2話:Dove Wings
ごぉん、ごぉんと腹の底に響くような音が“中央遺跡”の地下ドックに反響する。
それは天井部に配されたメタンダイバー用の多重ハッチが閉まる音であり、トマスが試験飛行から帰還した知らせでもあった。
ゆっくりと機体底部を接地し、重力子機関を停止させたトマスは、ひとしきり事後点検を行うとコックピットを出た。
「よっこらせっと」
とん、とんと側面装甲の出っ張りを蹴ってドックに降り立つ。
つい口を吐いて出た言葉については気にしないことにする。心はいつでも童心なのだ。
ともあれ、シモンが全精力を傾けて修復・改造しただけあって、愛機の状態はこれ以上はないと言って良い仕上がりだ。
技術者としての誇りが機体の細部まで宿っていて、操作感覚も素体とほぼ変わりない。
まともな設備もない中でよくぞここまで、とトマスはおのが父のことながら感嘆する思いだった。
「あとは最終調整を待つだけ、か」
ひとり呟き、地下ドックを見渡せば、デルフィも最終調整を兼ねてシモンの指揮の下、“デルフィ”を駆って物資の搬出を手伝っている。
さしもの“粉砕姫”もコンテナを運搬するだけではMDを壊すことはないとはいえ、この星のハイエンド級のMDを荷物運搬に用いていることは凄まじい違和感だ。
と、そのとき、トマスの腹の虫が鳴いた。
気付けばもういい時間だ。機体の調整にかまけてすっかり昼食を摂り忘れていた。
「というか、あいつらも食べてないよなこれ」
慌てて昇降機に乗って食堂奥の調理場に向かう。
腹ペコじじいは限界になれば勝手に栄養補給するが、腹ペコ姫はそうではない。
さりとて文句を言う訳でもないが、ただ切なそうな表情で自分のお腹をさするのだ。見ているだけで心が痛む。
他の誰かが料理できれば解決する話だが、シモンは元より料理するという文化がない。デルフィもまだ指導中、ひとりで台所に立つのは止めている。
あとは、台所に入ると物理法則の歪む疑惑のあるマリーだけだが――
「――あの、マリーさん、これは何でしょうか?」
思わず、妻をさん付けで呼んでしまう物体が調理場に入ったトマスの前にあった。
それは皿の上に載っていた。
トーストしたパンの内側にバターを塗り、スライスした野菜とチーズとハムを挟み、アクセントにマスタードがかかっている。
その隣にはポテトサラダや厚焼き玉子を挟んだものもある。
つまり、
「サンドイッチ。作ったの」
そう、サンドイッチだ。トマスの知るそれにそっくりだ。かりかりにトーストしたパンからは香ばしいにおいまでする。
論ずるまでもなく、どこからどう見ても完全無欠にサンドイッチだ。
であるのに、トマスの頬を緊張の汗が流れおちていた。
「……」
慎重にサンドイッチと思しき物体を検分しつつ、ちらりとマリーの顔を窺う。
彼女はいつも通りの涼しげな表情をしているが、どことなく得意げだ。
マリーは料理を失敗してもそれを隠したりはしないし、見た目だけ普通などという器用なものを作ったことはない。
今までも不味いものは不味そうな見た目をしていたし、ヤバいものはヤバそうな見た目をしていた。
逆に言えば、大丈夫そうな見た目なら、味も大丈夫な公算が高い。
(ええい、ままよ!!)
