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メタンダイバー  作者: 山彦八里
嫁襲来編
11/37

10話:Deep Blue

 液体金属の海を引き裂いて巨影が走る。

 都市ナイアスに向けて進むその姿は端的に言って異様だ。

 青黒に鈍く輝く流線型の巨体に、複数の軟質の触腕。粘質の海中をゆらりと泳ぐ様は機械のそれでありながら妙に生物的だ。

 触腕まで含めた全長はおそらく500m近いものになるだろう。

 木星に住む人々はそれを何と言うのか知らない。ただ、僅かに残る伝承からその大型自律機械は『タイプ:クラーケン』と呼ばれている。

 機人戦争では、液体金属の海に潜み、奇襲により幾人ものMD乗りを奈落へと引き摺りこんだ忌まわしき存在である。



 ◇



「嘘、追跡(トレース)された……?」


 鳴り響く警報の音に、マリーが彼女にしては珍しく動揺を顔に浮かべているが、今はそれに付き合っている暇はない。

 都市は襲撃を受けた場合、大気防護フィルターの出力を上げて高濃度の反重力フィールドを形成する。

 都市型ビオトープの大出力で張ったフィールドはMDのそれとは比較にならない高い防御力を有するが、代償に内外の出入りは制限される。それまでにMD乗りは出撃しなければならない。これは都市に住む者の義務だ。

 ナイアスが大型自律機械に襲われるのは戦後初めてだが、緊急対応を誤ることはないだろう。あまり時間は残されていない。


「マリー、お前のMDもジジイの所だな?」

「う、うん」

「さっさと行くぞ。この都市に大型との戦闘経験がある奴がそういるとは思えねえ」

「……そうね」


 多少は顔色の戻ったマリーを連れてトマスは自宅を飛び出した。

 何も言わずとも、デルフィもまた後ろから追いかけている。状況は理解しているようだ。

 その小さな体に似合わぬ頼もしさを感じて、トマスは心中で苦笑した。



 ここ数年の最短記録でシー・ガリラヤに到着したトマス等はシモンへの挨拶もそこそこに各人のMDに乗り込んだ。

 相変わらず出撃の度に高確率でクラッシュするデルフィは新品同様の中量(リノス)級だが、トマスは軽量(エアル)級の足周りをチューンして加速力を上げ、マリーは重量(ツァハ)級の砲塔を詰めて、空いたスペースにコンテナ状の物体を背負っている。

 特にマリー機は全体をフレイムパターンに塗装しており、専用機であることを詳らかにしている。その塗装パターンはトマスにも見覚えのあるものだった。


「……随分派手な装いじゃねえか、マリー」

『キャラバンの護衛は目立つのも仕事』

「そうかい。まあ、今回は大型相手だ。気を付けるんだな」

『うん、ありがとう』


 おそらくはキャラバンの仲間と合流するのだろう。通信を終えたマリーは一足先に機体を発進させた。

 トマスは縮みあがる精神をなんとかコックピットにねじ込み、大きく息を吐いた。

 死にたくないのなら、今は戦うしかないのだ。


「デルフィ、大型との戦闘技術は記憶しているか?」

『肯定。対大型用の武器はどこ?』

「ねえよ!! ねえけど、どうにかしないといけねえんだ。いけるな?」

『……がんばる』

「良い返事だ。行くぞ」


 そうして二機はドックを飛び出し、戦場へと向かって行った。



 ◇



 ナイアスから1kmほど離れた地点では既に大型機械と都市のMD乗りとの戦闘が始まっていた。

 外部スピーカー越しに激しい銃撃音が、オープンにした通信機からは悲鳴が聞こえている。

 未だ戦場に到達していないトマスの位置からでも敵の姿は見えていた。


「クラーケンか。厄介なのが来たな」


 己の声に苦みが混じるのをトマスは自覚した。

 大型自律機械の一種、タイプ:クラーケンは遠距離攻撃こそ持たないが、その馬鹿みたいに長い触腕による打撃は物理的な致死性を有している。

 10の触腕全てで以て海面上を薙ぎ払えば、その攻撃範囲はもはや爆撃に等しい。3m大のMDでは数百mに及ぶ触腕の攻撃は回避も防御も難しいのだ。


 周囲を見れば、警報に従って出てきた他のMD乗りも対応に苦慮しているようだった。

 触腕の攻撃範囲外から射撃を加えても軟質の液体金属装甲に弾かれてダメージは与えられない。かといって、格闘武器の間合いに入れば10本の触腕による怒涛の攻撃でミンチにされるのは目に見えている。


