第42話 産声と朝焼け
限界だった。
指先の感覚はない。
喉は悲鳴で枯れ、視界は汗で滲んでいる。
それでも、体の中の「彼」は、外に出ようと必死だった。
私も応えなければならない。
これが最後だ。
「頭が見えたよ! もう一息だ!」
マーサさんの叫び声が、遠くから響く雷のように聞こえた。
「リリアーナ! 頑張れ! あと少しだ!」
サイラス様が私の肩を抱き起こす。
彼の腕に力がこもる。
私の背中に、彼の心臓の鼓動が伝わってくる。
ドクン、ドクン、と。
それが私のリズムと重なり、力をくれる。
私は大きく息を吸い込んだ。
肺が焼けるようだ。
でも、吸わなければ。酸素を、彼に送るために。
「んんんんんーーーーーーッ!!」
叫びと共に、ありったけの力を下腹部に叩きつける。
全身の血管が切れるかと思った。
骨盤が砕け散るかと思った。
熱い塊が、通り抜けていく感覚。
内臓がひっくり返るような、強烈な違和感と、開放感。
ズルッ。
何かが、抜け出した。
身体から重みが消え、急激な脱力感が襲う。
私は枕に沈み込んだ。
終わった。
終わったのだ。
一瞬の静寂。
世界から音が消えたような、空白の時間。
その直後。
「オギャアアアアアアアアッ!!」
空気を裂くような、力強い声が響き渡った。
産声だ。
肺いっぱいにこの世界の空気を吸い込み、生命を主張する叫び。
その声には、微かに魔力の波動が乗っており、部屋のガラス窓がビリビリと震えた。
「……あ……」
私の目から、熱いものが溢れ出した。
生きている。
聞こえる。
私の、私たちの子供の声だ。
「……ほら、元気な男の子だよ!」
マーサさんが、白い布に包まれた「小さな塊」を掲げた。
しわくちゃで、赤くて、猿のような顔。
でも、濡れた髪は銀色に輝いている。
男の子。
レンだ。
「おめでとう、奥様。旦那様」
マーサさんが、綺麗に拭いた赤ちゃんを、私の胸の上にそっと置いた。
ずしり。
重い。
たった数キロの重みなのに、それが世界のすべてのように感じられた。
温かい体温。
トクトクと速い心臓の音。
ミルクのような、鉄のような、独特の匂い。
「……レン」
私が名前を呼ぶと、彼は「フギャッ」と短く鳴いて、小さな手で私の指を握った。
その握力は驚くほど強かった。
「……リリアーナ」
頭上から、震える声が降ってきた。
見上げると、サイラス様が泣いていた。
ボロボロと、止めどなく涙を流している。
あの冷静沈着な宰相の面影など微塵もない。
ただの、感極まった一人の父親の顔だ。
「ありがとう……。よく、頑張った……」
彼は言葉にならないようで、何度も「ありがとう」と繰り返した。
そして、恐る恐るレンの頬に指を伸ばした。
触れるか触れないか、ギリギリの距離で。
「……柔らかい。壊れてしまいそうだ」
「大丈夫ですよ。……ほら、貴方の魔力に反応しています」
レンが、サイラス様の指の方へ顔を向けた。
父親の気配が分かるのだろうか。
サイラス様は、ひっ、と息を呑み、それからくしゃりと笑った。
「……私に、似ているな」
「ええ。眉間の皺がそっくりです」
生まれたばかりなのに、何か難しいことを考えているような顔をしている。
間違いなく、彼の息子だ。
私は全身の力が抜け、心地よい倦怠感に包まれていた。
痛みは遠のき、代わりに満ち足りた幸福感が胸を満たす。
ふと、部屋が明るくなった気がした。
顔を向けると、カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいた。
夜が明けたのだ。
黄金色の光が、部屋を染めていく。
それは、新しい一日の始まりであり、私たちの新しい人生の幕開けでもあった。
「……綺麗ですね」
「ああ。……だが、君たちの方が綺麗だ」
サイラス様が、私とレンをまとめて抱きしめるように覆いかぶさる。
彼の体温と、レンの体温。
二つの温もりに挟まれて、私はこの上なく守られていると感じた。
「すごいですね、命というのは」
私は呟いた。
「どんな魔法術式よりも複雑で、どんな古代遺跡よりも神秘的です。……計算も、効率化もできない。ただ、そこに在るだけで尊い」
私はエンジニア気質だ。
理屈で説明できないものは苦手だった。
でも、今、腕の中にあるこの存在だけは、理屈抜きで受け入れられる。
愛おしい。
ただ、それだけが正解だ。
「……これから、忙しくなりますよ」
「望むところだ。すべて私に任せろ」
サイラス様が力強く答える。
まあ、オムツ替えとお風呂担当は任せよう。
でも、夜泣きの対応は交代制にしないと、彼が倒れてしまいそうだ。
「マーサさん、ありがとうございました」
部屋の隅で、道具を片付けていたマーサさんに声をかけた。
彼女は振り返り、ニカッと笑った。
「いいお産だったよ。……さあ、旦那様。いつまで泣いてるんだい。へその緒を切る仕事が残ってるよ」
「う、うむ! 任せろ!」
サイラス様が袖で涙を拭い、ハサミを受け取る。
その手が震えているのを、私は微笑ましく見守った。
窓の外では、小鳥たちがさえずり始めている。
世界が動き出す。
私の手帳には、今日の日付でこう記されることになるだろう。
『長男レン、誕生。母子ともに健康。……人生最高の繁忙期、スタート』
私はレンの小さなおでこに口づけをした。
ようこそ、私たちの世界へ。
ここは騒がしくて、忙しくて、でも最高に愛に溢れた場所よ。
心地よい眠気が襲ってくる。
少しだけ、休ませてもらおう。
次に目が覚めた時には、きっとまた、騒がしい日常が待っているはずだから。




