Epilogue
――第327都市型ビオトープ『ナイアス』
午前7時、窓ガラスを震わせる強烈な振動でトマス・マツァグは目が覚めた。
地面に杭を打ち込むのを何倍にも拡大したような大音量が、40歳――もうすぐ41歳になるやや遠くなった耳にもはっきりと聞こえた。
今の“落下音”は都市に近い位置だ。ひょっとしたら誰か下敷きになったかもしれない、と思考は予測する。
「……相変わらずだな、この星は」
トマスは脇腹をさすりながらひとりごちる。
けれど、そうしたのは、それを選んだのは自分だと深く心に戒める。
――あの後、トマス達はナイアス近郊で捜索に出ていたマリーに発見され、保護された。
トマスは重傷だった。全身の骨折、内臓の損傷、10日近くも生き続けていたのは奇跡に等しかった。
即座に緊急入院し、一か月近くベッドから起き上がれない日々が続いた。
数ヶ月たった今でも痛みが残っている。完治にはまだまだ時間がかかる。
だが、年齢を考えればそれでも治りの早い方だろう。
男は長年連れ添い、無茶に応えてくれた己の肉体に感謝した。
「痛ッ、クソ、面倒だな」
とはいえ、スーツを着るのにも苦労するのは勘弁してほしかったが。
相変わらずこの星は“空”を機械に奪われ、時に質量弾を撃ちこまれながら回っている。
デルフィを止めなければ、あるいは何かが変わったのかもしれない。
それはベッドの上で何度となく自問した問いかけだった。
答えは出ない。わかるはずもない。
わかっているのは、自分が変わらないことを選んだことだけだ。
今なら分かる。変わらないことは逃げることと同じではない。
変わらない為には、そう在ることを選び続けなければならない。その場所に留まるための努力をしなければならない。
この星では、己の呼吸する酸素ですらタダでは手に入らないのだ。
だが、変わらないことは思う以上に難しいことだ。
選びたいものを常に選べるわけではないし、いざ変えようと思っても変えられるものでもない。
自分が空への憧れを捨てられなかったように。
「……空、か」
曇天の向こうに広がる青空、煌めく星々を想像してトマスをぼやいた。
僅かな時間だったが、デルフィと共に飛んだ空は男の中に強く印象に残った。
実際に飛んでいる時は必死で他に何か考える余裕はなかったが、終わってみれば自分の中には確かな充足感が宿っていた。
同時に、「もっと飛びたい」と叫ぶエゴもまた自分の中に残っていた。
それを認めねばならない。未練はある。それが自分という人間なのだと。
たしかに、空から降ってくる質量弾がなければもっと長く、もっと高く飛んでいけるのかもしれない。
しかし、それは家族を犠牲にする選択だ。その選択は人間として選べない。
だから、後悔だけはしない。トマスはそう決めた。
ならば、あとは選んだ道を進むだけだ。
「……左の頬で済むといいけどな」
マリーは再び出て行った。
一ヶ月、ベッドから起き上がれないトマスの世話を甲斐甲斐しく行って、普通の生活ができるようになったのを見届けて、出て行った。
キャラバンを追いかけるのだという。仕事なのだから当然と言えば当然だ。
デルフィのことを相談することは許されなかった。
理由はわかる。今のトマスはわかっている。
我儘を言いたいなら追いかけて来いと、甲斐性を見せろと――“自分はもう大丈夫だ”と示してみせろと、そういうことなのだろう。
正直なところ、困難は多い。
キャラバンに所属するマリーと異なり、トマスもデルフィも身ひとつだ。
まずは都市から都市へと旅をする為の装備を買い集めなければならない。
その為に今まで以上に金を稼がねばならない。
家族の為だ。ニートだなんだと言ってはいられない。
だが、装備を整えたとしても問題はそれだけではない。
デルフィが機械に執拗に狙われる状況は変わっていないからだ。
都市の庇護を抜け出れば、今度は何に遭遇するかわかったものではない。
二人が旅に出ることは普通以上に危険なものになる。
とはいえ、言ってしまえばそれは都市に居ても同じことだ。
都市に居たところで、いつ何に襲われるかはわかったものではない。むしろ被害は大きくなるばかりだろう。
だったら、原因を取り除くべきだ。
何をすればいいのか、どうすればいいのか、何もわからない。自分の寿命は足りないないかもしれない。
