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【第4章スタート!】悪役令嬢は忙しい  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第9話 引き止めと新しい契約

 王宮の正門横にある馬車待機所。

 夕日はすでに沈みかけ、空は藍色と橙色のグラデーションに染まっていた。


 私は待機していたベルンシュタイン家の馬車に近づいた。

 御者が帽子を取って一礼する。


「お帰りなさいませ、お嬢様。随分とお荷物が少ないようで」

「ええ。身軽になったから」


 私は微笑んで答えた。

 本当に、身軽だ。

 肩に乗っていた国の予算も、王子の未来も、すべて下ろしてきた。

 あとはこの馬車に揺られ、領地へ帰るだけ。

 父様と母様には手紙を出してある。「出戻りですが、温泉を掘るので許してください」と。


 ステップに足をかける。

 その時だった。


「——待てッ!!」


 遠くから、悲鳴のような、あるいは怒号のような声が聞こえた。

 私は動きを止めた。

 まさか。

 殿下が追いかけてきたのだろうか? 「やはり計算ができない」と泣きついてきたのか?

 だとしたら無視だ。

 私は足に力を込め、車内に乗り込もうとした。


「行くな! 待ってくれ、リリアーナ!」


 名前を呼ばれた。

 しかも、殿下の甲高い声ではない。

 もっと低く、けれど今は必死さで裏返りかけた声。


 私は振り返った。

 そして、目を疑った。


 王宮から続く石畳の道を、一人の男が全力疾走してくる。

 漆黒の髪を振り乱し、呼吸を荒げ、上着の裾をはためかせて。

 周囲の衛兵たちが、幽霊でも見たかのように口を開けて見送っている。


「サ、サイラス様……?」


 あの「氷の宰相」が、走っている。

 廊下を走る文官を「無駄なカロリー消費だ」と冷ややかに戒める彼が。

 汗だくになって、私のもとへ駆けてくる。


 彼は私の目の前まで来ると、膝に手をついて肩で息をした。


「はぁ、はぁ……っ、間に、合った……」

「か、閣下? どうされたのですか。クーデターでも起きましたか?」

「違う……!」


 彼は顔を上げた。

 整った顔が紅潮し、汗が頬を伝っている。

 その瞳は、獲物を逃がすまいとする肉食獣のように鋭く、そしてどこか縋るようだった。


「君だ。君が、足りない」


 私は首を傾げた。


「引継ぎは完璧に行いました。マニュアルも置いてきましたし、空調も直しました。不備はないはずですが」

「そうじゃない! 書類の話ではない!」


 サイラス様は叫び、乱れた前髪を乱暴にかき上げた。

 そして、懐からクシャクシャになった一枚の紙を取り出した。


「契約だ! まだ、契約が終わっていない!」

「契約? ですが、私はもう退職届を……」

「これを見ろ!」


 彼は私の目の前に紙を突きつけた。

 私は眼鏡の位置を直し、その紙面を目で追った。


『宰相補佐官 雇用契約書(特例措置)』


 ここまでは予想通りだ。

 また勧誘か。

 私は断る言葉を用意しながら、さらに下へと視線を滑らせる。


『契約期間:終身』

『勤務地:宰相執務室、およびサイラス・フォン・アイゼンガルドの側』

『業務内容:国政全般の補佐、魔法研究、およびサイラスの健康管理(主にお茶の温度管理)』

『報酬:王宮魔導師長と同等、ベルンシュタイン領への技術支援、およびサイラス個人の全財産の共有権』


 ……ん?

 私は二度見した。


「あの、閣下。条文がおかしいようです」

「どこだ」

「『全財産の共有権』とは何ですか。それに『終身』というのは労働基準法違反です。奴隷契約になってしまいます」

「奴隷ではない。パートナーだ」


 サイラス様は、私の手を取り、その紙を握らせた。

 彼の手は熱く、少し震えていた。


「リリアーナ。私は、君がいなければ駄目だ」


 彼の声が、少し震えた。


「魔導師団長から聞いた。あの空調の術式。あんなことができる人間を、私は他に知らない。君の能力は、この国を変えられる」


「……能力だけなら、外部顧問として契約することも可能ですが」


「違う!」


 彼は私の言葉を遮った。

 そして、一歩踏み込んできた。

 距離が近い。

 彼の息遣いが聞こえるほどに。


「能力など、口実だ。……いや、嘘をついた。能力も欲しい。だが、それ以上に」


 彼は私の目を見つめた。

 蒼い瞳の中に、私自身の戸惑った顔が映っている。


「私は、君の淹れた茶が飲みたい。君が隣で、涼しい顔をして書類を捌いている音が聞きたい。君がいない執務室など、ただの紙の墓場だ」


 それは、これ以上ないほど不器用で、実利的な愛の告白だった。

 「好きだ」とか「愛してる」なんて甘い言葉は一つもない。

 あるのは、「必要だ」という切実な叫びだけ。


 私の胸の奥が、ぎゅっと音を立てた。

 困った。

 これは、計算外だ。


 私は手元の契約書に視線を落とした。

 終身契約。

 それは、一生この激務の人の隣にいるということ。

 自由な隠居生活とは正反対の、忙しい日々。


 でも。

 一人で悠々自適に温泉に浸かる未来と、この人と二人で山積みの課題に立ち向かう未来。

 どちらが退屈しないか。

 どちらが、私の胸を高鳴らせるか。


 答えは、最初から決まっていたのかもしれない。


 私はため息をついた。

 呆れたような、でも、口元が勝手に緩んでしまうのを隠すようなため息を。


「……終身契約には、解約条項がないとリスクが高すぎます」


 私が言うと、サイラス様の顔が強張った。

 断られると思ったのだろう。

 私は鞄から万年筆を取り出した。

 そして、契約書の余白にさらさらと書き足した。


『特記事項:ただし、サイラスリリアーナを大切にしなかった場合、乙は即時契約を解除し、慰謝料として甲の私財を没収の上、領地へ帰還できるものとする』


「これで、どうでしょう?」


 私が書き足した契約書を突き返すと、サイラス様は目を丸くしてそれを読んだ。

 そして、ぱっと顔を輝かせた。

 あの氷の仮面が砕け散り、少年のような無防備な笑顔が浮かぶ。


「……了承した。異存はない」

「では、サインをお願いします」

「ああ、喜んで」


 彼は私の万年筆を受け取り、力強く署名した。

 これで、契約成立だ。


「馬車は、キャンセルしますか?」


 御者が気を利かせて尋ねてきた。

 私は苦笑して頷いた。


「ええ。すみません、しばらく帰れそうにありません」

「承知いたしました。では、お荷物は宰相公邸へお運びしますかな?」

「……ええ、お願いするわ」


 サイラス様が、ほっとしたように肩の力を抜いた。

 そして、恐る恐る手を差し出してくる。

 握手、ではない。

 エスコートの手だ。


「戻ろう、リリアーナ。……茶が冷めてしまった」

「また淹れ直しますよ。閣下の腕前では信用できませんから」


 私は彼の手を取った。

 大きくて、タコのある、努力家の手。

 その手は、私の手をしっかりと包み込んだ。


 私は馬車に背を向け、王宮へと歩き出した。

 沈みかけた夕日が、私たちの影を長く伸ばす。

 自由は遠のいたけれど、不思議と足取りは重くない。

 これから始まる「幸せな激務」を思うと、手帳のページが埋まっていくような、心地よい予感がしていた。

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