表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結!】悪役令嬢は忙しい  作者: 九葉(くずは)
第4章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

43/44

第43話 新生児室は24時間営業

 深夜三時。

 世界が静寂に包まれる、草木も眠る丑三つ時。


 オギャアアアアアアッ!!


 宰相公邸の寝室に、空気を切り裂くような轟音が響き渡った。

 敵襲ではない。

 魔獣の咆哮でもない。

 我が家の新しい支配者、レン君の「お目覚めアラーム」だ。


「……ん、ぅ……」


 私は泥沼から這い上がるように、重いまぶたを開けた。

 意識が混濁している。

 最後に寝たのはいつだっけ?

 ああ、そうだ。ほんの一時間前だ。


 私の体内時計は狂い、曜日の感覚も消え失せている。

 かつて「鉄の女」と呼ばれ、徹夜仕事も平気でこなした私の体力ゲージは、今や常に赤点滅していた。


 ガバッ!


 隣で、布団が跳ね飛ぶ音がした。

 サイラス様だ。

 彼は瞬時に上半身を起こし、充血した目で周囲を見回した。


「敵か!? ……いや、レンか!」


 彼はベッドから転がり落ちるようにして、ベビーベッドへ駆け寄った。

 その動きに迷いはない。

 宰相としての威厳はどこへやら、髪はボサボサ、パジャマのボタンは掛け違っている。


「どうした、レン。お腹が空いたのか? それとも……」


 彼はレンを抱き上げ、鼻をひくつかせた。


「……この匂い。報告する、敵襲だ。『大』の方だ」

「了解しました……。迎撃準備、します」


 私はフラフラと立ち上がり、お尻拭きと新しいオムツを用意した。

 連携プレーだ。

 言葉少なに、阿吽の呼吸で動く。


 サイラス様がレンをオムツ交換台に寝かせる。

 レンは手足をバタつかせ、顔を真っ赤にして泣き叫んでいる。

 魔力強化されたキックが、サイラス様の腕を直撃する。


「ぐっ……いい蹴りだ。将来は騎士団長だな」


 サイラス様は嬉しそうに(半分白目だが)言いながら、目にも止まらぬ早業で汚れたオムツを外し、お尻を拭き、新しいオムツを装着した。

 所要時間、わずか三十秒。

 神速である。

 ここ一ヶ月で、彼の魔法スキルよりも「オムツ替えスキル」の方がレベルアップしている気がする。


「処理完了。……だが、まだ泣いているな」

「授乳の時間ですね。交代します」


 私はレンを受け取った。

 ずしり、と重い。

 生まれた時より一回り大きくなった体は、温かくて柔らかい。


 ソファに座り、授乳を始める。

 レンは必死に吸い付いてくる。

 生きるための、純粋な欲求。

 その力強さに、胸が痛むと同時に、愛おしさがこみ上げる。


(……それにしても)


 私は壁掛け時計を見た。

 三時十分。

 次の授乳は六時頃だろうか。


 手帳を開く気力もないが、脳内でスケジュールを確認する。

 『0:00 授乳』『1:30 夜泣き対応』『3:00 授乳&オムツ』。

 ……休憩時間が存在しない。


 ブラック企業?

 いいえ、ここはもっと過酷だ。

 労働基準法適用外。二十四時間営業、年中無休の「育児」という名の戦場。

 しかも、上司レンは言葉が通じず、気分屋で、理不尽な要求ばかりしてくる。


「……飲み終わりました」


 十分後。

 私はレンの背中をトントンと叩き、ゲップをさせた。

 これで満足して寝てくれるはずだ。

 さあ、私たちも寝よう。

 あと二時間は眠れる。


 ベッドに置こうとした、その時。


 フギャ……フギャアアアアアッ!!


