Prologue:AS
――“地球”、その音の連なりを知らぬ者は木星では少数派だ。
人類の生まれ故郷、幼年期の揺り籠、アースマンの坐所。
無限に広がる土の大地、ただそこにあるだけで呼吸できる大気。地球は木星に住む者全ての憧れといえる。
もっとも、天文学的に正しくその姿を知る者は少ない。途切れることのない厚い雲に覆われた木星において、彼らの知る地球とはおとぎ話にでてくるお星さまでしかない。
ゆえに、その星が実在し、また現在でもその座標が確認できることを知っているのは――とある一族だけだった。
とある探究者の一族、その姓をラブレスという。
遡れば、木星を開拓した“最初の人々”のひとりに行き当たる古い一族だ。
彼らは一族代々をあげて地球への帰還を目指し、木星で暗躍を続けていた。
幾つもの遺失技術を継承し、秘匿し、強奪し、ただひたすらに地球への帰還を目指していた。
学習装置を用いて、知識と共に子孫代々へと受け継がれていくその想いは呪いに等しかった。
それでも、彼らは――彼らの初代は地球に帰りたかったのだ。
木星を開拓した“最初の人々”だが、その誰もが地球を離れることに納得していたわけではない。
その最たるは“罪人”だ。古来より開拓初期に消費される資源として彼らは方舟に積みこまれた。
そして、初代ラブレスは冤罪によって――少なくとも彼自身はそう信じる罪によって――木星に降り立った。
それでも、初代ラブレスは優秀だった。飛びぬけて優秀な技術者だった。
振り返ってみれば、開拓に必要不可欠な人材だったとすらいえるほどに。
もっとも、その事実は余計に彼が自身の冤罪を確信させる遠因となったが……。
人類が木星圏に到達した当初、木星開拓は困難を極めた。
開拓に用いる筈だった統括AIの死亡、遅々として進まぬ浮体式液体金属地殻の建造、先の見えない作業に精神を病んでいく人々。
そんな中で初代ラブレスは精力的に活動した。
『ここで死ぬ訳にはいかない。いつか必ず地球に帰還してみせる』
ただその一心で彼は働き続けた。
帰還の為には余分なモノを方舟から下ろさなければならない。己の計画を悟られてはならない。
初代ラブレスは理解していた。地球に戻りたいのは自分だけでない、と。
ゆえに、争いの種はこの星に置いていく。
元より片道しか考慮されていない方舟で帰還するには相応の準備がいる。
時間がかかる。それでもいい。
自分が駄目なら、その子供が、子供が駄目ならその孫が、地球に戻り、ラブレスの無念を晴らす。
もはや理屈ではなかった。彼は狂気に等しい一念でラブレスの知識と技術を継承するシステムを作り上げ、死んだ。
ここにひとりの男がいる。
名をレグナム・ディ・ラブレスという。
最新のラブレスにして、おそらくは最後のラブレスとなる男だ。
◇
衛星カリスト表層部。
氷壁内に建造されたメタンダイバー製造施設にて、レグナムはディスプレイ・スクリーン越しに宇宙を見ていた。
無数の光点を散りばめた黒天の宇宙。人間の尺度では無限に等しい広がりをみせるその中に、ひときわ巨大な惑星が鎮座している。
ガスと雲で斑に覆われた太陽系最大の星――“木星”。
レグナムの生まれ故郷であり、そして二度と戻れぬ星だ。
長期に渡ってカリストの低重力下で生活を続けたレグナムの肉体はもはや木星の重力には耐えられない。
あるいは、木星の半分以下だという地球の重力にすら――
「いや、心配するにも早すぎるか」
自らの思考に自嘲の笑みを投げかけ、レグナムはかぶりを振った。
男の身に課せられた夢はまだ道半ば。地球帰還の鍵となる方舟“アトラ=ハーシス”すら手に入れていないのだ。
「失礼します」
と、そのとき、レグナムの思索を打ち切るように落ち着いた女性の声が響いた。
振り向けば、車椅子に乗った女性――アリスの姿が目に映る。
アリスは外見は20代半ば、パイロットスーツに包まれた体は起伏に富んだ成人したそれだ。
四姉妹に共通する青く透き通った髪は背中に流し、金瞳はわずかに細められ、顔には穏やかな笑みの色を湛えている。
長女であり、最も活動時間の長い彼女は普通の人間と遜色ないほどに情動を発達させている。その片鱗がうかがえた。
「やあ、アリス。調子はどうだい?」
「おかげで随分良くなりました、レグナム様」
「それはよかった。衛星にはロクな設備がなかったからね。君には苦労をかけた」
「いえ、自業自得ですので……」
アリスは申し訳なさそうな表情して、動かない下半身に手を触れた。だが、その下肢が指先の感触を知覚することはない。
彼女は衛星カリストを制圧する際に半身たるメタンダイバー“一号機”とともに下半身の運動機能を喪失している。また、造血機能にも不具合が生じており、定期的な輸血を必要としていた。
