第5話 氷の宰相と書類の塔
王宮の最奥、北棟の三階。
そこは、この国の中枢とも言える場所だ。
冷ややかな石造りの廊下には、私の足音だけがカツ、カツと響く。
すれ違う文官たちは皆、青白い顔で書類を抱え、早足で去っていく。
まるで魔窟から逃げ出す生贄のように。
突き当たりにある重厚な黒檀の扉。
ここが、宰相サイラス・フォン・アイゼンガルド公爵の執務室だ。
私は一度深呼吸をし、乱れた前髪を直した。
覚悟を決める。
もし左遷の辞令なら、いっそ北の果ての図書館司書を希望しよう。あそこなら静かに本が読める。
コン、コン。
ノックをする。
「入れ」
短く、硬い声が返ってきた。
私は扉のノブを回し、重たいそれを押し開けた。
「失礼いたします。リリアーナ・ベルンシュタインでございます」
一礼して顔を上げる。
そして、私は絶句した。
「…………これは」
そこは、戦場だった。
いや、墓場かもしれない。紙の。
広い執務室の床が見えないほどに、書類、書類、書類。
机の上には、人の背丈ほどもある書類の塔が三つも林立している。
壁際の棚からは羊皮紙が雪崩を起こし、ソファの上は未決裁の箱で埋まっていた。
その混沌の中心で、黒髪の男が一人、ペンの音だけを響かせていた。
サイラス様だ。
彼は顔を上げ、氷のような蒼い瞳を私に向けた。
眉間には深い皺が刻まれている。
「……来たか。早かったな」
彼はペンを置き、立ち上がろうとした。
その瞬間。
彼の肘が、机の端にあった書類の塔の一つに触れた。
グラリ。
不安定に積み上げられた数百枚の重要書類が、バランスを崩して傾く。
私の足元へ向かって。
(あ)
私は反射的に動いていた。
思考するよりも早く、体が、いや、私の「事務員としての本能」が反応したのだ。
「【固定】!」
短く詠唱し、指先から魔力を放つ。
崩れかけた書類の束が、空中でピタリと静止した。
私は素早く駆け寄り、空中に浮いた書類の下半分を手で支え、上半分を魔力で制御しながら、流れるような動作で机の上に戻した。
トントン、と端を揃える。
完璧だ。
一枚も床に落とさず、順番も崩さず、元の位置へ。
「……失礼しました。つい、体が」
私は我に返り、慌てて手を引っ込めた。
やってしまった。
宰相閣下の執務室で、勝手に魔法を行使し、書類に触れるなど。
機密保持違反で処罰されても文句は言えない。
恐る恐るサイラス様を見る。
彼は、目を丸くして固まっていた。
あの鉄仮面のような無表情が崩れ、純粋な驚きが張り付いている。
「……今、何をした?」
「え、あ、書類が崩れそうでしたので、初歩的な物理制御魔法で固定を……」
「無詠唱に近い速度でか? それに、あの崩れ方なら通常は散乱する。それを瞬時に整列させて戻すなど……」
サイラス様は、整然と積み直された書類の塔を凝視し、それから私を見た。
その瞳に、怪しい光が宿る。
「君は、魔法制御のスペシャリストなのか?」
「いえ、ただの事務処理係です。書類を落とすと拾うのが面倒ですので、この程度の生活魔法は誰でも……」
「誰でもはできない」
彼は断言し、ため息をつくように椅子に座り直した。
そして、疲れたように額を押さえた。
「……すまない。見苦しいところを見せた。部下たちが次々と過労で倒れてな。ここ数日、一人でこの量を捌いている」
一人で?
私は改めて部屋を見渡した。
これは、一部署の仕事量ではない。国全体の決裁事項がここに滞留している。
「氷の宰相」という完璧なイメージの裏側にある、泥臭い激務の実態。
(効率が悪すぎる)
私の頭の中で、職業病のスイッチが入った。
この分類、この動線、この優先順位付け。すべてが破綻している。
これでは、いくらサイラス様が優秀でも処理しきれない。
私は口を開きかけて、閉じた。
余計な口出しは無用だ。私は今日で辞める人間なのだから。
用件を聞いて、さっさと帰ろう。
「それで、閣下。私へのご用件とは?」
私が尋ねると、サイラス様は表情を引き締めた。
「ああ。昨夜の件だ」
彼は机の引き出しから、一枚の封筒を取り出した。
封蝋が押された、正式な公文書だ。
「君の婚約破棄に伴う、王家からの正式な謝罪状と、慰謝料の承認通知だ。私が通しておいた」
「……早いですね」
昨夜の話が、もう書類になっている。
仕事が早いのは好感が持てる。
私は封筒を受け取った。
「ありがとうございます。これで心置きなく隠居できます」
「隠居?」
「はい。実家の領地に戻り、静かに暮らす予定ですので」
私が答えると、サイラス様の眉がピクリと動いた。
彼は不満げに指で机を叩く。
「……それは困る」
「はい?」
「君のような人材を、野に放つわけにはいかない。国家的な損失だ」
彼は立ち上がり、書類の山を迂回して、私の前まで歩いてきた。
長身の彼に見下ろされると、威圧感がすごい。
だが、その瞳には昨夜と同じ、不思議な熱があった。
「リリアーナ・ベルンシュタイン。君に提案がある」
「提案、ですか」
「私の補佐官になれ」
へ?
私は瞬きをした。
補佐官。
それは、この地獄のような執務室の主になるということだ。
「……お断りします」
即答だった。
誰が好き好んで、ブラック企業から別のブラック企業へ転職するのか。
私は自由になりたいのだ。
「待遇は王宮魔導師長と同等。給与は今の三倍。有給休暇は完全消化を保証する」
「三倍……」
心が揺らぐ。
実家の領地は貧乏だ。温泉を掘るにも資金がいる。
「さらに、君の魔法研究への予算も無制限につけよう。王宮図書館の禁書閲覧許可もだ」
禁書閲覧許可。
その単語に、私の理性がグラリと傾いた。
あそこには、失われた古代魔法の文献が山ほどある。
「……条件は魅力的ですが」
私は視線を逸らし、部屋の惨状を見た。
「この部屋を見る限り、有給消化の保証は信憑性に欠けます」
痛いところを突かれたのか、サイラス様が言葉に詰まる。
彼はバツが悪そうに視線を泳がせ、そして唐突に言った。
「……茶を、淹れよう」
「はい?」
「君の言う通りだ。まずは落ち着いて話をすべきだな。……少し、休憩に付き合ってくれないか」
彼は部屋の隅にある給湯台へ向かった。
その背中は、国を背負う宰相というより、ただの疲れた青年のように見えた。
私は鞄を握りしめたまま、立ち尽くす。
帰るべきだ。
今すぐ「失礼します」と言って、扉を開ければいい。
だが。
カチャカチャと、不器用な手つきでティーカップを用意する彼を見て、私は小さくため息をついた。
(……一杯だけなら)
私は鞄をソファの隅(唯一空いている場所)に置いた。
そして、無意識のうちに、近くにあった書類の山に手を伸ばしていた。
これを分類しないと、お茶を置く場所すらないのだから。仕方がない。
あくまで、お茶のためだ。
私はそう自分に言い訳をして、最初の一枚を手に取った。