それでも、いつかこの星をあの少女が安心して生きられる世界に変える。
それはまだデルフィにも伝えていない男の新たな“夢”だった。
「うし、行くか」
気合をひとつ入れて、トマスは新たな一歩を踏み出した。
変わらない今を、家族と共に過ごす為に、男は進み続ける。
◇
「えっと……おとうさん?」
スクラップ置き場系ドック屋『シー・ガリラヤ』店内にて、デルフィ――デルフィ・マツァグはこれ以上ない渋面になった老人を前に小首を傾げていた。
つと背中を冷や汗が流れる。本に書かれていた通りに呼んだ筈だが、どうやら何か致命的に発言を間違ったことに薄々ながら気付いた。
「無理せんでいいぞ、デルフィ。そういうのはトマスにだけしなさい」
「……了解」
やはりまだ自分の知らないことはたくさんある。少女はそれを認識して項垂れた。
都市を出る前にできるだけ多くの事を知っておかなければならない。
時間はあまり残されていない。
思い出す。マリーが出発する日に言われたのだ――「先に行っている」と。
その言葉の意味をデルフィはおぼろげながらに理解していた。
いつまでもこの都市にはいられない。
四大衛星を破壊する可能性を持つ自分を機械達は狙い続ける。
本来ならば、自分は他に誰もいない場所でひとりで生きるか、さっさと死ぬべき存在なのだ。
そのことを強く心に刻みつける。
自分と共に生きてくれる家族に何を返せるのか、自分は何が出来るのか。
それを問い続けながら生きていかねばならない。
「シモン、“わたし”をおねがい」
「任された。だが、期待はするな。まだ解析できるかすらわかっていないのだ」
二人の目の前、シー・ガリラヤの第二ドックには大破したレコードブレイカーと中破した“デルフィ”が隣り合って安置されている。
レコードブレイカーについても、如才なく墜落地点を記録していたトマスがシモンに回収を依頼しておいたのだ。
デルフィはふと、この赤炎のメタンダイバーは今までに何度墜落しているのか疑問に思ったが、妙に手慣れている親子の様子に怖くて訊けなかった。
とはいえ、二機はどちらも修復できるか微妙なところだった。
如何にシモンが戦前の知識を持つ技術者とはいえ、現在では失われている技術も多い。“デルフィ”に至っては遺失技術の塊だ。
だが、いつか必要になる日がくるかもしれないと思えば、原子変換機に放りこむ訳にも行かなかった。
もっとも、必要かどうかに関わらず、シモンは直していただろうが。
「代わりといってはなんだが、バカ息子を頼む。軟弱者だ。誰かが傍にいてもいなくても駄目になる」
「ううん、きっと大丈夫」
デルフィは小さく笑った。まだぎこちないが、それは確かな笑顔だった。
「トマスは大丈夫。……まずはマリーを追いかけるところからだけど」
「いきなり難関だな」
二人は顔を見合わせて苦笑した。
トマスは変わらない為に生き続けることを選んだ。
ならば、自分は変わる為に生き続けよう。少女は決意した。
生まれた意味を超えて、違う方法でこの星に空を取り戻す。
それはまだトマスにも伝えていない少女の新たな“夢”だった。
そのとき、店の入り口から聞きなれた声が聞こえてきた。
デルフィは弾かれたように立ち上がって乱雑にジャンク品の積まれた店内を駆けて行く。
その背中をシモンは慈しむような笑顔で見送り、いつもの作業机に戻っていった。
「よう、デルフィ。朝飯持ってきたぞ、シモンの分もな」
「おはよう、トマス。……外にテーブル出す?」
「……そうだな。さすがにこの中で食う気にはなれねえな」
いつもように笑みを交わし、二人は肩を並べ、歩き出した。
いつか都市の庇護を抜け出て、銀色の海へと漕ぎ出す為に。
いつか永遠に続く曇天を抜けて、もう一度メタンの空を飛ぶ為に。
そして、いつか星の重力を振り切って、無限の星空へと飛び立つ為に。
――後に、地球に帰還した人々は語る。
木星に“空”を取り戻す為の一歩は驚くほど小さなものであったと。
荒廃と混沌に溢れた人工地殻に芽吹いた、星の海へと飛び立つ萌芽はとても小さなものであったと。
それはひとりのうらぶれた男の“夢”であったと。
後に、『飛翔時代』と呼ばれる宇宙再開拓の歴史はこうして始まった。
メタンダイバー、完
あとがきは活動報告にて。




