Epilogue
紆余曲折はあったものの、その後はレグナムからの妨害もなく、トマス達はどうにかナイアスへと帰還した。
三人は今、相変わらずスクラップに埋もれかけたドック屋『シー・ガリラヤ』にいた。
マリーは店のドックで懸架された己のツァハ級を見上げていた。
微かなオイルや鉄錆の匂いの中に鎮座するその機体にフレイムパターンの模様はない。
結局、元の機体は途中で限界が訪れた為、使えるパーツだけ積み直して機体を乗り換えたのだ。
「……」
MDはおよそ半年間隔で乗り捨てるのが常だが、マリーは同じ機体を2年近く使い続けていた。
それはキャラバンの護衛として可能な限り戦闘を避けた為であり、新機体に塗装を施すのが手間だった為であり――しかし、愛着があったことも否定できない。
女は小さく溜め息を吐いた。
おそらく自分が機体をフレイムパターンに塗装することはもうない。
本来そうするべき男が、男の時計が、夢が、動きだしたからだ。
――“アトラ=ハーシス”
初めて木星を訪れた“最初の人々”を載せてきた方舟、この星最古の飛空艇。
そんな伝説的存在が未だ宇宙に残っているという。
だが、果たして、マトモな状態で残っているかは怪しい所だ。
既に衛星カリストを掌握しているあの胡散臭い男――レグナムですら手を出していないのだ。何かしらの問題があるのだろう。
その点はトマスも理解していた。
どころか、デルフィの手前、明言は避けたが――現在、木星及びその宙域全体で機械を“汚染”している発信源である可能性まで見据えていた。
質量弾が撃ち込まれるまでのタイムラグからして、おそらく四大衛星ですら相互にカバーし合わなければ木星全体を監視できていない。
“アトラ=ハーシス”以外に宙域全体の機械を支配できる設備を未だ有しているモノはいないのだ。
そんな存在に挑むのは危険だ。危険しかない。
それでも、飛ぶのだろう。マリーには確信があった。
夢が確かなカタチを伴って現れたのだ。諦められる筈がない。
トマス・マツァグとはそういう男なのだ。
『――だって、マリーさん、空を飛ぶものは怖いんでしょう?』
「怖いよ、リセ……」
「マリー?」
ぽつりと呟かれた言葉に反応があるとは思わず、マリーははっと振り返った。
そこに若干気まずげな表情の夫を見て、訳知らず安堵してしまった。
「ロボットの解析は終わったの?」
「いや、まだだ。けど、これ以上はいても邪魔になるだけだから、あとはシモンに任せた」
“ヴィオラ”との戦闘後、廃棄されていたレグナムのロボットをトマスは回収してナイアスに持ち込んでいた。
手がかりが残っているかは怪しいが、遠隔操作できるロボット自体が既にトマス達にとっては数段先の、あるいは断絶した過去の技術の結晶なのだ。
シモンならば何かしら得る物もあるだろう。
「それに、お前のことも気になっていたしな」
後回しにしてばかりですまなかった、と謝る夫の姿にマリーはそれなりに驚いた。
「驚いた」
思わず口に出してしまった。
「…………」
「いえ、その、ずっと慰めてばかりだったから、新鮮で」
「その件に関しては本当に申し訳ない」
「うん」
それきり、微妙な沈黙が二人の間を流れた。
トマスは所在なさげに立ちつくしているが、一方で、マリーはこの瞬間が嫌ではなかった。
正直、半々くらいの確率で夫は自分の方へ振り返らず飛び立つかもしれないと思っていた。
そうしてしまう程に、トマスにとって空は重いものであることをマリーは理解していた。
振り返らせてしまったことに申し訳なささえ感じるくらいには、理解していた。
だから、実の所、こうして向き合ってくれたことに嬉しいという気持ちも多分にあった。
「その、セシルと仲良かったのか?」
暫くして、トマスは意を決して口を開いた。
新鮮なことが多すぎて、マリーは若干挙動不審になっていたが、聞き逃すことだけはしなかった。
「ううん、拾って、一週間くらい一緒にいただけ。それだけ、ほんとうにそれだけなの……」
彼女のことは何も知らない。今になってマリーはそれを思い知らされた。
だが、それは悪いことばかりではない。
今思えば、セシルはリセであった時も出来る限り嘘は吐いていなかったようにみえる。
無論、黙っていることも多かったが、あるいは彼女なりに思う所があったのかもしれない。
これから、相争う相手に抱く感情ではないのかもしれないが。
「……これからどうするんだ?」
驚くべきことに、妻の心境を正確に汲み取ったトマスは、降りてもいいと言外に告げていた。
