第6話 不器用なティータイム
カチャリ、と陶器が触れ合う音がした。
湯気が立ち上るティーカップが二つ。
なんとか確保されたテーブルの上の、わずか三十センチ四方のスペースに置かれる。
その周囲には、書類の壁がそびえ立っている。
だが、その壁は先ほどまでの「崩落寸前の瓦礫」ではない。
私が魔法で整列させ、重要度順に積み直した「整然とした塔」だ。
「……すごいな」
向かいのソファに腰を下ろしたサイラス様が、書類の塔を見上げて呟いた。
「魔法による座標固定と、内容のカテゴライズを同時に行ったのか? しかも、未決裁箱の中身が、緊急度順に並べ変わっている」
「職業病です」
私は自分のカップを手に取りながら答えた。
あくまで、お茶を飲む場所を作るついでの作業だ。
中身を読んでしまったのは不可抗力である。
(……それにしても、酷い状況だった)
ちらりと見ただけで、三ヶ月前の案件が放置されていたり、逆にどうでもいい舞踏会の招待状が「最優先」の箱に入っていたりした。
部下たちが過労で倒れるのも無理はない。
指揮系統が機能不全を起こしているのだ。
いけない。
また思考が仕事モードに入りかけている。
私は首を振り、カップに口をつけた。
ふわりと、上品な香りが鼻腔をくすぐる。
白茶の最高峰、シルバーニードルだ。
市場に出れば金貨数枚は下らない代物。
一口飲む。
……少し、渋い。
お湯の温度が高すぎたのだろう。蒸らし時間も長かったかもしれない。
完璧な素材が、素人の手つきで台無しになっている。
けれど。
「……温かい」
思わず、声が漏れた。
喉を通る熱が、冷え切っていた胃の腑に染み渡っていく。
美味しい、とは少し違う。
でも、とてつもなく落ち着く味だった。
「口に合わんか?」
サイラス様が、不安そうにこちらを覗き込んでいた。
あの「氷の宰相」が、まるでテストの結果を待つ学生のような顔をしている。
私は慌てて首を振った。
「いえ、とても美味しいです。素晴らしい茶葉ですね」
「……そうか。ならいい」
彼はほっとしたように息を吐き、自分もカップに口をつけた。
そして、独り言のように呟いた。
「君に、温かい茶を飲ませたかった」
私はカップを置く手を止めた。
え?
「それは、どういう……」
「見ていたからだ」
サイラス様はカップを両手で包み込み、視線を揺らめく湯気に落とした。
「御前会議の時も、各省庁の連絡会議の時も。君はいつもフレデリック殿下の後ろに控えていた。殿下が飲む茶は、君が完璧な温度で用意していたな」
心臓が、トクンと跳ねた。
確かにそうだ。
殿下は猫舌だから、少し冷ましてから出さないと機嫌を損ねる。
私は常に温度計のような神経を使って給仕していた。
「だが、君自身の茶はどうだ」
彼が顔を上げ、私を真っ直ぐに見た。
「君は会議中、ずっと筆記を取り、必要な資料を即座に差し出し、殿下の失言をフォローし続けていた。配られた茶に口をつけるのは、いつも会議が終わって全員が席を立った後だ」
彼の蒼い瞳が、私の過去を映し出す。
「冷めきって、渋くなった茶を、君は表情一つ変えずに飲み干して、次の仕事へ向かっていた。……私はそれが、ずっと気になっていたんだ」
言葉が出なかった。
そんなところを、見られていたなんて。
私は「影」だった。
輝かしい王太子の、便利な付属品。
誰も私のことなど見ていないと思っていた。
誰も、私がどんなお茶を飲んでいるかなんて、気に留めないと思っていた。
それなのに。
この国の最高権力者は、私の手元の「冷めたカップ」を見ていたというのか。
「……お恥ずかしいところを」
「恥じることではない。だが、私は不愉快だった」
サイラス様の声が、少しだけ強くなる。
「国のために最も働いている人間が、冷たい茶しか飲めない。そんな理不尽が許せなかった。だから……」
彼は少し言い淀み、不器用に視線を逸らした。
「ここなら、茶くらいは私が淹れる。……君が仕事をしている間に、冷めないように保温の魔導具も用意させよう。だから」
彼は私の目を再び捉えた。
真剣で、どこか切実な光。
「私のところに来ないか。リリアーナ」
静寂が落ちる。
聞こえるのは、古時計の秒針の音だけ。
これは、スカウトだ。
優秀な事務官に対する、好条件の勧誘。
頭では分かっている。
彼は私の「能力」を評価し、私の「労働環境」を改善しようとしているだけだ。
なのに、どうしてだろう。
目頭が熱い。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛い。
私は眼鏡を外し、指先で目元を拭った。
涙ではない。
湯気が目に染みただけだ。そう自分に言い聞かせる。
「……閣下は、お人が悪いです」
「そうか?」
「はい。そんな風に言われて、心が動かない労働者はいません」
私は眼鏡をかけ直した。
世界が再びクリアになる。
目の前には、不器用な優しさを湛えた上司候補と、山積みの書類。
自由な隠居生活。
温泉と読書の日々。
それは確かに魅力的だ。
けれど。
私の淹れたお茶を「美味しい」と言ってくれる人はいても、私が飲むお茶の温度を気にしてくれる人は、今までいなかった。
私は残りの紅茶を飲み干した。
少し渋いが、甘い余韻が残った。
「……少しだけ、考えさせてください」
即座に断るつもりだったのに。
口から出たのは、保留の言葉だった。
「ああ。待っている」
サイラス様が、微かに微笑んだ気がした。
それは本当に小さな変化だったけれど、氷が解けるような、柔らかな表情だった。
「では、私はこれで。……引継ぎに戻らないと、殿下がまた癇癪を起こしますので」
私は立ち上がり、鞄を持った。
ソファを離れるのが、少しだけ名残惜しい。
ドアへ向かう。
ノブに手をかけ、振り返る。
「あの、閣下」
「なんだ」
「お茶、ご馳走様でした。……少し、蒸らし時間が長すぎましたが」
私はいたずらっぽく付け加えた。
サイラス様が目を丸くし、それから苦笑した。
「精進しておく」
私は執務室を出た。
重厚な扉が閉まる。
廊下には、また冷やりとした空気が流れていた。
けれど、私のお腹の中には、確かな熱が残っていた。
手帳を開く。
『引継ぎ完了まで:あと三日』
その文字の下に、私は小さく書き加えた。
『再就職先候補:要検討(ただし、お茶は美味しい)』
カツ、カツ、カツ。
私は歩き出した。
足取りは、来る時よりもずっと軽かった。