 背中スイッチが作動した。

 ベッドに背中がついた瞬間、レンが再び泣き出したのだ。


「……なぜ」


 私は天を仰いだ。

 オムツは綺麗だ。

 お腹もいっぱいだ。

 室温も湿度も、あの「スライムクッション」のおかげで完璧に保たれている。

 エラーの原因が見当たらない。


「どうしたんだ、レン。抱っこがいいのか?」


 サイラス様が再び抱き上げる。

 ゆらゆらと揺らす。

 泣き止む。

 置く。

 泣く。


 無限ループだ。


「……バグですね」


 私は虚ろな目で呟いた。


「システムのエラーログを確認したいです。どこかに『不快』の原因が表示されていればいいのに」

「リリアーナ、赤ん坊にログはない。……あるのは『気まぐれ』だけだ」


 サイラス様が遠い目をして言う。

 彼はレンを抱いたまま、部屋の中を歩き回り始めた。

 深夜の徘徊。

 こうして歩き続けていないと、レンが泣き止まないのだ。


「代わります。明日も公務でしょう?」

「君こそ。昨日は昼間も寝ていないだろう」

「でも……」

「いいから寝ろ。……これは、私の『夜間警備任務』だ」


 彼は強がって見せたが、その足取りは重い。

 背中が哀愁を帯びている。

 国一番の魔法使いが、ただの赤ん坊一人に振り回されている。

 その光景が、なんだかおかしくて、そして申し訳ない。


 私はふらふらと立ち上がり、彼の後ろをついて歩いた。

 背中に手を当てる。


「……じゃあ、二人で警備しましょう」

「リリアーナ……」

「一人で寝ているより、二人でゾンビになった方がマシです」


 私たちは並んで、狭い寝室をぐるぐると歩き回った。

 サイラス様がレンを抱き、私がサイラス様の腕を支える。

 奇妙な行進だ。


 三十分後。

 ようやくレンの泣き声が収まり、規則正しい寝息に変わった。

 勝った。

 睡魔との戦いに勝利したのだ。


 そーっ、と。

 爆弾処理班のような慎重さで、サイラス様がレンをベッドに置く。

 ……泣かない。

 セーフだ。


「……ふぅ」


 私たちは同時に、その場にへたり込んだ。

 床に座り込み、壁にもたれる。

 どっと疲れが出た。


 窓の外が、白み始めている。

 もうすぐ夜明けだ。

 小鳥がさえずり、新しい一日が始まろうとしている。

 絶望的な朝だ。今日もまた、忙しい一日が始まるのだから。


 ふと、隣を見た。

 サイラス様の顔が、朝日に照らされている。

 酷い顔だった。

 目の下は青黒く、無精髭が伸び、頬がこけている。

 いつものキラキラした宰相オーラは皆無だ。


「……ふっ」


 笑いが漏れた。


「なんだ、リリアーナ」

「いえ……、酷い顔ですよ」

「君もだ。髪が爆発しているぞ」


 彼も笑った。

 お互い様だ。

 私たちは今、人生で一番ボロボロで、みっともない姿をしている。

 ドレスも宝石もない。

 あるのは、ミルクの吐き戻しのシミと、疲労感だけ。


 でも。


「……幸せですね」


 自然と、そんな言葉が出た。


「ああ。……不思議だな」


 サイラス様が私の肩を抱く。


「こんなに疲れているのに。体が鉛のように重いのに……あいつの寝顔を見ると、全部どうでもよくなる」


 私たちはベビーベッドの中を覗き込んだ。

 レンが、天使のような顔で眠っている。

 さっきまでの怪獣ぶりが嘘のようだ。

 小さくて、無防備で、柔らかい生き物。


 この寝顔を守るためなら、睡眠時間なんて安い代償だと思えてしまう。

 論理的ではない。

 コストパフォーマンスは最悪だ。

 でも、これが「親になる」ということなのだろう。


「……リリアーナ」

「はい」

「少しだけ、眠ろう。一時間だけでも」

「そうですね。……マーサさんが来るまで」


 私たちは立ち上がり、泥のようにベッドへ倒れ込んだ。

 サイラス様の腕の中に潜り込む。

 慣れ親しんだ体温。

 そして、すぐそばから聞こえるレンの寝息。


 手帳に『今日の業務:生存』と書く気力もなかったけれど。

 心の中は、満ち足りていた。


 おやすみなさい。

 世界一忙しくて、愛おしい私の家族。

 次のアラーム(泣き声)が鳴るまで、束の間の休息を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