「あれを食ってたんだから地球のご先祖様ってのは恐ろしいもんだな、おい」

『機械なのに食べられる……?』

「やめとけ。腹壊すぞ」


 ひとまずトマスは先陣を切って突っ込んだ。

 水素燃料エンジンが甲高い嘶きをあげ、ぐんとつんのめるような加速が一気に機体をトップスピードに乗せる。

 エアル級の加速力を存分に発揮したトマス機は銀海上を滑走して振り回される触腕を躱しつつ、至近距離から腰だめにしたショットガンを撃ち込んだ。

 腹に響く銃声と共に触腕の端が吹き飛ぶ。だが、切断を狙ったトマスとしては舌打ちせざるを得ない。

 一番細くなっている所を狙ったが、それでもMDの胴体よりも太い触腕だ。面制圧力の高いショットガンでも切れないとなると通常火器では有効打を与えるのは難しいだろう。


(こいつはちっとキツイな……)


 初めて損傷を与えてきたトマス機を警戒してか、クラーケンは四方に伸ばしていた触腕の幾本かをトマス機の周囲に集中させてきた。

 跳ねるように機体を繰って離脱するトマスだが、着地際に差しこまれた触腕を強引に躱した直後、不意に伸びた(・ ・ ・ )一本に片腕を捕られてしまった。

 相対的な大きさを見れば、触腕とMDの腕は大人の身長と子供の小指の先程の比率だ。触腕は機体の纏う反重力フィールドを純粋な質量で打ち破り、みしりと異音を立てて捕えた腕を引き千切りにかかる。


 直後、トマス機の背後から飛び出したデルフィ機が左腕の掌部ブーストパイルを打ち込んで触腕をぶち抜いた。

 トマスも即座に両腕で抱えたショットガンを撃ち込んで触腕を押し留めると、二機揃って素早く後退を果たした。


「助かった、デルフィ」

『戦闘継続。でも……』


 目の前で千切れた触腕が再生していく。

 これがタイプ:クラーケンが厄介であるとされる最大の理由だ。

 この大型機械が周囲の“海”を吸い上げて形成した液体金属装甲はその柔軟さでダメージを大幅にカットする上、周囲に液体金属がある限りいくらでも再生できる性質を有している。

