつかは地に墜ちるのが定め。
今度は今までよりも高く飛ぶ。墜ちれば確実に死ぬ。妻も娘も巻き込んで、死ぬ。
だが、それでもトマス・マツァグは飛ぶのだ。
「……シモンッ!!」
『がなるな、聞こえておる。ハッチを開けるぞ』
シモンの操作に従い、頭上の何重にも閉鎖されていたハッチが開く。
空が見える。
永遠の曇天に覆われた空。
いつかあの向こうに行くのだと願った、夢の叶う場所。
『行って来い、馬鹿息子』
「ああ、行ってくるぜ、頑固親父」
ぐらりと重力の捩れ、機体が浮き上がる。
すぐには飛ばない。少しでも初速を稼ぐために“溜め”を作る。
地下ドックに溜まっていた塵が二機を中心に渦を巻くように回転し、徐々に加速していく。
『行け……行くんだ、トマス!!』
祈るようなその言葉がトリガーとなった。
「――イオンブースター点火」
次の瞬間、重力方向を捻じ曲げた二機は弾けるようにメタンの空へと落下した。
◇
それはさながら天へと昇るひと筋の彗星のようだった。
二機がひとつとなり、ただ真っ直ぐ、ひたすら真っ直ぐに飛んでいく。
機械によって封じられていた限界高度を一瞬で突き破り、一直線に常時雲へと向かっていく。
「マリー、カウントは!?」
『あと40秒』
「いける、か……?」
凄まじい速度で上昇していく中、トマスは小さくひとりごちる。
残り2000km。現在速度は秒速60kmを超え徐々に加速している。このペースを保てれば大気圏離脱はほぼ確実に成功するだろう。
とはいえ、モニターの外は雲に覆われて視界は効かず、現在高度は完全に計算だよりだ。重力がなければ上下すらわからない。
加えて、先ほどから強烈な乱気流が機体を盛大に揺らしている。
大気圏離脱の関門、明色の帯の雲と逆向きに流れる暗色の縞の雲がぶつかって起きる気流の乱れだ。
木星という星が巻き起こす巨大な風はメタンダイバーを翻弄するように一瞬ごとに風向きを変えていく。
トマスも過去、何度となくこの暴風の層を突破できずに墜落した。
出力に余裕のある“デルフィ”がかなりの部分を受け持ってくれているとはいえ、こちらの機体も保持に少なくない出力を持って行かれる。
「デルフィ、現在速度を維持してくれ。細かいコントロールはこっちでやる」
『了解』
言って、トマスは操縦に集中する。
肌が擬似神経回路を通じて機体に吹きつける風を感じる。遠くで雲と雲の間に瞬く雷を知覚する。
それは無論、錯覚にすぎないが、幾度となくこの領域に挑んだ経験が、錯覚を本物に変える。
デルフィを追いかけて一度は抜けた関門だ。できない筈がない、そう自分に言い聞かせる。
『あと30秒』
マリーのカウントが耳に届く、我に返れば既に乱気流は抜けていた。
周囲を見れば、雲も徐々に密度を減じ、同時に空の色も薄れている。
星と宇宙の境界は曖昧だ。それでも、近付いていることはわかる。
『あと20秒』
知らず、ばくばくと心臓が高鳴る。
戦場に向かっていると理解して尚、それを上回る期待と高揚を抑えきれない。
ここから先はトマスも未知の世界なのだ。
『あと10秒』
あと少し。あと少しで届く。
この調子ならいける。トマスはそう考え、
『――来る』
聞こえた少女の声に、反射的に機体を横に飛ばしていた。
きっかり3秒後、トマスらのいた場所を雲を突き破って落ちてきた質量弾が通過した。
さらに続けざまに落ちてくる次弾をのけ反るような縦向きのバレルロールで強引に回避する。
相対速度は如何ほどか、質量弾が音の壁を突き破った衝撃だけがコックピットまで伝わってくる。
『読まれていた?』
「だろうな。だがもう遅い。トばすぞ。しっかり掴まってろよ!!」
トマスは機体に接続された3基ある予備の重力子機関のひとつを起動する。
3度だけ可能な外部出力による超過駆動。使うならここだ。
上空からは雲を突き破って次々と質量弾が落下してきている。
空を埋めるかのような質量弾の驟雨を、トマスはじっと睨みつける。
次の瞬間、空間が撓むようにして二機が加速、質量弾の隙間をすり抜けた。
質量弾にかすった側面装甲が赤熱化し、音を衝撃として伝える。
構わず、加速する。
なにもかもを振り捨てるようにただひたすらにソラを目指す。
押し潰されるような重圧の中、微かに聞こえるマリーのカウントがゼロを告げた。
そうして遂に、トマスたちは大気圏の最上層を飛び出した。
はじめに気付いたのは、目の前で玉になって浮かんでいる汗だった。
重力がないとこうなるのか、とトマスは呆けたように呟いた。
『これが宇宙……』
通信機越しの感嘆のこもったデルフィの声に、トマスも視界を外部モニターへ向ける。
次の瞬間、巨大なハンマーで殴られたような衝撃が全身をひた走った。
アイカメラが捉えたのは、どこまでも続く黒天の世界だった。
ただひたすらに広い。奥行きなど考えるだけ無駄だろう。遠くに輝く煌めきのひとつひとつが星なのだから。
背後を見れば、そこには巨大な惑星があった。
その表面は歪な斑模様の帯や渦がゆっくりと回転していて、まるで生きているかのような感覚を受ける。
トマスは生まれて初めて木星を“外”から見た。
「――これが、俺たちの星なのか」
パイロットスーツの下で、全身の皮膚という皮膚がぞくぞくと震えだす。
その光景はトマスの想像を遥かに超えていた。
あの雲の下で生きてきたのだ。そして今、その先にいる。
ただそれだけのことがたまらなく誇らしかった。
とはいえ、いつまでも感動に浸っている訳にはいかない。
トマスはかぶりを振って、呆ける己を叱咤する。
宙に、汗ではない水の雫が散っていた。
「マリー、デルフィ、気分はどうだ?」
『――問題ない』
『大丈夫。周辺情報の収集は始めている。あと30秒ほしい』
「ああ、頼む」
指示を出しながらも、トマスの脳裡では疑念が徐々に膨らんでいた。
大気圏離脱直前には雨霰と降ってきた質量弾が、静止軌道上では何故か止んでいるからだ。
宇宙に出たら上下左右から滅多撃ちにされることも想定していたので、この沈黙はいっそ不気味にすら感じられる。
とはいえ、その理由は推して知れた。
質量弾の砲撃を指示しているのはおそらく方舟アトラ=ハーシスだ。
そいつは“最初の人々”の遺産とはいえ機械であることには変わりなく、処理能力には限界がある筈だ。
すなわち、他に手を焼く事態が勃発していれば、当然こちらに構う余裕はなくなるのが道理だ。
それはたとえば、本船が攻撃を受けているとかだ。
「タイミングが良かったのか悪かったのか、微妙なところだな」
『レグナムが方舟確保に動き出した?』
「たぶんな。場所は木星からそう遠くは――」
瞬間、コックピットにアラートが鳴り響いた。
トマスは慌てず、モニターの一点に映った接近する光点を拡大する。
拡大したモニターに映るのは、杭状の両腕を有する“虫”を模した銀色の中量多脚型MD“ヴィオラ”。
ある意味で予想通りのお出迎えだった。