意を決してぱくりと不確定名サンドイッチにかぶりつく。
噛み締めるようにひと口、ふた口、とゆっくりと味わい、咀嚼する。
そして、一言。
「食べられる」
トマスの驚きとひとつまみの感動の籠った感想に、マリーはほっと安堵の息を吐いた。
「味はどう?」
「……普通だ」
「そこはおいしいじゃないの?」
「そこは誤魔化さねえ。けど、この前までデルフィが監視してないと何しでかすかわからなかったのと比べたら格段の進歩じゃねえか。なにか秘訣でもあるのか?」
問いに、マリーが手元のPDAを操作すると、その背後からロボットが顔を出した。
レグナムがトマスに会うのに使用したのを回収、修理したものだ。
擬似神経回路まで搭載された完全手動入力タイプで、主としてMDの遠隔操作や危険区域の探索に使われる。
外見は防諜のために外皮を引っぺがしたので金属骨格が剥き出しで、吹き飛ばした下半身はあり合わせのパーツに置き換えてある。
どうにもグロテスクだ。暗がりで見たらトマスでもびびる。
そして、その存在が答えだった。
「おい、まさか――」
「台所に入るのが駄目なら、台所に入らなければいい」
「お、おう……」
調理場面を想像するとかなりシュールだ。
なにか情報はないかと回収して内部記憶を洗って、さしたる手がかりは得られなかった残り物だが、まさか家事に使用するとは製作者のレグナムですら思いもよらなかっただろう。
ともあれ、食い物に罪はない。
残りのサンドイッチを頬張りながら、トマスはふと気になったことをマリーに尋ねた。
「おまえが操作できるってなると――」
「ええ、基本構造は都市連合軍で使ってたのと同じ遠隔操作タイプ。ブツは衛星で製造したにしても、操作方法については軍が有していた学習装置でしか学べない」
「ガチの機密じゃねえか。レグナムとサイファーが同一人物ってのはマジっぽいな」
「可能性は高いと思う」
「厄介なヤローだぜ、まったく」
そうして、互いの言葉が途切れ、沈黙だけが残った。
調理場にはもしゃもしゃとサンドイッチを頬張るくぐもった音だけが響く。
だが、いつかとは違い、その沈黙は決して不快なものではなかった。
「ふう、ごちそうさま」
「ねえ」
皿の上を綺麗に平らげたトマスにコーヒーをだしながら、マリーが改めて声をかける。
「私にはついて来るなって言わないのね」
「……俺がうしろを任せられるのは、その、おまえだけだ」
さすがに面と向かって言うのは恥ずかしくて、トマスはそっぽを向いて告げた。
マリーは微かに目を見開いて「殺し文句ね」と小さく呟いた。
「私もリセに借りを返さないといけないし、ちょうどいいわ」
「担がれたままじゃ終われないか」
「当然」
「だろうな」
トマスは立ち上がってズボンの裾で手を拭うと、マリーに手を差し出した。
「それじゃあ、ちっと方舟までよろしく頼む」
「ん、了解」
マリーはその手を握り返し、ついでにぐっと引き寄せる。
思わずトマスがたたらを踏む。
次の瞬間、マリーは夫を抱きとめるようにして顔を寄せ、鮮やかに唇を奪った。
その場から、音が消えた。
口づけは長く、顔を離したときには互いに息を吐いていた。
「……モク、吸わなくなったんだな」
「気付くのが遅い」
◇
――数日後。
地下ドックはひと通りの作業が終わり、発射に向けてスクラップの山が片付けられていた。
あとに残っているのは白亜のメタンダイバー“デルフィ”と、トマスの愛機であるレコードブレイカー、……に辛うじて見えないこともない巨大な装甲板の塊だけだった。
それは一見して、分厚い刃を有する“剣”のような形状をしていた。
その印象を強めているのは、宇宙での戦闘に備えて追加された、機体を上下から押し包むように伸びた前面の衝角と、左右を包む灰色の装甲板だ。
どちらもセントラルの最も硬く、柔軟性のあるメインプレートを削りだし、突貫作業で成形したものだ。幾度の質量弾の落下にも無傷で耐えたプレートの強度は折り紙つきだ。
装甲内部の増設された内部スペースには追加の重力子機関や酸素タンク、船外活動装備や携行火器、爆薬などが積みこまれている。宇宙での長期活動を見越したものだ。