 ツァハ級を並べた一斉砲撃でも削りきるのは難しいだろう。

 本来ならば、大型重力砲のような装甲による減衰の起こらない専用火器の集中砲火によって仕留めるべき相手なのだ。


「とりあえず引きつけるのには成功したが……」


 忙しなく機体を繰りながらトマスは考える。此方はとにかく火力が足りない。

 最悪となれば都市の反重力フィールドを全開にしてクラーケン本体を押し潰すことも出来るが、それをすると都市内部も崩壊してしまう。できればとりたくない手段だろう。


「火力、火力ねえ……」


 ふと、思い浮かぶ物がひとつあった。

 戦中、散々苦汁を舐めさせられたトラウマだ。


「デルフィ、お前、質量弾の着弾を予想できるな?」

『肯定』

「何秒前に到達を警告できる?」

『……3秒前が限界』

「十分だ」


 曇天を見上げる。こんなことはしたくないというのが本音だ。

 だが、おそらくこの場にいる中でこれができるのは自分だけだ。トマスはこみ上げる吐き気を堪えつつ、通信機に叫んだ。


「今からアイツの上に質量弾を(・ ・ ・ ・)落とす(・ ・ ・)。最大で80秒、奴を足止めしてくれ!!」


 宣言と同時に機体の重力子機関を限定解放、逆しまに捻じ曲げられる重力に乗って一気に上空へと『落ちる』。

 衛星からマスドライバー射撃を加えられる限界高度ははっきりとは判明していない。

 故に、トマスを機体の限界高度まで打ち上げる。

 凄まじい勢いで上昇していく景色の中、上下から押しつぶされるようなGを受けて全身が軋む。

 圧力で肺が膨らまず、息ができない。それでも機体を上昇させる。

 この一瞬だけは脳裡に刻まれた白亜の影も気にならない。そんな余裕がないからだ。


 そうして、もう少しで雲に手が届きそうという段になって機体の上昇が止まった。


 限界高度だ。上空へと落ちる反重力と機体を地面に落とさんとする重力とが釣り合ったのだ。

 もう少しだけ、今度こそ(・ ・ ・ ・)あの雲の向こう側へ。そう叫ぶ本能をトマスは押し殺し、機体を安定させる。

 息は荒く、視界は暗い。意識して太腿の血管を締め上げて脳に血液を送る。

 安定状態でも多少は機体を動かせるが、客観的にみれば「もがく」程度の動きでしかない。クラーケンに移動、あるいは潜行されてしまうとどうにもならない。

 くるりと機体の向きを変える。眼下には、機械の巨影に対して果敢に攻撃を加える無数のMDがみえる。

 背中を向けた以上、質量弾の接近は見えない。着弾予測は完全にデルフィ頼りだ。


「頼むぜ、ホント」


 薄れかける意識を必死に保ちながら、トマスはぼやいた。



 ◇



「――いく」


 デルフィはトマス機が上空へと跳んだ直後に飛び出していた。

 観測に集中した方が良いと頭の冷静な部分が囁くが今度ばかりはそれに従う気になれなかった。

 質量弾の初速はおよそ秒速3万km、大気圏突入時に大幅に減速されるとはいえ、デルフィの駆るリノス級の機動力では3秒あっても余波を避けきれない。

 故に、今は、彼に“空”を任せるしかないのだ。

 その事実は少女に不思議な高揚感を与えていた。


「ッ!!」


 刹那、猛然と迫る巨壁のような触腕を、反射的に掲げた左腕で押し留める。

 無論、質量差を考えればそんなことは不可能だ。故に、機体の纏う反重力フィールドを掌の一点に集中させる。

 反重力の網に捕まった触腕の動きが鈍る。稼いだ時間は約2.3秒。その間に再装填したブーストパイルが撃音と共に杭を打ち出し、触腕を抉り抜く。

 吹き飛び、液体金属に戻っていく破片には目もくれずデルフィはさらなる突撃を駆ける。

 クラーケンはその巨体の維持に重力子機関の出力の大半を割いている。ブーストパイルのリーチでは中心部には届かないが、胴体部に損傷を与えれば動きも鈍るだろう。

 だが、触腕を1本吹き飛ばしている内に新たな2本がデルフィ機の妨害にかかる。

 周囲のMD乗り達も必死に攻撃を加えているが、殲滅速度があまりにも足りていない。

 うねうねと触腕を揺らす向こうで、クラーケンの視覚素子が嘲笑うように真っ赤な敵対色に輝いている。

 逃げられる、本能的に敵の動きを察したデルフィが更なる特攻を賭けようとして――


『――下がって、デルフィ(・ ・ ・ ・)


