第8話 最後の魔法開発
荷造りは終わった。
私の私物は驚くほど少なかった。
小さなダンボール一箱分。
十年間の王宮生活の痕跡としては、あまりに呆気ない。
殿下とミア嬢は、まだ戻ってこない。
財務局の書庫で、膨大なファイルの中からバックアップを探して彷徨っているのだろう。
見つかる頃には夜になっているかもしれない。
まあ、私には関係のないことだ。
私は箱を抱え、執務室を見渡した。
西日が差し込む部屋。
殺風景だが、長く過ごした場所だ。
多少の愛着はある。
「……うるさいな」
私は眉を寄せた。
部屋の隅に設置された、大型の空調魔導具だ。
ブォン、ブォン、と重苦しい音を立てて稼働している。
旧式の『風精霊の箱』。
魔石の消費量は多いのに、出てくる風はぬるく、何より音が不快だ。
これまでも何度か修理申請を出したが、「予算不足」で却下されてきた。
(最後だし、直しておくか)
これも気まぐれだ。
私は箱を置き、魔導具の前にしゃがみ込んだ。
メンテナンス用のパネルを開ける。
中には複雑な魔力回路が刻まれているが、今の私には「無駄な配線の塊」にしか見えない。
「ここを経由する意味がない。こっちの回路はショート寸前……」
私はポケットから愛用の万年筆を取り出した。
これはただの筆記具ではない。
ペン先に微量のミスリルが使われており、魔力回路の修正にも使える優れものだ。
私はペン先に魔力を込めた。
青白い光が灯る。
「術式介入。並列処理、開始」
既存の回路の上から、新しい術式を上書きしていく。
無駄なエネルギーロスを生んでいた迂回ルートを遮断。
代わりに、熱交換の効率を最大化する『循環術式』を組み込む。
さらに、振動を抑えるための『静音結界』も追加。
本来なら数人の魔導師が数日かけて行う改修作業だ。
だが、私の中ではパズルのピースをはめるような感覚だった。
理論は単純だ。
AからBへ行くのに、わざわざCを経由する必要はない。ただそれだけ。
一分後。
私はパネルを閉じた。
「再起動」
魔導具が小さく唸り、そして――静かになった。
音が消えたのではない。
稼働音があまりに静かになったのだ。
送風口からは、高原の風のような、冷たく澄んだ空気が流れ出してくる。
「うん、快適」
私は満足して頷いた。
これで次の補佐官も、少しは仕事がしやすくなるだろう。
私は再びダンボールを持ち上げた。
その時だった。
バンッ!!
執務室のドアが、乱暴に開け放たれた。
立っていたのは、白髪の老人。
王宮魔導師団長、ガルドフ導師だった。
彼は血走った目で部屋の中を見回し、私を見て、そして空調魔導具を凝視した。
「ここか……! ここから反応があったぞ!」
彼はツカツカと部屋に入り込み、魔導具に取り付いた。
計測用の水晶をかざす。
「な、なんじゃこれはぁぁぁ!?」
絶叫が響いた。
私はビクリと肩を震わせた。
まずい。勝手にいじったのがバレた。
「あの、団長。すみません、音がうるさかったので少し調整を……」
「調整!? これを調整と言うのか!」
団長は水晶を震える手で握りしめ、私に詰め寄った。
「魔力消費率が十分の一! 冷却効率は三百パーセント向上! しかも、術式の中に『自己修復機能』まで組み込まれておる! 誰がやった!? どの高位魔導師の仕業じゃ!」
「……えっと、私ですが」
私が恐る恐る手を挙げると、団長は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「リリアーナ嬢? 事務方の君がか?」
「はい。以前から構造上の欠陥が気になっていたので、理論上の最短ルートを繋げただけです。元に戻しましょうか?」
「馬鹿もん! 触るな!」
怒鳴られた。
やはり怒っているらしい。
「戻すなど言語道断! これは……これは芸術じゃ! いや、革命じゃ! 既存の魔導工学の常識を覆す『多重並列記述法』……まさか、こんなところにお手本があったとは!」
団長は魔導具に頬ずりせんばかりの勢いだ。
どうやら、私の落書きのような修正を気に入ってくれたらしい。
変人として有名な団長だが、ここまでとは。
「あの……私、もう退庁時間ですので」
「待て待て! 君、これをどうやって思いついた? この術式の起源は? 論文は出しているのか!?」
「ただの趣味です。論文などありません」
私は一歩ずつ後ずさりした。
この人に捕まると、長くなりそうだ。
学会での発表とか、魔力測定とか、面倒なことに巻き込まれる予感がする。
「趣味!? これが趣味だと!?」
「では、失礼します! 後のことはよろしくお願いします!」
私は逃げるように踵を返した。
背後で「待ってくれ! せめて術式の解説を!」「弟子にしてくれ!」という叫び声が聞こえたが、無視だ。
廊下に出る。
時計塔の鐘が、十七時を告げていた。
定時退社。
なんて甘美な響きだろう。
私は小走りで出口へと向かった。
これで本当に終わりだ。
明日からは、もうここに来なくていい。
魔導師団長の興奮ぶりを見るに、あの空調魔導具は撤去されずに済むだろう。
いい置き土産になったはずだ。
……まさか、その「置き土産」が、サイラス様の耳に入り、彼が私を絶対に手放さないと決意する決定打になるとは、この時の私は知る由もなかった。
私は軽やかな足取りで、王宮の門をくぐった。
夕日が、眩しいくらいに輝いていた。