もっとも、そんな重装甲を追加してしまったために、今ではMDというより小型の飛空艇に近い大きさになってしまったが。
「ふむ。言うなれば、レコードブレイカー重装型といったところか」
「悪くねえな。まあ、見た目は継ぎ接ぎここに極まれりって感じだが」
「仕方あるまい。外装に手を入れる時間はないのだ。……だが、間に合った」
「ああ……」
揃って子供のような憧憬の眼差しで愛機を見上げながら、トマスとシモンはこつりと拳を合わせた。
言葉にできない複雑な感慨が親子の間にあった。
重装型は“二人乗り”――より正確に言えば“二機乗り”として設計されている。
すなわち、主として操作を担当する前部MDと、巡行時の制御を担当する後部MDだ。
大気圏を離脱するだけなら素体のレコードブレイカーだけで済む。
だが、常に質量弾が飛来する危険のある宇宙空間に居続けるなら、交代で休息をとるために複座型にする必要があった。
ただし、機人戦争の勃発で後部専用MDは設計すら出来ず頓挫、今回はマリーの重量級を宇宙用に改造して載せている。
――搭載したのは、シモンのメタンダイバーではない。
もちろん、作業時点でわかっていたことだ。
だが、それでも、その事実はトマスにとって叫びだしたくなるようなものだった。
シモンの体はもう大気圏離脱の負荷に耐えられないのだ。
「戦争でうやむやになって10年、長いようで短かったな……」
皺だらけの目をさらに細めて、シモンはそうひとりごちた。
その横顔を見て、トマスは発しかけた問いを飲み込んだ。
父の頬を一筋の雫が流れていたからだ。本当によかったのか、などと訊ける筈がなかった。
悔しいのだ。当たり前だ。人生の内の60年、トマスの生まれる前からこの男は空に憧れ続けていた。
その夢の実現を、自ら諦めて悔しくない筈がないのだ。
10年前、機人戦争がなければ、ふたりは連れだって宇宙に飛び出していただろう。
この機体はその“もしも”を、シモンが全身全霊で形にしたものだ。
そこに込められた想いを無下にしてはならない。
トマスは視線を愛機に戻し、無言の内にそう誓った。
「……追加装備の説明をする」
しばらくして、乱暴に目元を拭ったシモンはそう言って、レコードブレイカー重装型の装甲を軽く叩いた。
「この中に外部供給式で予備の重力子機関を三基取りつけた。理論上、本体の重力子展開率を維持したままで超過駆動を三度行える」
「そいつはまた尖った調整だな。いや、元からピーキーだったけどな」
「今さら武装を追加しても意味はあるまい。使った端からパージしていけば重荷にもならんだろう。うまくやれ」
「あいよ」
「うむ。あとは――」
それから細々とした確認をしたあと、ふとシモンはトマスの顔を見遣った。
「トマス、今、どんな気持ちだ?」
「……わくわくしてる」
わずかに迷い、それでもトマスははっきりとおのれの心を告げた。
引け目は無論、感じている。だが、ここでシモンを気遣って言葉を濁したところで意味はない。
トマスにできることはメタンダイバーに乗ることだけなのだから。
「俺たちで宇宙に行くんだ。あの雲の向こうへ」
だから、トマスは胸を張ってそう続けた。
シモンだけではない。かつて同じチームで共に空を目指し、そして散っていった仲間たち。彼ら全員の夢をトマスは背負っている。
「父さん、アンタの夢も俺が連れていく。だから、だから……」
感極まったせいで、どうにも声が上ずってしまう。
かつて、方舟に乗って木星にやってきた“最初の人々”は多くの夢や物語をその脳裡に刻んでいた。アースマンの伝説とてそのひとつだ。
人から人へと伝えられるその想いはどれだけメタンダイバーに載せてもかさばることはない。
胸がはちきれんばかりに持ち込んだって咎められることはない。
「夢が叶うんだ。みんなで見た夢が、やっと……」
「そうだな。お前はそれでいい。頼むぞ、トマス」
顔をくしゃくしゃにする息子に対し、父は小さく口元を緩めて肩を叩いた。
その目にはもう涙はなかった。
ただ、託す者への信頼だけがあった。
そんなふたりの姿を、物言わぬメタンダイバーだけが見つめていた。
この日、ひとつの夢が終わった。
だが、夢は引き継がれた。
そして、飛び立つ瞬間は刻々と迫っていた。