 通信機から聞こえてきた声に咄嗟に後退した。

 次の瞬間、デルフィの拓いた触腕の空白地帯にフレイムパターンの塗装をしたツァハ級が飛び込んだ。

 マリーの機体だ。その両腕には鈍く光る2連ガトリングが装備されている。

 2門×2門(ダブル・ダブル)ガトリング『ハイドラ』、都市防衛専用の高重力兵器だ。

 背中のコンテナ状のコンデンサから重力子を供給され、都合4門のガトリング砲は既に空転して発射準備を整えている。


『装甲ダメージは無意味。なら――!!』


 次の瞬間、ほぼ零距離から4門のガトリング砲が一斉に火を噴いた。

 クラーケンも咄嗟に10本の触腕を重ねて防御態勢をとるが、断続的に放たれる重力子の弾丸は内向きに捩じ切るようにして次々と触腕を抉り抜いている。

 マリーの狙いは10本の触腕の内、海面上に体を支えている奥の2本だ。その2本は殆ど攻撃に加わらず、もっぱらクラーケン本体の姿勢制御に用いられている。

 その2本を失えば、いかな大型自律機械といえども――


『――吹き飛べッ!!』


 追加コンデンサの重力子が尽きると同時、数千発と放たれた重力の弾丸が奥の触腕を撃ち抜いた。

 貫通した重力の捻じれが液体金属装甲の奥、擬似神経回路を纏めて引き千切り、戦闘開始後、初めてクラーケンの体勢が大きく崩れ、飛沫をあげて液体金属の海に倒れ込んだ。


『あの、マリーさん、そんなデカブツいったいどこから……?』

『前の都市で投げ売りされていたのを引き取った。まさか役に立つ日が来るとは思わなかったけど』

『ソウデスネ』


 大質量の着水によって巻き起こった銀色の津波を避けつつ、マリーがしれっと告げる。

 彼女が一体何と戦うつもりだったのかは疑問であるが、トマスはひとまず思考を脇に置いた。

 そろそろ限界高度に到達してから60秒が経過する。

 緊張からかうなじの毛が先程からチリチリと焦げるような痛みを放っている。

 そして――


『――くる。あと3秒』

「あいよっ!!」


 デルフィの通信に応え、再度の重力偏向。今度は機体を真横に『落とす』。

 全力で駆動する機体が悲鳴を上げる。おそらくあと数分しかもたないだろう。反重力フィールドのないMDはとにかく脆い。

 そして、きっちり3秒後、トマス機のあった空間を凄まじい勢いで赤熱化した質量弾(コフィン)が通過した。

 通過時に発せられた衝撃波に煽られるようにトマス機は吹き飛ばされる。


 そして、次の瞬間、海面上でもがくクラーケンを押し潰すように質量弾が着弾した。

 至近距離での着弾に一瞬、聴覚が飛ぶ。

 次いで、衝突時に消費しきれなかったエネルギーが熱と音と衝撃波と津波となって周囲に襲いかかった。

 トマスは二度目の衝撃波に吹き飛ばされるままに慌てて逃げていくMDを見下ろし、何ともいえずに苦笑した。


 四大衛星のマスドライバーから撃ち込まれる質量弾はおよそ高さ4m、縦横3mの直方体だ。

 コンテナとしては大きい方ではないが、隕石としてみれば稀有な大きさだといえる。

 そのまま着弾すれば確実に人工地殻を貫通する威力を有している筈だが、追尾装置と同様に減速装置も搭載されているためか、着弾時の威力は随分抑えられている。

 だが、それでも内部のMD込みで10トン以上ある重量を光速の約10%、秒速3万kmで射出すれば1割以下の威力に抑えられたとしても甚大な被害が出る。


 事実、MDの武装では削りきれなかったクラーケンの巨体は質量弾の直撃によって跡形もなく消し飛んでいた。僅かに残る胴体部の装甲も焼け焦げたように融解している。

 この威力が戦中は都市に散々撃ち込まれていたという事実に、今更ながらトマスは背筋を寒くした。

 空を飛んでいた当時は、男にとって質量弾は超高速で降って来る障害物でしかなかったのだ。


「……これだけの威力のマスドライバーが本来は運搬装置だってんだから、ご先祖様の考えていたことは分からねえな」


 眼下の惨状を見下ろしながら呟いた言葉に、応える声はなかった。



 ◇



 戦闘終了後、機体が限界に達していたトマスは近くのオアシス型ビオトープに避難した。

 周囲には他にもエアを補給しに立ち寄った者たちもおり、その中にマリーとデルフィの姿もあった。

 機体を降りた二人はひらひらと手を振るトマスを見て、揃って安堵の息を吐いた。

 親子のようにそっくりな仕草にトマスは苦笑を深くするばかりだった。


「デルフィ、機体はまだ大丈夫か?」

