第44話 愛おしきカオス
カアン、カアン、カアン!
小気味よい音が、宰相執務室に響き渡る。
私が決済印を押す音だ。
三ヶ月の産休・育休を経て、私は職場に帰ってきた。
ただし、以前とは少しだけ――いや、劇的に環境が変わっている。
「……あーうー」
「はいはい、レン。退屈ですか? もう少しで終わりますよ」
私は左手で膝の上のレンを支え、右手で万年筆を走らせる。
レンは私の膝の上で、きょとんとした顔で書類を眺めている。
時折、小さな手で紙を掴もうとするが、私はそれを華麗に回避し、インクを吸わせないように書類をさばく。
これぞ、新スキル『マルチタスク・マザリング』。
あやす、検閲する、署名する。
これらを同時に行う高等技術だ。
執務室の一角には、あの「改良版ベビーベッド」が置かれている。
床にはジョイントマットが敷かれ、色とりどりの玩具が転がっている。
かつて「紙の墓場」と呼ばれ、その後「洗練されたオフィス」へと変貌したこの部屋は、今や「託児所兼司令部」というカオスな空間になっていた。
「補佐官! 帝国の通商代表団から書簡です!」
「はい、第三棚へ。……シッ、声が大きいですよ。レンが驚きます」
「はっ! 申し訳ありません!」
飛び込んできた部下が、慌てて声を潜め、抜き足差し足で書類を置いていく。
王宮の屈強な騎士たちも、高位の文官たちも、この部屋に入ると皆、猫のように静かになる。
この国の最高権力者は、玉座の王ではなく、この小さな揺り籠の中にいるのかもしれない。
ガチャリ。
扉が開いた。
「ただいま。……会議が長引いてすまない」
サイラス様が戻ってきた。
彼は疲れ切った顔でネクタイを緩めている。
だが、その最高級のフロックコートの肩には、白い粉のようなシミがついていた。
朝、レンにミルクを飲ませた時の名残だ。
ポケットからは、カラフルなガラガラが半分はみ出している。
以前の「氷の宰相」なら即座に処刑ものだろう。
でも今の彼には、それが勲章のように馴染んでいる。
「お帰りなさい、あなた。予算委員会はどうでした?」
「地獄だった。……財務大臣が渋ってな」
彼はため息をつき、私のデスクへ近づいてきた。
そして、私の膝の上のレンと目が合うと、一瞬で表情を崩壊させた。
「おお、レン! パパだぞ! いい子にしていたか?」
デレデレだ。
さっきまでの疲労困憊はどこへやら。
彼はレンを抱き上げ、高い高いをする。
「キャッキャッ!」
レンが喜んで声を上げる。
その拍子に、ポワッと小さな光の玉が浮かんだ。
無意識の魔力放出だ。
「おっと。元気だな」
サイラス様は慣れた手つきで光を相殺し、レンの頬にすりすりする。
「リリアーナ、今のを見たか? 光魔法だ。天才かもしれん」
「ええ、ええ。先週は風魔法でしたけどね」
私は苦笑してペンを置いた。
仕事は山積みだ。
育児も待ったなしだ。
私の手帳は、以前にも増して黒く埋め尽くされている。
『10:00 会議』『10:30 授乳』『11:00 帝国との通信』『12:00 オムツ替え&昼食』……。
息つく暇もない。
効率化?
そんなものは、レンの「ギャン泣き」一つで吹き飛ぶ。
予測不能、制御不能。
私の人生設計は、毎日が修正の連続だ。
でも。
「……ふふ」
自然と笑みがこぼれた。
「どうした? 何か面白い案件でもあったか?」
レンをあやしながら、サイラス様が尋ねる。
私は首を横に振った。
「いいえ。ただ……幸せだなと思って」
私は椅子から立ち上がり、二人に近づいた。
窓の外には、王都の街並みが広がっている。
平和で、活気に満ちた世界。
「昔の私は、仕事だけが生き甲斐でした。感情を殺し、数字と結果だけを追い求めていました」
サイラス様の肩に頭を預ける。
彼は片手でレンを抱き、もう片方の手で私を抱き寄せてくれた。
「でも今は違います。泣き声も、汚れも、予定外のトラブルも……その全てが、私たちの生活なんですね」
完璧じゃなくていい。
効率的じゃなくてもいい。
泥臭くて、騒がしくて、愛おしい日々。
レンが、私の指を握った。
温かい。
この小さな命を守るためなら、私は何度でも徹夜できるし、どんな強敵とも戦える。
「……ああ。君がくれた世界だ」
サイラス様が優しく言った。
「君と出会わなければ、私はただの冷たい仕事人間で終わっていただろう。こんなに温かい重みを知ることはなかった」
彼はレンの頭にキスをし、そして私の額にもキスをした。
「ありがとう、リリアーナ。……愛している」
「私もです、サイラス様」
その時。
ブリブリッ、という豪快な音が響いた。
「……あ」
「……報告する。敵襲だ」
サイラス様が真顔になる。
レンが「やったぞ」と言わんばかりにニカッと笑った。
「迎撃準備、願いします!」
「了解! お尻拭き装填!」
感傷に浸る時間は終了だ。
私たちは同時に動き出した。
慣れた連携プレーで、オムツ替えというミッションに挑む。
私達は忙しい。
国の未来と、我が子を守るために。
これからもきっと、目の回るような忙しさが続いていくのだろう。
でも、構わない。
この「愛おしきカオス」こそが、私が選び取った、最高の幸せなのだから。
私は新しいオムツを広げながら、心の中で手帳の最後のページに書き込んだ。
『本日の業務:全力で生きること。……明日も、その次も、ずっと』
一旦完結です!!
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もし、この物語を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!