しかし、全設備が完全にオートメーション化された衛星カリストに医療設備はなく、それを製造する機能もなかった。
あり合わせの部品で機械式の内臓は作れたが、さしものレグナムも機械の汚染源たるアトラ=ハーシスの膝元で、そんなものを装着させる気にはなれなかった。
とはいえ、三女セシルが都市アルビオから強奪してきた製水装置は、しかるべきコマンドを打ち込めば輸血用の血液を製造することもできる。当面の問題はクリアしたといっていい。
「アトラ=ハーシスの方はどうだい?」
話題を変えようと、レグナムは意識しておだやかに声をかけた。
表情を改めたアリスも手元のPDAを起動して、ここ最近の調査結果を開く。
「偵察に放ったドローンは全機“汚染”されました。しかし、これまでと比べても格段に汚染速度が低下しています。また、2時間おきに質量弾を打ち込みましたが、迎撃行動は見られません」
「やはり、というべきかな」
「はい」
顔を見合わせ、ふたりは同じ結論に達したことを確認する。
それこそがレグナムが本格的にアトラ=ハーシス掌握に向けて動き出す契機となった原因。
――アトラ=ハーシスは急速に弱っている。
――方舟を統括するAIが死に近づいているのだ。
どのような機械にも耐用限界は存在する。それは“最初の人々”の遺産たる方舟にも適用される道理だ。
外装は原子変換機によって古くなった部分を随時取り換えることもできるが、AIについてはそうもいかない。定期的な休眠と専用施設での調整が必要となっている。
だが、アトラ=ハーシスのAIはそれを無視して限界以上の連続稼働を続けている。その上、本来は方舟のみを統括する筈の機能群で木星全土にまで汚染という形で影響を及ぼしているのだ。
木星上で人類が何十世代と交代している間、宇宙で活動し続けた孤独なAI。無理が生じるのは当然の帰結だ。
「それにしても衰弱が予想以上に早いね。“初代”の知識にないバグが発生しているのかもしれない」
「決行を早めますか?」
「そうだね。できれば、トマス・マツァグが来る前にケリをつけたい」
トマス・マツァグ。
その名を口にするとき、レグナムはこみ上げる興奮を抑えることができなかった。
合理的に考えれば、一族の悲願達成の障害となる者などいない方がいいに決まっている。
だが、トマスとシモン。マツァグ親子がいなければ、今ここにレグナムがいないことも事実だった。
決して忘れることはない。
10年と少し前、“凍れる時計”の生まれた日、機体コンペの審査員としてレグナムもその場にいた。
今も目を閉じればその光景を思い出して、心臓が歓喜の悲鳴をあげる。
木星の重力圏すら遥かに突破する速度で飛行する、ただそれだけを突き詰めたメタンダイバー“レコードブレイカー”。
愚直に空を翔けるその姿への憧憬、わずか親子二代でラブレスの悲願に指をかけたことへの嫉妬、忘れられる筈がない。
だが、今、宇宙にいるのはレグナムだ。
自分は彼らを追い抜いた。そして、追いかけられている。その事実がたまらなく心地よい。
あるいは、役目を終えた方舟で孤独に活動し続けるAIと同じように、他者と交わらずに生き続けた自分も狂っているのかもしれない。
そんな妄想が脳裏をよぎる。自分自身のメンテナンスの仕方はレグナムの知識にもなかった。
「トマス・マツァグは来ますか?」
「来るさ、必ず――必ずだ。あれはそういう男だ」
おずおずと問うたアリスに確信をもって答える。
来ない筈がない。そんな仮定は無意味だ。どんなことをしてでも彼は来る、追いついて来る。
妄執にも等しい想いを込めてレグナムは断言する。
「では、デルフィも来るのでしょうか?」
「……妹のことが気になるかい?」
やや意外そうに男は問い返した。
妹とはいうが、アリスとデルフィは会ったことすらない。
姉妹というのも、ただ同じ遺伝子から製造されたという以上の意味は持たないのだ。
「そもそもあの子は何故、調整途中で出撃したのでしょうか?」
「彼女には特攻計画の遂行が不可能になった場合のセーフティが設定されている。
“空を飛ぶ”ことをキーとして、可能な範囲で自己保全を行うようにね。
おそらくは計画の中止を命令されたことで、セーフティが発動したのではないかな」
クローンの製造についてはレグナム自身は門外漢だ。あくまで生体科学を専門としていた先代の知識を引き継いだに過ぎない。ゆえに、想定外の事態についてはどうしても推測が混じる。
いうなれば、個々の知識同士を繋ぐ発想に欠けているのだ。
知識を積み上げることはできても、発想を飛躍させることはできない。それは歴代ラブレスに共通する欠点であり、技術者としてレグナムがシモン・マツァグに劣っている点だった。
「では、彼女がセーフティで動いているのなら、改めて命令して戦闘を回避することはできませんか?」