マリーは多少の手当てと共にキャラバン護衛の契約を解除している。
3年間、共に旅してきた同僚との別れもあっさりしたものだった。交わすべき言葉は、少なくはあれど、きっと旅路の中で酌み交わしていたからだ。
だから、今のマリーは自由だ。新たな職に就くこともできるし、MDに乗るにしてもトマスの夢に付き合う必要はない。
だが――
「あなたはこれからどうするの?」
ついて行く。その意思を込めて、マリーは問いを返した。
「……ちと考えてることがあってな」
妻の気が変わらないとわかって、トマスは表情を改めた。
夫の表情ではなく、黒瞳が仄かに輝くMD乗りの表情になっていた。
「――デルフィは何で中央遺跡にいたんだと思う?」
もう半年以上前の話だ。少女は中央遺跡と呼ばれるかつての大都市の地下で己の半身である“デルフィ”と共に保存されていた。
そして、いくつかの偶然が重なり、そこに潜っていたシモンによって保護された。
その顛末はマリーも聞き及んでいる。だからこそ、夫が何に疑問を持っているのか見当がつかなかった。
「それは……培養カプセルとかMDの保存設備が残っていたからではないの?」
「その情報は誰がデルフィに与えたんだ?」
「!!」
自力で見つけ出せる技能がデルフィにあったとは思えない。ならばそれは、レグナムが与えた情報に他ならないだろう。
遺跡に何が残っているかわからない。あるいは、もう何も残っていないかもしれない。
それでも、行かなければならない。
あの男に落とし前をつけさせなければ気が済まない。
遥か先を行くあの男に追いつく為にはどんな些細な情報でも手に入れる価値がある。
「行って確かめなきゃならねえ」
トマスは視線をハッチの向こう側、曇天の空へと向けて言った。
その横顔は遥か彼方を見つめている。
夢を追いかける男の横顔だった。
「……もう大丈夫そうね」
夢を取り戻したトマス・マツァグは眩しかった。
どんな苦境の中でも輝きを喪わなかったその姿が、マリーは好きだった。
「いいや、大丈夫なもんか。俺はお前がいないと……駄目だ」
「そう」
だから、そんな表情のままで真っ直ぐに見つめられることに心臓は耐えられそうになかった。
「そ、そういえば、きちんと再会の挨拶をしてなかった」
「なんだそりゃ?」
「何を言おうとか、色々考えてた。10年くらいは待つつもりでいたから」
言って、マリーは両手を差しのべた。
「――助けてくれてありがとう。あなたが来てくれて、嬉しかった」
言葉が終わるよりも先に、腕を引かれ、強く抱きしめられる。
二人の影がひとつになる。
背中に回された逞しい腕の感触が、触れあう頬から伝わる熱が心地よい。
今、生きていることを赦された気分だった。
「ひとりにして悪かった」
「ううん、いいの」
見えずとも、かぶりを振った動きは伝わった。
二人は暫くの間、そうして抱擁を交わしていた。
「……そういや、人前ではあなたって呼んでなかったな」
離れるタイミングを逸して、しかし、外であることを思い出したのか。
若干の気恥かしさを感じながら、トマスは睫すらみえる距離で妻を捉えた。
瞬間、マリーの頬がぱっと真紅に染まった。
「…………恥ずかしい、から」
数瞬して、もごもごと囁かれた言葉はどうにもいじらしくて、トマスは赤面する妻の頬に口づけを落としていた。
「さて」
ようやく赤らんだ頬も元に戻ったマリーはくるりと踵を返した。
視線の先、慌てて隠れた少女は、しかし、コンテナの端から尾のような青い髪が覗いていた。
「――デルフィ」
「!!」
名を呼べば、尾がびくりと震える。
そのまま待っていると、おずおずとデルフィが顔を出した。
マリーは片側だけ抱擁を解くと、あいた右手を少女へと差しのべた。
「私の、こっちの手が空いているのだけど?」
「マリー」
そうして、泣きそうな顔でおずおずと手を伸ばす少女を抱き寄せる。
細くて軽い、小さなその体に秘められた運命を分かち合うように、強く抱きしめた。
「デルフィもありがとう」
「?」
「色々。貴女がいてくれて良かった」
「ん、わたしもマリーが帰ってきて、うれしい」
まだぎこちない少女の笑みを褒めるようにその髪を撫でる。
つられるように、マリーの顔にも笑顔が浮かんだ。
強くも、優しい笑みが浮かんでいた。
「――いきましょう、中央遺跡へ」
そうして、木星の宇宙を巡る戦いの幕は密やかに開いた。
▼メタンダイバー/第二章:銀海のフィルム、完
あとがきは活動報告にて