「問題ない」

「なら、先にナイアスに戻ってシモンを呼んで来てくれ。あのデカブツの破片……殆ど残ってないだろうが、回収できるだけでも回収したい。俺は新しい機体を探しておく」

「了解」

「……今日はよく頑張ったな、お疲れさん」


 昔の癖でぽんぽんと頭を撫でると、デルフィはトマスを見上げて僅かに目下を緩めた。

 いつも無表情な少女にしては珍しい表情だ。

 デルフィは一度目を伏せて「……やっぱり」と小さく口の中で言葉を転がすと、もう一度トマスを見上げ、つま先立ちになり、


「あなたは空を飛んでる時が一番格好良かった」


 大事な秘密を告白するように男の耳元で囁いた。


「……あんなんは飛んでる内に入らねえよ。そら、さっさと行った。ここからは早い者勝ちだぞ」

「了解」


 それきり、いつもの無表情に戻ったデルフィは自分の機体に戻っていった。

 その小さな背を眺めながらトマスはため息を吐いた。

 先の瞬間、余計なお世話だ、と口をついて出そうになった己の言葉に自己嫌悪が募っていた。

 項垂れるトマスの隣でマリーは胸元から取り出したケースから煙香(モク)を一本取り出して火を着けた。

 マリーの吐きだした煙が沈黙する二人の頭上に小さな輪を描いていた。


「俺にもくれ」

「……この1本しかない」

「そうかい」


 トマスは火が着いたまま差し出されたそれを咥えて一服した。

 心中の靄を吐きだすかの如く、白い煙が立ち昇っていく。


「あのクラーケンはデルフィを追って来たんだろうか?」

「機械に狙われているのよね。でも、あり得るの、そんなこと?」

「わからん。こんな荒唐無稽な話、ジジイだって信じないだろう」


 だが、戦争が終わって10年、ナイアスに大型が攻めてきたことはなかった。

 機械の判断が変わってないなら、こちらの事情が変わったと考えるべきではないのか。

 その懸念をトマスはうまく言葉に出来ず、結局、先に口を開いたのはマリーだった。


「……それで、どうするの?」

「どうもしない。俺はアイツのパパンじゃないんだ。ナイアスから追い出す義務も権限もない。そもそも確証もないしな」

「そう……そうね。一応、こっちでも調べておく」

「ああ、ま、無理するなよ」

「わかってる」


 そうして言葉が途切れ、二人は暫くの間、ぼんやりと煙の行く先を眺めていた。


「この調子だとキャラバンの出発は少し遅れるかも」

「まあ、稼ぎ時だろうし、そうなるだろうな」


 ぽつりと呟かれた言葉にトマスも肩を竦める。

 できる限り迅速に仕留めたつもりだが、それでもMD乗りに被害は出ただろうし、この機会に武装を充実させようと思う者もいるだろう。

 一時的に物資の価値は上がる。キャラバンが都市を出る理由はない。

 マリーはモクを携帯灰皿に収納すると、澄んだ瞳でじっとトマスを見つめた。


「嬉しい?」

「そりゃあな。これでもお前の旦那のつもりだからな」

「つもりなんかじゃない」

「……すまん。そうだな」


 MDを降りるとどうにも調子の出ない自分に、トマスは薄くなった茶髪を掻いた。

 それでも、マリーの視線は変わらない。

 期待するでも、落胆するでもなく、その瞳はただ寄り添う者の色を湛えていた。


「私はしっかりして、なんて言わない。あなたはあなたのままでいい。

 けど、私が傍にいるせいであなたが駄目になってしまうなら――自分が許せない」


 その一瞬、妻の瞳が曇ったのをトマスは見た。

 それは罪悪感だ。決して、マリーが抱く必要のない筈の感情だ。


 トマス・マツァグという駄目男に夢を諦めさせるでもなく、忘れさせるでもなく、ただ惰性のように生きるのに付き合う。それが罪だというのなら、誰が裁くと云うのか。

 悪いのは、新たな一歩を踏み出せない自分の方ではないのか。そう言おうとして、しかし、トマスの口は思うように回らなかった。

 空に飛んだ一瞬、己は確かに昂揚していた。未だ夢を捨てきれていないのは明らかだった。


「……すまん」

「謝らないで。あなたは私の生き甲斐。いつか、あなたが笑って生きられるようになったら、それでいい」

「……そいつはまた贅沢な話だな」

「そう? 意外と早いと思う、きっと」


 そう言い続けて10年経ったよ、マリー。

 呟く言葉は形にならず、ただ曇天の空に霧散していった。



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