第7話 崩壊する王子の日常
宰相執務室での不思議なティータイムを終え、私は王太子執務室へと戻ってきた。
廊下を歩いている最中から、何やら怒鳴り声のようなものが聞こえていたが、扉の前に立つとそれは確信に変わった。
「ない! ない! どこにもないぞ!」
「殿下、落ち着いてください……!」
「落ち着いていられるか! 午後の会議資料だぞ! リリアーナのやつ、嫌がらせで隠していきおったな!」
中から聞こえるのは、フレデリック殿下のヒステリックな叫び声と、侍従たちの悲鳴に近い宥め声。
私は小さくため息をつき、眼鏡のブリッジを押し上げた。
隠居生活への憧れが、秒単位で増していくのを感じる。
私はノックもそこそこに、扉を開けた。
「失礼いたします。戻りました」
室内は、台風が通過した直後のようだった。
床には書類が散乱し、インク壺が転がり、数人の文官が這いつくばって紙を拾い集めている。
その中心で、殿下が髪を振り乱して仁王立ちしていた。
私と目が合うなり、殿下は大股で歩み寄ってきた。
「リリアーナ! 貴様、今までどこで油を売っていた!」
「宰相閣下にお呼ばれしておりました。事後処理の件で」
「そんなことはどうでもいい! それより、会議資料だ! 貴様、どこへやった!」
殿下が私の肩を掴もうとする。
私は半歩下がって、それをかわした。
「隠してなどおりません。昨夜、退室する際に申し上げたはずですが」
「うるさい! 机の上にはなかったぞ!」
「……殿下」
私は呆れを通り越して、哀れみすら感じながら、殿下の執務机を指差した。
「机の中央にある、その赤い表紙の束。表題に『本日の会議資料』と書いてありますが」
殿下が振り返る。
そこには、他の書類の山に埋もれかけることなく、鎮座する赤い束があった。
あまりに堂々と置いてあるため、逆に目に入らなかったのだろうか。いや、単に探す気がなく、私に文句を言いたかっただけかもしれない。
「あ……」
殿下はバツが悪そうに口ごもる。
だが、すぐに顔を赤くして反論した。
「わ、分かりにくい場所に置くのが悪い! もっと主張しろ!」
「一番目立つ場所です。それに、横にある青いファイルが『引継ぎマニュアル』です。今後の業務手順はすべてそこに記してありますので、私に聞く前に、まずそちらをご覧ください」
「マニュアルだと? 私がそんなちまちましたものを読めると思っているのか!」
殿下は鼻で笑い、乱暴に椅子にドカッと座った。
「いいか、リリアーナ。貴様はまだ私の補佐官だ。婚約破棄したからといって、仕事をサボることは許さんぞ。おい、この計算が合わん。直せ」
彼は書きかけの書類を私の方へ突き出した。
当然のように、私が処理すると思っている。
昨日あれだけ大見得を切って私を捨てたのに、私の労働力だけはキープするつもりらしい。
都合が良すぎるにも程がある。
私が口を開きかけた時だった。
「フレデリック様ぁ、お疲れじゃないですかぁ?」
執務室の奥にある休憩スペースから、甘ったるい声がした。
ミア嬢だ。
彼女はフリフリのドレスを揺らしながら、ティーカップを載せたトレイを運んできた。
昨夜の騒ぎなどなかったかのように、平然としている。
「リリアーナ様がいじわるで仕事をしないから、フレデリック様が大変な目に……。可哀想に。あたしが淹れた紅茶で、癒やされてくださいな」
「おお、ミア! やはり私の味方は君だけだ!」
殿下の表情がデレデレと緩む。
私は冷ややかな目で見守った。
仕事中に職場へ恋人を連れ込む神経も疑うが、それ以上に危なっかしい。
ミア嬢の足元には、散乱した書類がある。
そして彼女は、ヒールの高い靴を履いている。
「さあ、どうぞ……きゃっ!」
案の定だった。
彼女は何かに躓き、盛大にバランスを崩した。
トレイの上にあったティーカップが宙を舞う。
茶色い液体が、スローモーションのように放物線を描き――
バシャン。
殿下の机の上、それも先ほど見つけたばかりの『会議資料』と『引継ぎマニュアル』の上に、直撃した。
「あ」
ミア嬢が固まる。
殿下も口を開けたまま静止した。
重要な公文書が、見るも無惨に茶色く染まっていく。インクが滲み、文字が溶け出していく。
「……あ、あ……」
殿下が震える手で、濡れた紙束を持ち上げた。
ボタボタと雫が垂れる。
修復不可能だ。
「ど、どうしよう……ごめんなさいぃ、わざとじゃなくて……」
ミア嬢が涙目で訴える。
殿下は引きつった笑顔で、「い、いいんだ、ミア。君に怪我がなくてよかった」と言ったが、その声は裏返っていた。
そして、すぐに私を睨みつけた。
「リリアーナ! 何とかしろ! 魔法で直せるだろう!」
命令。
当然の要求。
私が尻拭いをするのが、世界の理だと言わんばかりの態度。
私は、静かに首を横に振った。
「無理です」
「なっ……!?」
「紙に染み込んだ液体を除去する魔法は高度な制御が必要です。インクまで消えてしまいますから。物理的に不可能です」
嘘ではない。
まあ、サイラス様レベルの魔力制御があれば可能かもしれないが、私には荷が重い。
それに、仮にできたとしても、やる義理はなかった。
「そんな……じゃあ、どうすればいいんだ! 一時間後に会議があるんだぞ!」
殿下が頭を抱えて喚く。
私は冷静に、鞄から自分の手帳を取り出した。
「ご安心ください」
「おお! さすがリリアーナ! 予備があるのか!」
「いいえ。原本はそれだけです」
私は殿下の希望を打ち砕き、淡々と続けた。
「ですが、資料のデータはすべて財務局の書庫にある『原本保管箱』に写しを提出してあります。公務員規定第三条『重要書類のバックアップ義務』に従いまして」
殿下の顔が輝き、そしてすぐに曇った。
財務局の書庫は、ここから歩いて十分。しかも膨大な資料の中から、該当の写しを探し出さなければならない。
「……リリアーナ、取ってきてくれ」
「お断りします」
私はきっぱりと告げた。
「私はこれより、私物の撤去と最終退職手続きを行います。資料を汚したのはミア様ですので、お二人で取りに行かれてはいかがですか? 愛の共同作業として」
「き、貴様……!」
「それでは、私はあちらで片付けをしておりますので。お構いなく」
私は唖然とする二人を放置し、部屋の隅にある自分の小さなデスクへと向かった。
背後で「どうしよう、場所が分からない!」「だからマニュアルを見ろと言っただろう!」「マニュアルも濡れて読めません〜!」という絶望的な会話が聞こえてくる。
私は自分の机の引き出しを開け、私物をダンボールに詰め始めた。
愛用のペン立て、マグカップ、膝掛け。
どれも十年間の思い出が詰まっているが、未練はない。
チラリと殿下の方を見る。
彼は今、人生で初めて理解しつつあるのかもしれない。
「リリアーナがいるから回っていた」日常が、いかに脆く、恵まれたものだったかを。
そして、それを自ら壊した代償が、いかに高くつくかを。
私は箱にガムテープを貼り、心の中で「ざまぁみろ」と呟く代わりに、小さく鼻歌を歌った。
曲はもちろん、王国の労働歌だ。今日はとても調子よく歌えそうだった。