表情を変えず、あくまで事務的に、合理的にアリスは問いかける。
自身をレグナムが夢を遂げるための道具として規定する彼女に家族愛などという余分な要素はない。
その問いも、計画達成のリスクを抑えるために発せられたものでしかない。
「……無理だろうね。漠然とした設定にトマス・マツァグが確かなカタチを与えてしまった。今の彼女はひとりの人間として自律している」
「そうですか。残念です」
「――叩き潰すしかないんだろ? それだけわかってればいいさ」
そのとき、天井から物騒な声が降り注ぎ、ふたりは苦笑とともに視線を上げた。
そこにはアリスとよく似た顔立ちの少女が逆さまに立っていた。
外見は十代後半、青髪は後ろでひとつに括り、顔には獰猛な笑みが浮かんでいる。
特筆すべきは肩甲骨に接続された多関節アーム。先端のマニュピレータを器用に引っかけて、少女は天井にぶらさがっている。
見る者が見れば、そのアームと少女を包むスーツが極限まで構成要素を削られたMDの一種だとわかるだろう。汚染を避けるために、ほぼ完全にマニュアルで操作されていることも、また。
「ヴィオラ、貴女にはセシルの手伝いを命じた筈ですが?」
目を細めて尋ねるアリスに、「わかってるよ」と投げやりに答え、ヴィオラは多関節アームを操作、くるりと一回転して床に降り立った。
「そのセシルからの伝言だ。必要な装備の取り付けは終わったけど、神経同調がうまくいかないから、とーさまに手伝って欲しいんだってさ」
「わかった。すぐ行くよ」
「たしかに伝えたからね。じゃあな!!」
「ちょっとヴィオラ、貴女はもう少し言葉づかいを……」
アリスが言い終えるよりも早く、少女はあっという間に走り去ってしまった。
多関節アームを駆使して跳ねるように移動するヴィオラに車椅子に乗ったアリスは追いつくことはできない。
はあ、と溜め息をついて、アリスは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「まったく。同じ製造過程を経ているというのに、どうしてあの子はああも乱暴なのでしょうか」
「トマスらが来るなら先鋒はヴィオラになる。だったら、あれくらいの元気がないとね」
「それにしても限度があります……」
「いいんだよ」
レグナムは笑ってアリスの懊悩を打ち切らせた。
四姉妹は“最初の人々”の中で最もMDの操縦に優れたあるパイロットの遺伝子を元に製造された。
クローン製造施設に保存されていたデータの中で、レグナムが“彼女”を選んだのはその性能故に他ならない。
そして現状、姉妹たちは自己の性能を最大限に発揮している。無理に押さえつけることは逆効果だ。
「じゃあ、僕はセシルのところに行ってくる。アリスには“一号機改”の調整を頼むよ」
言って、レグナムは緩慢にその体を動かしてその場を去る。
「あ……」
反射的にアリスはレグナムの白衣の裾を掴もうとして、しかし、車椅子から身を乗り出したその身はわずかに届かなかった。
アリスには男の背中を見送ることしかできなかった。
白衣に包まれた曲がった背中は、美しくも、頼もしくもない。
だが、焦れるような執念がある。その背を10年間、アリスは見つめ続けていた。
(私はあの人の背中を見ていることしかできない)
伸ばしかけた腕をかき抱き、アリスは小さく呻いた。どうしてか胸が痛かった。
衛星カリストの攻略。それがアリスの製造された理由であり、10年前、彼女はそれを完璧に達成した。
そして、生き残ってしまった。
“二号機”以降と異なり、地上でいくつかのMDを継ぎ接ぎにして製造された“一号機”の性能はお世辞にも良いとは言えなかった。
ゆえに、アリスの生存は元から考慮にいれられていなかった。
だが、いくつもの奇跡と幸運が味方して、アリスは生き残った――機体と両足といくつかの身体機能を代償に。
帰還した彼女をレグナムは手厚く看護した。
カリストに残っていたデータからアトラ=ハーシス攻略計画の大幅な変更を余儀なくされ、余裕がない中で可能な限りの処置を施した。
彼が何故そんなことをしたのかアリスにはわからない。
だが、自分がまだ必要とされていることだけは理解した。
(私にできることはMDに乗って戦うこと――)
そして、戦うべき敵はいる。
トマス・マツァグ、アリスたち以上にレグナムの興味を惹き付けてやまない不倶戴天の敵。
自分をレグナムの道具と規定しているアリスに余分な感情はない。
戦って、勝つ、レグナムの為に。それだけを胸に駆動し続ける。
アリスの見つめるスクリーンの向こうで、暗黒の宇宙は何も発せず、ただその広大なるままにそこにあった。
……その胸を焦がす感情が何と呼ばれるものなのか、彼女はまだ知らない。
▼メタンダイバー/最終章:方舟




